第14話 書庫の条文
夫の書庫は、一階の、客間の奥にある。
先代の物だ。夫は、本を読まない。三年、ポーレットが、私のために、ここから本を運んでくれた。私は、この部屋に、入ったことがなかった。
十一時。鍵が回って、私は、十四段を下りた。
生垣へは、行かなかった。今夜は、書庫だ。夫は、歌劇の夜だ。三時まで帰らない。従僕は、十一時に厨房から戻って、玄関脇で寝る。書庫は、玄関から遠い。
蝋燭を、一本。
書庫は、天井まで棚だった。法律、農業、馬、詩、地理。私は、その並び方を、知っていた。ポーレットが運んでくる本の背に、棚の番号が、小さく書いてあったからだ。三年で、私は、この書庫の目録を、頭の中に作っていた。読んだ本の番号で。
法律の棚。三段目。
『王国婚姻法 註釈付』。革の背。埃。夫は、これを、開いたことがない。結婚した人が、婚姻法を読まない。それは、たぶん、普通のことだ。
私は、床に座って、蝋燭を横に置いて、開いた。
条文は、多かった。婚姻の成立。登録。婚資。相続。私は、目次を、指で辿った。「解消」の章。
離婚。有責。遺棄。
そして、その次に。
『第二十七条 婚姻の無効
婚姻が、登録の日より三年、成就せぬまま継続したとき、妻は、王室婚姻監督院に、その無効を申し立てることができる。
無効と認められた婚姻において、妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。
ただし、妻に不貞の過失があるときは、この限りでない。』
私は、三度、読んだ。
三年。
成就せぬまま。
私は、その言葉を、床下の声と並べた。妻は寝室を離れることもかなわず。日に日に弱り。病床にあり。三年。夫は、私の寝室に、年に五分。私は、夫の寝室に、一度も。成就。していない。三年。
妻は、申し立てることができる。
妻は。夫ではなく。
この条文は、妻のために書かれていた。二十七条。私が読んだ本の番号の中で、いちばん、私のために書かれた番号だった。
妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。
持参金。
金貨、一万枚。私は、その額を、知っている。応接間の扉の外で、母の声で聞いた。「それに見合った額を」。それが、一万枚だと、婚礼の日に、父が伯爵に渡す証書を、私は、馬車の中から見た。父は、証書を、まるで娘を渡すように、渡した。娘は、椀のように抱えられて、馬車の中にいた。
一万枚。
私は、隣の棚から、商人の手引き書を、一冊、抜いた。父の商いの本と、同じ種類の本だ。金貨一枚の重さ。私は、頁を繰った。あった。
計算した。三年、数えることしかしていない頭は、計算が速い。
一万枚で、大人一人分の重さになる。
私と、同じくらいの重さだ。
重い。
持てるようになっておかなければ、と思った。
思ってから、自分の思ったことに、少し、笑った。息だけで。書庫で、一人で。私は、この夏、随分いろいろな物を持てるようになった。牝馬の頭。梳き櫛。手綱。自分の身体。一万枚の金貨は、まだ、持ったことがない。
ただし。
私は、最後の一行を、もう一度、読んだ。
妻に不貞の過失があるときは、この限りでない。
不貞。過失。
私は、夜、隣の厩で、馬に乗っている。生垣を抜けて。閂を上げて。夫の知らないうちに。彼は、私の長靴の踝を、一度、支えた。革を通して。それだけだ。それだけだが、それを、不貞と呼ぶ人は、いるだろうか。
本には、書いていない。
書いていないことは、私が、考えなければならない。三年、私は、書いてあることだけを考えて生きてきた。書いてあることは、安全だ。書いていないことは、私の物だ。私の物は、この夏、増えた。危ないものも、含めて。
私は、本を、閉じた。
棚に、戻した。
背の埃の跡が、少し、ずれた。私は、それを、指で、元の位置に、直した。埃まで、元通りに。
病人は、条文を使わない。
そう、思っていた。棚に戻す手が、そう思っていた。私は、その手を、見た。三年、はい、と言ってきた手だ。今、その手は、二十七条を、棚に戻して、埃を、直した。
私は、まだ、規則を作っている。
消すのが速くなったのに、作るのも、やめていない。
書庫を出て、生垣を抜けた。
モーヴに乗った。速歩。十周。何も、言わなかった。彼も、何も言わなかった。彼が言わないのは、私が言わないからだ。この人は、人の口の少なさに、よく気づく。
翌日の夜。
私は、また、書庫へ行った。
二十七条を、開いた。今度は、紙とペンを持ってきていた。私の部屋の机の、三年使わなかったペンだ。「虚弱」と「――と、言われた」を書いた、あのペン。
写した。
一字ずつ。第二十七条。婚姻の無効。婚姻が、登録の日より三年。
字は、震えなかった。震えたのは、最初の一行だけだった。震えるのは、最初だけ。もう、知っている。
写した紙を、四つに折って、長靴の中に入れた。
左の長靴。踵のところ。歩くと、紙が、足の裏で、少し、鳴る。誰にも聞こえない音だ。私には、聞こえる。
草地で、彼が、私を見て、言った。
「昼を、持ってきているな」
「昼のことは、訊かないのでは」
「訊いていない。見えている、と言っている。あなたは、来たときに、いつも、まず、モーヴを見る。今夜は、俺を見た。それは、俺に、何か言うことがある人の順番だ。……言わなくていい。訊かない」
私は、モーヴを見なかった。
彼を、見たまま、言った。
「第二十七条」
彼は、瞬きをした。
「婚姻の無効。婚姻が、登録の日より三年、成就せぬまま継続したとき、妻は、王室婚姻監督院に、その無効を申し立てることができる。無効と認められた婚姻において、妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。ただし、妻に不貞の過失があるときは、この限りでない」
私は、全部、言った。
暗唱していた。写しながら、頭に入っていた。三年、数えることしかしていなかった頭は、覚えるのも、速い。
彼は、長く、黙った。
それから、口笛を、一つ、低く、吹いた。馬を呼ぶときの、短い口笛ではなかった。
「……法律か」
「法律です」
「俺は、法律を、あまり知らん。隊では、法律より、隊長の言葉が先だった。俺が、隊長だった。……だから、法律は、読める人間の物だと思っている。読めない奴には、ただの紙だ。あなたは、読める。読んで、覚えた。なら、それは、あなたの物だ」
彼は、そこで、止まった。
それから、いつもの調子で、続けた。
「――というのが、俺の考えで、俺の考えは、大抵、長くて、途中で人が寝る。あなたは、寝ないな。寝ないなら、もう一つ言う。で、どうする」
で、どうする。
私は、その問いを、受け取った。
誰も、私に、どうするか、と訊いたことがない。どうなるか、は、皆が決めた。母が、医者が、夫が、ディアーヌが、トランクが。どうするか、を、私に訊いた人は、二十三年で、この人が、初めてだった。
「分かりません」
と、私は言った。
正直に。この人の前では、それしか、言えない。演じない人の前では――いや、この人は、演じないというより、隠さない。隠さない人の前では、隠すことが、難しい。
「分からない、か」
「はい。まだ」
「まだ、なら、いい。まだ、は、ないとは違う」
彼は、モーヴの手綱を取って、私のほうへ引いてきた。
「四十日は、二十日になった。乗れ」
私は、乗った。
速歩。十周。それから、彼が、初めて、言った。
「駈歩」
速歩より、速い。揺れが、また、変わった。上下ではなく、大きく、前へ。私は、腰で受けた。受け損ねた。落ちなかった。モーヴが、走っていた。私が、その上で、走っていた。風が、来た。走って作る風より、速い風。
二時半に、部屋に戻った。
長靴を脱いだ。左の踵から、紙を出した。二十七条。汗で、少し、湿っていた。私の足の裏の形に、折り目が、柔らかくなっていた。
私は、それを、乾かして、また、長靴に入れた。
紙は、長靴の中で、私の歩き方を、覚えていく。私が、条文を、覚えたように。




