第13話 鍵
ポーレットが、来なかった朝があった。
代わりに、ジャクリーヌが、寝間着を替えに来た。「ポーレットは、町へ、買い物に出しました」と言って。
ジャクリーヌの手が、寝間着の裾で、止まった。
昨夜の裾だ。速歩で、五周した。落ちなかった。落ちなかったが、モーヴの腹の汗と、草地の露と、厩の藁は、裾につく。ポーレットが、毎朝、それを、何も言わずに落としていた。三か月。今朝は、ポーレットがいなかった。
ジャクリーヌは、裾を、指でつまんだ。
泥。草の汁。そして、長い、栗色の、毛。
馬の毛だ。
彼女は、それを、見た。私を、見た。
私は、寝台に座って、彼女を、見返した。何も、言わなかった。言うことが、なかった。三年、私は、言い訳をしたことがない。言い訳は、何かをした人がするものだ。私は、何もしない人だった。
「……お洗濯に、出します」
と、ジャクリーヌは言った。
それだけだった。眉は、動かなかった。眉が動かないほうが、動くより、怖い。三年で、それを、今日、覚えた。
その夜、十時。
私は、長靴を履いて、扉に手を掛けた。
開かなかった。
把手は、回った。扉は、動かなかった。私は、もう一度、押した。引いた。鍵だ。外から、掛けてある。
私の部屋の扉に、鍵があることを、私は、知っていた。三年、一度も、使われたことがなかった。使う必要がなかった。病人は、扉を開けない。鍵は、要らなかった。
今夜、要った。誰かが、そう判断した。
私は、扉の前に、立った。
立って、扉を見た。黒い木。三年、見てきた扉だ。内側から。今夜、初めて、それが、扉ではなく、壁に見えた。
病人は、閉じ込められない。
閉じ込める必要がないからだ。病人は、自分で自分を閉じている。三年、私は、そうだった。鍵は、要らなかった。私が、鍵だった。
今夜、私が鍵でなくなったので、鍵が、要った。それは、正確な出来事だと思った。正確で、冷たい。
私は、扉の前の床に、座った。
長靴のまま。膝を抱えて。
数えた。呼吸を。百まで。二百まで。教会の鐘が、十一時を打った。三百。
四十日のうち、一日が、今夜、消える。
あの人は、柵のところで、腕を組んで、待っている。「遅い」とも思わないかもしれない。「来ないのか」と思うかもしれない。「鍵だな」と、思うかもしれない。眠れない男は、街道を見ている。閉じられた窓の灯りも、見えるかもしれない。
胸の真ん中が、また、熱くなった。
この間、名前をつけたもの。怒り。二度目は、一度目より、名前が、すぐに来た。
鐘が、十一時半を打った。
鍵が、回った。
外から。小さな音で。私は、床から、立った。
扉が、開いた。
蝋燭を持って、ポーレットが、立っていた。
彼女は、私を見た。長靴を履いて、扉の前に立っている私を。
何も、言わなかった。中に入って、扉を、後ろ手に閉めた。蝋燭を、机に置いた。
それから、言った。
「裾の泥は、三か月、私が落としていました」
私は、彼女を見た。
四十五歳。病人係。この家で、いちばん下の仕事。
「……知っていたの」
「洗うのは、私ですから」
「なぜ、言わなかったの」
「奥様も、言われませんでしたから」
ポーレットは、机の蝋燭の横に、鍵を、一つ、置いた。
小さな、古い、鉄の鍵。
「リネン室の合鍵です。この階の扉は、全部、同じ錠前です。先代の奥様の頃からで、ジャクリーヌ様は、ご存じありません。ジャクリーヌ様は、この家に、十二年です。私は、十九年」
私は、鍵を見た。
ポーレットを見た。
「今朝、ジャクリーヌ様が、裾を、ご覧になりました。今夜から、鍵を掛けるように、と。旦那様のご指示、と言われましたが、旦那様は、今日、お帰りになっていません。ジャクリーヌ様が、お一人で、決められたのです」
「なぜ」
「奥様が、夜、外に出られて、誰かに見られたら。……病弱な奥様を三年預かってきたのは、ジャクリーヌ様です。その奥様が、夜、歩いておられたと知れたら、困るのは、あの方です」
困る。
この家は、私の顔色が良いと、困る人ばかりだ。ジャクリーヌも、その一人だった。私は、それを、知っていた。知っていたが、鍵を掛けるほど困るとは、思っていなかった。
「ポーレット。貴女は、困らないの」
「困ります」
彼女は、はっきり言った。
「見つかれば、私は、この家を出されます。十九年、この家で働きました。他に、行く所は、ありません」
「それなのに」
「三年、奥様のお着替えをしました」
ポーレットは、蝋燭を見ていた。私の顔ではなく。
「毎朝、毎夕。三年。奥様が、旦那様のお部屋に、一度も入っておられないことを、私は知っています。旦那様が、奥様のお部屋に、年に五分しかおられないことも。この家で、それを知っているのは、私と、ジャクリーヌ様と、旦那様だけです。……私は、それを、知っているだけの人でいるのが、嫌になりました。三か月前から」
「三か月前」
「最初の泥の朝です。奥様の裾に、泥がついていた。夜露で、濡れていた。私は、それを洗いながら、思いました。この人は、動いている。三年、動かなかった人が、動いている。……私は、それを、洗って、黙っていることに、しました。黙っているのは、得意ですから」
私は、何も言えなかった。
三年、この人は、私の隣で、私と同じことをしていた。黙って、知っていた。私が、床下の声を聞き、夫の馬車を数えている間、この人は、私の寝間着を替え、私の顔色を見て、黙っていた。
この家に、黙っている人は、一人ではなかった。二人いた。二人は、三年、同じ部屋で、互いに、黙っていた。
「鍵は、十一時に開けます。二時半に、掛けます。ジャクリーヌ様は、二時に一度、鼾が止まりますが、起きられません。十二年、そうです」
「……ポーレット」
「はい」
「なぜ、今夜、来たの。明日でも、よかったのに」
「奥様が、床に座っておられる音がしたからです。廊下の突き当たりまで、床は、音を運びます。……座って、動かない音でした。三年、聞いてきた音です。それを、もう、聞きたくないと思いました」
彼女は、扉を開けた。
廊下は、暗かった。
「お気をつけて。二時半までに」
私は、廊下に出た。十四段を、下りた。閂を上げた。
庭を横切って、生垣を抜けた。草地を、走った。走ると、五百歩は、二百歩になる。
彼は、柵のところに、いた。
腕を組んで。灯りが、足元にあった。私が来るのを見て、彼は、何も言わなかった。私が、息を整えるまで。
「遅かった」
と、それから言った。
「鍵が」
「……鍵か」
彼は、それだけ言って、少し、黙った。
「合鍵を作ったのは、誰だ」
「侍女です。三年、私の着替えをしていた人です」
「いい侍女だ」
「はい」
「侍女の名は」
「ポーレット」
彼は、頷いた。名を、覚える顔だった。この人は、馬の名を全部覚えている。人の名も、そうやって覚えるのだと思う。
「時間が、短くなった。十一時から二時半だな」
「はい」
「なら、鞍を載せる時間を、削る。俺が、先に載せておく。あなたは、来たら、すぐ乗る」
それだけだった。
鍵についての話は、それで終わった。この人は、鍵について、長い話をしなかった。伯爵についても、ジャクリーヌについても。ただ、稽古の段取りを、変えた。十一時から二時半で、できることを。
私は、モーヴに乗った。
速歩。十周。落ちなかった。
二時半に、部屋に戻った。
扉は、開いていた。私が入ると、外から、鍵が回った。小さな音。ポーレットの足音は、しなかった。あの人は、音を立てない。
私は、寝台に座って、閉じた扉を見た。
閉じ込められた部屋の鍵は、二つあった。一つは、私を閉じる鍵。一つは、私を出す鍵。
三年、私は、一つしかないと思っていた。しかも、それを、自分が持っていると思っていた。
二つ目を、持っている人が、廊下の突き当たりに、十九年、いた。
病人は、一人だ。私は、そう思っていた。それも、誰に言われたのでもない規則だった。今夜、消えた。




