第15話 妹の舞踏会
夫が、私の部屋に来た。
結婚記念日ではない。秋の初めの午後だ。三年で、初めての、記念日以外の訪問だった。
彼は、寝台の足元に立った。いつもの場所に。
「秋の終わりに、南の療養院へ行ってもらう」
と、彼は言った。
「海辺だ。空気が良い。ルグラン先生も、勧めている。……君のためだ」
「はい」
「支度は、ジャクリーヌが。君は、何もしなくていい」
「はい」
「では」
三分。
今年は、合わせて、八分になる。彼が出ていったあと、私は、それを数えた。三年で、十八分。人生で夫と過ごした時間が、十八分の人は、王国にどれくらいいるだろう。数える方法がない。
はい、と私は言った。
二度。
言いながら、自分の口を、聞いていた。この、はい、は、従った、だ。来る、ではない。私は、二種類の、はい、を、この夏、覚えた。今日のは、古いほうだった。古いほうを、私は、まだ、言える。言えることと、言いたいことは、別だ。それも、この夏、覚えたことだ。
母から、手紙が来た。年に二通の、二通目。
『レオニー
オーロールの初めての社交界が、明日になりました。伯爵様が、後見人のお名前をくださいました。貴女が言ってくれたのね。ありがとう。
貴女は来なくていいの。来られないでしょうけれど。
ドレスは三着。オーロールは、貴女の分まで、綺麗よ。
母』
私は、言っていない。
夫の年に五分の中で、私は、妹の後見人の話をしていない。母が、直接、夫に頼んだのだ。夫は、受けた。病弱な妻の妹を後見する献身的な夫。それは、彼にとって、良く見える。良く見えることを、この人は、断らない。
母は、私が言ったと思っている。ありがとう、と書いている。私は、母から、ありがとう、と言われたのが、初めてだったかもしれない。していないことに対して。
貴女の分まで、綺麗よ。
私は、その一行を、二度読んだ。三度は、読まなかった。三度読む必要のある文ではなかった。
舞踏会の夜、この家は、空になった。
夫は、七時に出た。ジャクリーヌが、玄関で、夫の外套の肩を直しているのが、窓から見えた。夫は、今夜、歌劇の顔ではなかった。後見人の顔だった。良く見える顔。
従僕は、夫の馬車に付いていった。厨房の者は、早く寝た。ジャクリーヌの鼾は、九時に始まった。今夜は、早い。主人のいない家の家政婦は、早く寝る。
十時。鍵が、回った。
いつもより、一時間、早かった。ポーレットは、何も言わなかった。私も、言わなかった。今夜は、三時の馬車がない。舞踏会は、明け方まで続く。夫は、朝まで、帰らない。それを、二人とも、知っていた。
草地で、彼は、二頭に鞍を載せて、待っていた。
モーヴと、もう一頭。灰色の、大きな馬。
「丘へ、行く」
と、彼は言った。
「今夜は、時間がある。あなたの家は、空だ。……街道から、そう見えた。窓に、灯りが二つしかない」
草地の向こうに、丘がある。ヒースの丘。ラランドの領地は、その丘まで続いている。私は、それを、窓から、三年、見ていた。昼の色で。夜の色で。行ったことは、ない。
私は、モーヴに乗った。三で。
彼は、灰色の馬に乗った。一で。騎兵は、一で乗る。
草地を出て、緩い坂を、上った。
ヒースが、馬の脚を、擦った。乾いた匂いがした。夏の終わりの、草の匂い。モーヴの歩みが、坂で、少し、変わった。前に、傾く。私は、腰で受けた。受け方が、坂用に、変わった。身体が、自分で、変えた。
丘の上に、出た。
風が、あった。
草地の風とは、違った。遮るものがない風。私の髪を、全部、後ろに持っていった。
そして、下に、町があった。
灯りが、たくさん。
町の真ん中に、いちばん明るい所があった。窓が、全部、灯っている屋敷。馬車が、その前に、並んでいる。小さく。ここから見ると、玩具の馬車だ。
「あれが、妹の舞踏会です」
と、私は言った。
「実家の、町屋敷です。今夜、妹が、初めて、社交界に出ます。三着、着替えます。青と、白と、薄い金色」
彼は、灰色の馬の上で、町を見ていた。
「あなたは」
「出ていません。十六のとき。母が、舞踏会は貴女には長すぎる、と」
彼は、何も言わなかった。
言わない時間が、少し、続いた。
「踊れるか」
と、それから、訊いた。
「知りません。見ただけです。窓から、妹の稽古を」
「俺も、踊れない」
彼は、灰色の馬から、降りた。
「騎兵の踊りしか、知らん」
「騎兵の踊りとは」
「馬の周りを、回る」
私は、彼を見た。
彼は、本気の顔だった。この人は、冗談を言うとき、本気の顔をする。本気のことを言うときも、本気の顔をする。区別がつかない。だから、私は、いつも、本気として受け取ることにしている。
降りた。
モーヴが、丘の上で、立った。風の中で、動かずに。
「右回りだ。俺は、反対から。馬の頭で、会う。会ったら、また、離れる。それだけだ。隊の焚き火で、酒が入った奴が、やる」
私は、モーヴの右肩から、歩いた。
彼は、左肩から。
モーヴの尾を回って――いや、彼が尾を回って、私が頭を回って、モーヴの向こう側で、彼が、見えなくなった。
馬の頭のところで、会った。
彼が、そこにいた。腕を組んで。私は、立ち止まった。
「……離れる、のですね」
「離れる」
離れた。
また、回った。会った。離れた。
三度目に、私は、笑った。声が出た。丘の上で、風の中で、老いた馬の周りを、二人で、意味もなく回りながら。
妹は、今、町の真ん中で、青いドレスで、踊っている。誰かの腕の中で。私は、ここで、馬の周りを回っている。どちらが良いか、私は、知らない。彼も、知らないと言うだろう。ただ、私は、今夜、笑った。
四度目、馬の頭のところで、彼が、言った。
「あの馬車を、見ろ」
町から、街道へ、出てくる灯りが、二つ。
馬車の灯りだ。
「伯爵の馬車だ」
「……分かるのですか」
「灯りの色で。あの家の馬車の灯りは、少し、赤い。二年、見ている」
馬車は、街道を、来た。
この丘の下を、通る道だ。町から、ベルヴューの屋敷へ帰る道。でも、屋敷の手前で、道は、分かれる。一本は、屋敷へ。一本は、シャンボール未亡人の屋敷へ。
馬車は、分かれ道で、曲がった。
屋敷ではないほうへ。
鐘が、十二時を打った。
舞踏会は、明け方まで続く。妹は、まだ、踊っている。三着のうち、たぶん、まだ二着目だ。後見人は、いない。後見人の名は、招待状に、印刷されているだけだ。印刷された名は、踊らない。
「妹の、初めての舞踏会にも」
と、私は、言った。
「夫は、最後まで、いなかった」
彼は、何も言わなかった。
馬の頭の、向こう側で、腕を組んだまま。
私は、その馬車の灯りが、シャンボールの屋敷の門に消えるまで、見ていた。
胸の真ん中が、熱かった。怒りだ。三度目。名前が、すぐに来る。ただ、今夜の怒りは、私のためのものではなかった。それに、私は、少し、驚いた。
「私は、少し、妹の味方になりました」
と、私は、言った。
彼は、頷いた。
「妹は、知らんだろうな」
「知りません。妹は、私のことを、何も知りません」
「なら、あなたが、知っておけばいい。味方は、知られていなくても、味方だ」
彼は、灰色の馬に、一で、乗った。
私は、モーヴに、三で、乗った。
丘を、下りた。
草地を横切って、生垣を抜けて、閂を上げて、十四段を上がった。ポーレットは、廊下の突き当たりで、起きていた。灯りが、見えた。私が部屋に入ると、鍵が回った。
トランクが、衣装箱の隣に、立っていた。
もう、荷は、詰められている。ジャクリーヌが、この一週間で、詰めた。私の物ではない物ばかりだ。療養地用の、新しい肌着。新しい部屋着。新しい室内の靴。全部、南で病人をするための物だった。
私の物は、衣装箱の底に、ある。
長靴。左の踵に、紙。
私は、それを、確かめた。あった。
あと、十日。
妹は、今夜、社交界に出た。私は、今夜、丘に出た。同じ夜に。
母は、貴女の分まで、と書いた。妹が、私の分まで綺麗なら、私は、妹の分まで、丘に出たことになる。数え方が、合っているかは、分からない。合っていなくても、今夜は、それでよかった。




