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夫が浮気の口実にした私の病弱は、本日をもって完治いたしました  作者: 星舟能空


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第16話 出ます

 療養院からの書状は、客間で、読まれた。

 夫と、ルグラン医師と、二人で。私は、床の上で、聞いた。


「――受け入れの日は、十日後。朝、馬車で。三日の道程。付き添いは、療養院から看護婦が一人、王都で合流する」

「妻の、同意は」

「要りません、伯爵。病人ですから。ご家族の判断で結構です。……それに、奥様は、何にでも、はい、とおっしゃる方ですから」


 医師が、少し、笑った。

 夫は、笑わなかった。


「妻のためだ」


 と、彼は言った。三度目だ。私は、数えている。妻のためだ、と、この人が言った回数を。三度。全部、この秋。三年、一度も言わなかった言葉を、この秋、三度。人は、良く見えない事をするときに、良く見える言葉を、使い始める。それも、床の下で覚えたことだ。


 夜。

 私は、モーヴに乗らなかった。

 柵のところに立って、彼に、全部、話した。


 書状のこと。十日後の朝。三日の道程。看護婦。同意は要らない。何にでも、はい、と言う方ですから。

 彼は、聞いた。腕を組んで。灯りの横で。話の途中で、一度も、口を挟まなかった。この人が、人の話を途中で遮らないのは、聞いているときだ。私の話は、長くなかった。三年、はい、しか言っていない口は、長く話せない。それでも、全部、話した。


 話し終えると、彼は、言った。


「で、どうする」


 二度目だ。

 一度目は、条文を暗唱した夜。私は、分かりません、と答えた。まだ、と。


「……分かりません」


 と、私は、言った。

 言って、自分の声を聞いた。三年、はい、と言ってきた口が、今、分かりません、と言った。それは、はい、より、少しだけ、良い言葉だった。でも、まだ、私の言葉ではなかった。分からない、は、分かっている人が、言わないだけのときにも、使う。


 私は、息を、吸った。

 胸の真ん中が、熱かった。四度目。名前は、もう、探さない。


「いいえ」


 と、私は言った。


「分かっています。言ったことが、ないだけです」


 彼は、腕を、解いた。


「言え」


 一語だった。

 命令だった。この人が、私に命令したのは、手綱の持ち方と、腰で受けろ、と、鐙、だけだった。全部、馬のことだ。今夜、初めて、馬ではないことを、命じた。


「出ます」


 と、私は言った。


 二文字。

 声は、大きくなかった。震えもしなかった。震えるのは最初だけで、最初は、十四段の一段目で、もう、済んでいた。


 病人は、この家を出ない。

 三年で、私が、いちばん厚く塗った規則。母の声でも、誰の声でもない。私の声で、私が、毎日、塗り直してきた。塗り直すほど、安全だった。安全なことは、良いことだと、教えられた。

 今夜、それを、二文字で、剝がした。剝がすのは、塗るより、速い。


 彼は、頷いた。

 一度。それから、いつもの調子に、戻った。


「どこへ」

「王都へ。婚姻監督院へ。二十七条を、申し立てます」

「歩いてか」

「……歩いて」

「歩く距離じゃない。王都まで、男の脚で三日、女の脚で四日。街道で、四晩、寝ることになる。宿がある所ばかりじゃない。馬なら、一日半だ」


 彼は、厩のほうを、顎で示した。


「モーヴを、貸す」

「借ります」

「貸す、と言った」

「借ります。返します」


 私は、そう言った。

 もらう、と、借りる、は、違う。三年、私は、もらってきた。粥を。部屋を。安静を。療養院を。もらったものは、返せない。返せないものは、私を、その場所に留める。借りたものは、返せる。返せるものは、私を、動かす。


 彼は、少し、私を見た。


「……利子は」

「利子」

「借りるなら、利子がある。それが、貸し借りの決まりだ。北でも、南でも、王都でも」


 私は、考えた。

 私の持っている物で、利子になる物。長靴。左の踵の紙。硬い手のひら。青い痣。全部、私の物だが、渡せる物ではない。


「仔馬の名を、教えてください」


 と、私は言った。


「ゲリ――」


 彼は、そこで、止まった。ソワールの仔の名を、彼は、この夏、二度、言いかけて、止めている。私は、その二度を、覚えている。


「――返したときに」


 と、彼は言った。


「モーヴを、返しに来たときに。それが、利子だ。名は、あなたが、この家に、モーヴを引いて帰ってきた日に、言う」

「それは、貴方の利子ではなく、私の利子です」

「そうだ。俺の利子は、あなたが、返しに来ることだ。それでいい」


 私は、何も言えなかった。

 この人は、隠さない。隠さない人が言うことは、そのまま、来る。そのまま来た言葉を、私は、どこに置けばいいか、分からなかった。分からないものは、確かめる。確かめる方法は、返しに来ることしかない。


「バティストを、つける」


 彼は、話を、段取りに戻した。


「腹は、治った。老いた馬丁と、女が、馬で二人。誰も、何も言わない。俺が付けば、言う。俺は、行かない」

「はい」

「王都に、馬を預けられる厩がある。騎兵の馬監の家だ。ヴィダル。うちの馬を買っている。バティストが、知っている」

「はい」

「証拠は」


 私は、書庫のことを、話した。

 後援会の年次報告書。三年分。夫の手紙が、印刷されている。妻は病床にあり。妻は日に日に弱り。妻は寝室を離れることもかなわず。全部、夫の名で。

 書庫の、法律の棚の隣の、薄い冊子の列に、それはある。三冊。ポーレットが、この間、確かめてくれた。


「持っていくのか」

「持っていきます」

「伯爵の物だ」

「後援会が、印刷して、配った物です。何百部も。そのうちの一部は、私の名で寄付された金で刷られています。……三年分のうち、一部くらいは、私の物です」


 彼は、笑った。

 声を出して。この人が、声を出して笑うのを、私は、初めて聞いた。低くて、短くて、すぐ止まった。


「――法律は、読める奴の物だ、と言ったが」


 彼は、まだ、少し、笑っていた。


「あなたは、読みすぎだ。読みすぎて、伯爵の本棚まで、自分の物にした」

「一部です」

「一部でも」


 二時半に、部屋に戻った。

 ポーレットが、廊下の突き当たりで、待っていた。灯りを持って。私は、初めて、彼女の小部屋の前まで、行った。


「ポーレット」

「はい」

「十日後の朝。鍵を、五時に、開けてください。十一時ではなく」

「……五時に」

「はい」


 ポーレットは、私を見た。長靴を履いた私を。

 何も、言わなかった。頷いただけだった。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。今夜、頷いた。それも、いろいろなことの、一つだ。彼女が、それをどう受け取ったか、私は、訊かなかった。訊かなくても、五時に、鍵は、開く。


 部屋で、机に、紙を出した。

 三年、使わなかった机。虚弱、と書いた紙。二十七条を写した紙。今夜、三枚目。


 書いた。


『本日をもって、完治いたしましたので、退院いたします。』


 一行。

 私は、それを、見た。

 完治。私は、病気ではなかった。だから、治ったのではない。ただ、病人であることを、今日、やめる。それを、一語で言うなら、完治だ。医師は、虚弱、と言った。私は、完治、と言う。値札を、剝がして、別の札を、自分で貼る。

 退院。この部屋は、三年、病室だった。病室を出るのは、退院だ。


 その下に、署名を、しようとした。

 手が、止まった。


 三年、私は、署名をしていない。最後に書いたのは、婚礼の日の、婚姻登録簿だ。レオニー・ド・ベルヴュー。あの日、初めて書いた名を、それから三年、一度も書いていない。


 私は、別の紙に、書いてみた。

 レオニー・ド・ベルヴュー。

 字が、震えた。最初だけ。二度目は、震えなかった。三度目、私は、その名を、伯爵夫人の名として、書いた。この紙は、伯爵夫人が、この家に残す、最後の紙だ。だから、伯爵夫人の名で、署名する。それが、正しい。私の名だけで書くのは、この家を出たあとだ。


 紙を、四つに折って、長靴の左の踵、二十七条の下に、入れた。

 長靴を、寝台の脇に、揃えて置いた。トランクの隣に。

 トランクは、南へ行く支度が、済んでいる。

 長靴は、王都へ行く支度が、済んでいる。

 二つの箱が、並んでいた。片方は、革で、大きくて、私の物ではない物が詰まっている。片方は、革で、小さくて、私の物が、二枚、入っている。


 四十日は、十日になった。

 十日は、今夜、一日ずつ、減り始めた。


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