↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫が浮気の口実にした私の病弱は、本日をもって完治いたしました  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/27

第14話 書庫の条文

 夫の書庫は、一階の、客間の奥にある。

 先代の物だ。夫は、本を読まない。三年、ポーレットが、私のために、ここから本を運んでくれた。私は、この部屋に、入ったことがなかった。


 十一時。鍵が回って、私は、十四段を下りた。

 生垣へは、行かなかった。今夜は、書庫だ。夫は、歌劇の夜だ。三時まで帰らない。従僕は、十一時に厨房から戻って、玄関脇で寝る。書庫は、玄関から遠い。


 蝋燭を、一本。

 書庫は、天井まで棚だった。法律、農業、馬、詩、地理。私は、その並び方を、知っていた。ポーレットが運んでくる本の背に、棚の番号が、小さく書いてあったからだ。三年で、私は、この書庫の目録を、頭の中に作っていた。読んだ本の番号で。


 法律の棚。三段目。

 『王国婚姻法 註釈付』。革の背。埃。夫は、これを、開いたことがない。結婚した人が、婚姻法を読まない。それは、たぶん、普通のことだ。


 私は、床に座って、蝋燭を横に置いて、開いた。


 条文は、多かった。婚姻の成立。登録。婚資。相続。私は、目次を、指で辿った。「解消」の章。

 離婚。有責。遺棄。

 そして、その次に。


『第二十七条 婚姻の無効

 婚姻が、登録の日より三年、成就せぬまま継続したとき、妻は、王室婚姻監督院に、その無効を申し立てることができる。

 無効と認められた婚姻において、妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。

 ただし、妻に不貞の過失があるときは、この限りでない。』


 私は、三度、読んだ。


 三年。

 成就せぬまま。

 私は、その言葉を、床下の声と並べた。妻は寝室を離れることもかなわず。日に日に弱り。病床にあり。三年。夫は、私の寝室に、年に五分。私は、夫の寝室に、一度も。成就。していない。三年。


 妻は、申し立てることができる。

 妻は。夫ではなく。

 この条文は、妻のために書かれていた。二十七条。私が読んだ本の番号の中で、いちばん、私のために書かれた番号だった。


 妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。


 持参金。

 金貨、一万枚。私は、その額を、知っている。応接間の扉の外で、母の声で聞いた。「それに見合った額を」。それが、一万枚だと、婚礼の日に、父が伯爵に渡す証書を、私は、馬車の中から見た。父は、証書を、まるで娘を渡すように、渡した。娘は、椀のように抱えられて、馬車の中にいた。


 一万枚。

 私は、隣の棚から、商人の手引き書を、一冊、抜いた。父の商いの本と、同じ種類の本だ。金貨一枚の重さ。私は、頁を繰った。あった。

 計算した。三年、数えることしかしていない頭は、計算が速い。

 一万枚で、大人一人分の重さになる。

 私と、同じくらいの重さだ。


 重い。

 持てるようになっておかなければ、と思った。

 思ってから、自分の思ったことに、少し、笑った。息だけで。書庫で、一人で。私は、この夏、随分いろいろな物を持てるようになった。牝馬の頭。梳き櫛。手綱。自分の身体。一万枚の金貨は、まだ、持ったことがない。


 ただし。


 私は、最後の一行を、もう一度、読んだ。

 妻に不貞の過失があるときは、この限りでない。

 不貞。過失。

 私は、夜、隣の厩で、馬に乗っている。生垣を抜けて。閂を上げて。夫の知らないうちに。彼は、私の長靴の踝を、一度、支えた。革を通して。それだけだ。それだけだが、それを、不貞と呼ぶ人は、いるだろうか。

 本には、書いていない。

 書いていないことは、私が、考えなければならない。三年、私は、書いてあることだけを考えて生きてきた。書いてあることは、安全だ。書いていないことは、私の物だ。私の物は、この夏、増えた。危ないものも、含めて。


 私は、本を、閉じた。


 棚に、戻した。

 背の埃の跡が、少し、ずれた。私は、それを、指で、元の位置に、直した。埃まで、元通りに。

 病人は、条文を使わない。

 そう、思っていた。棚に戻す手が、そう思っていた。私は、その手を、見た。三年、はい、と言ってきた手だ。今、その手は、二十七条を、棚に戻して、埃を、直した。

 私は、まだ、規則を作っている。

 消すのが速くなったのに、作るのも、やめていない。


 書庫を出て、生垣を抜けた。

 モーヴに乗った。速歩。十周。何も、言わなかった。彼も、何も言わなかった。彼が言わないのは、私が言わないからだ。この人は、人の口の少なさに、よく気づく。


 翌日の夜。

 私は、また、書庫へ行った。

 二十七条を、開いた。今度は、紙とペンを持ってきていた。私の部屋の机の、三年使わなかったペンだ。「虚弱」と「――と、言われた」を書いた、あのペン。


 写した。

 一字ずつ。第二十七条。婚姻の無効。婚姻が、登録の日より三年。

 字は、震えなかった。震えたのは、最初の一行だけだった。震えるのは、最初だけ。もう、知っている。


 写した紙を、四つに折って、長靴の中に入れた。

 左の長靴。踵のところ。歩くと、紙が、足の裏で、少し、鳴る。誰にも聞こえない音だ。私には、聞こえる。


 草地で、彼が、私を見て、言った。


「昼を、持ってきているな」

「昼のことは、訊かないのでは」

「訊いていない。見えている、と言っている。あなたは、来たときに、いつも、まず、モーヴを見る。今夜は、俺を見た。それは、俺に、何か言うことがある人の順番だ。……言わなくていい。訊かない」


 私は、モーヴを見なかった。

 彼を、見たまま、言った。


「第二十七条」


 彼は、瞬きをした。


「婚姻の無効。婚姻が、登録の日より三年、成就せぬまま継続したとき、妻は、王室婚姻監督院に、その無効を申し立てることができる。無効と認められた婚姻において、妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。ただし、妻に不貞の過失があるときは、この限りでない」


 私は、全部、言った。

 暗唱していた。写しながら、頭に入っていた。三年、数えることしかしていなかった頭は、覚えるのも、速い。


 彼は、長く、黙った。

 それから、口笛を、一つ、低く、吹いた。馬を呼ぶときの、短い口笛ではなかった。


「……法律か」

「法律です」

「俺は、法律を、あまり知らん。隊では、法律より、隊長の言葉が先だった。俺が、隊長だった。……だから、法律は、読める人間の物だと思っている。読めない奴には、ただの紙だ。あなたは、読める。読んで、覚えた。なら、それは、あなたの物だ」


 彼は、そこで、止まった。

 それから、いつもの調子で、続けた。


「――というのが、俺の考えで、俺の考えは、大抵、長くて、途中で人が寝る。あなたは、寝ないな。寝ないなら、もう一つ言う。で、どうする」


 で、どうする。

 私は、その問いを、受け取った。

 誰も、私に、どうするか、と訊いたことがない。どうなるか、は、皆が決めた。母が、医者が、夫が、ディアーヌが、トランクが。どうするか、を、私に訊いた人は、二十三年で、この人が、初めてだった。


「分かりません」


 と、私は言った。

 正直に。この人の前では、それしか、言えない。演じない人の前では――いや、この人は、演じないというより、隠さない。隠さない人の前では、隠すことが、難しい。


「分からない、か」

「はい。まだ」

「まだ、なら、いい。まだ、は、ないとは違う」


 彼は、モーヴの手綱を取って、私のほうへ引いてきた。


「四十日は、二十日になった。乗れ」


 私は、乗った。

 速歩。十周。それから、彼が、初めて、言った。


「駈歩」


 速歩より、速い。揺れが、また、変わった。上下ではなく、大きく、前へ。私は、腰で受けた。受け損ねた。落ちなかった。モーヴが、走っていた。私が、その上で、走っていた。風が、来た。走って作る風より、速い風。


 二時半に、部屋に戻った。

 長靴を脱いだ。左の踵から、紙を出した。二十七条。汗で、少し、湿っていた。私の足の裏の形に、折り目が、柔らかくなっていた。

 私は、それを、乾かして、また、長靴に入れた。

 紙は、長靴の中で、私の歩き方を、覚えていく。私が、条文を、覚えたように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。