第17話 退院通知
五時に、鍵が回った。
ポーレットが、入ってきた。
外套を着ていた。手に、小さな包み。足に、長靴。
私は、寝台の脇に立って、彼女を見た。
「……ポーレット」
「私も、参ります」
彼女は、包みを、寝台の上に置いた。開いた。
中は、乗馬服だった。暗い緑の、古い型の。裾が、長い。上着の袖が、少し、擦れている。
「先代の奥様の物です。十九年、屋根裏にありました。丈を、直しました。奥様のほうが、少し、背が高い」
「いつ」
「この十日で。夜に。奥様が、生垣の向こうにおられる間に」
私は、乗馬服を見た。
誰にも頼まれずに、屋根裏から出して、夜に、丈を直した服。頼まれないことを、黙ってする人が、この家に、私の他に、一人いた。私は、それを、鍵の夜に知った。今朝、もう一つ知った。その人は、頼まれないことを、私のために、していた。三年。いや、十日。いや、たぶん、両方だ。
「十九年、この家にいたのでしょう」
「はい。十九年、知っているだけの人でした。奥様が、旦那様のお部屋に一度も入っておられないことを、知っているだけの」
ポーレットは、私の顔を見た。まっすぐ。
「王都に、それを、知っていると言える場所があるのなら、私は、そこへ行きます。……証人が、要るでしょう」
証人。
私は、その言葉を、この人から聞くとは思っていなかった。婚姻監督院の話を、私は、ポーレットにしていない。五時に鍵を、としか言っていない。
でも、この人は、三か月、私の裾の泥を落とし、十日、私の乗馬服の丈を直した。五時、と、乗馬服、と、王都で、あの人は、全部、繋いだのだと思う。黙っている人は、知っている人だ。知っている人は、繋ぐ。
「行く所は、ないと、言っていました」
「はい。ですから、作ります。奥様が、作られるなら、私も」
私は、乗馬服を着た。
ポーレットが、後ろの釦を留めた。三年、毎朝、寝間着の釦を留めてきた指が、今朝、乗馬服の釦を留めた。同じ指で。同じ速さで。
丈は、合っていた。
机の上に、紙を、置いた。
いや、枕の上に。
ジャクリーヌが、朝、粥を持って来て、最初に見る場所は、枕だ。私の顔があるはずの場所。今朝、そこには、紙がある。
『本日をもって、完治いたしましたので、退院いたします。
レオニー・ド・ベルヴュー』
私は、部屋を見た。
最後に。
天井の染み。三年、いちばん長く見た物。少し、広がった。私より速く育つ物。
蔦。窓枠を越えて、天井のそばまで。強壮酒がなくなったら、あれはどうなるだろう。見てみたかった。見られない。それは、置いていく物の中で、いちばん惜しい物だった。
トランク。南への支度。革の匂い。置いていく。中の物は、全部、私の物ではない。
私の物は、着ている。乗馬服の下に、硬い手のひらと、青い痣と、鞍の形の痛みと。長靴の左の踵に、二十七条。
十四段を、下りた。
数えた。
最後だから、数えた。十四。三年で、初めて、下りたのは、春だった。一段だけ。死ななかった。今朝、十四段、下りた。ポーレットが、後ろから、音を立てずに、ついてきた。
閂を、上げた。
両手で。腕は、震えなかった。
庭は、まだ、暗かった。東が、少し、灰色になっている。見えない庭を、横切った。草が、長靴の脛を打った。露は、長靴を通らない。
生垣の切れ目で、ポーレットが、止まった。
「……ここを」
「ここを」
「奥様は、三か月、ここを」
「五か月です」
ポーレットは、枝を、両手で分けて、身体を横にして、通った。十九年、この家の壁の内側にいた人が、生垣を抜けた。抜けて、草地に立って、後ろを見た。イチイの黒い壁。それから、前を見た。草地。厩。灯り。
何も、言わなかった。あの人は、何も言わない。ただ、乗馬服の裾についた葉を、手で払った。私のではなく、自分の外套の。
厩の前に、三頭いた。
モーヴ。鞍が載っている。
灰色の大きな馬。バティストが、乗っている。老いた馬丁は、私に、帽子を少し上げた。腹は、治ったらしい。
そして、小さな二輪の荷車を引く、栗毛。荷台に、油布と、包みが二つ。
「侍女は、荷車だ」
ガスパールが、言った。
厩の扉の前に、立っていた。いつもの上着。眠っていない顔。この人は、いつも眠っていない顔だが、今朝は、それが、いつもより、はっきりしていた。
「バティストが、御す。あなたは、モーヴで、横を。三日。宿は、バティストが知っている。王都では、ヴィダル馬監の厩へ。金は、バティストが持っている。……借りだ。利子は、同じ」
「はい」
「同じ、というのは、返しに来る、だ」
「はい」
ポーレットが、荷車に、乗った。
バティストが、「奥方の侍女殿は、荷車は初めてか」と訊いた。ポーレットは、「はい」と答えた。バティストは、「わしは、口が少ない。子爵は、多い。合わせて、丁度だ。荷車の三日は、静かだぞ」と言った。ポーレットは、何も言わなかった。丁度、だと思う。
私は、モーヴのそばに、立った。
三で、上がろうとした。
「待て」
彼が、来た。
鐙の、革の長さを、見た。手を、伸ばした。
「乗馬服だと、脚の位置が変わる。少し、短くする」
彼は、鐙の革を、一つ、詰めた。
それから、私の左の長靴の、踝に、手を添えた。
下から。支えた。
革を通して、大きな手の形が、分かった。二度目だ。一度目は、初めて鞍に上がった夜。今朝が、二度目。彼が、私に触れたのは、二度。二度とも、長靴だった。
「一、二、三」
三で、私は、上がった。
鞍の上から、彼を、見下ろした。彼の頭が、私の膝の高さにある。いつもの高さ。夜に、何度も見た高さ。朝の光の中で見るのは、初めてだった。眠っていない顔は、朝の光の中では、少し、若く見えた。
彼は、手を、鐙から離した。
半秒、遅れて。
「夜に、帰ってこい」
と、彼は言った。
「モーヴを返しに。利子を、取りに」
私は、手綱を、握った。硬い手のひらで。
「昼に、来てください」
と、私は言った。
彼は、私を、見上げた。
この人は、昼を持っていない。真夜中から明け方まで眠れず、明け方から昼まで眠る。王都へ、昼に行くことは、この人にとって、私が階段を下りることと、同じくらい、遠い。
私は、それを知っていて、言った。この人が、私に、手を貸してくれ、と言ったときと、同じ言い方で。頼む言い方で。
「昼は、ひどい」
と、彼は言った。
「知っています」
「……考える」
それだけだった。
彼は、一歩、下がった。モーヴの頭の横から、離れた。私と、モーヴだけになった。夜に、何度も、そうなったように。
バティストが、荷車を、動かした。
私は、モーヴの腹を、脚で、軽く押した。モーヴが、歩いた。
ラランドの門を、出た。
街道に出て、東へ向いたとき、太陽が、丘の上に、出た。
馬の上で見る日の出を、私は、知らなかった。
寝台の高さでは、窓の下の縁が、太陽を隠す。私は三年、太陽が窓枠の上に来てから、朝を知った。
馬の上は、高い。丘の縁から、太陽の、最初の一片が出るところを、私は、見た。全部。
目が、痛かった。三年、朝の太陽を、正面から見ていない目だ。痛くて、涙が出た。涙が出るのは、目が、使われているからだ。使ったものは、痛む。
振り返らなかった。
振り返れば、厩の前に、眠っていない顔の人が、立っているだろう。腕を組んで。私が街道の先に消えるまで、動かずに。それは、振り返らなくても、見えた。
今朝の光の中で、モーヴの背で、私は、伯爵夫人の名で署名した最後の紙を、枕の上に置いてきた女だった。まだ、他の名は、ない。
王都まで、三日。三日のあいだに、名を、考える。考える時間は、ある。馬の上で。寝台の上ではなく。




