第18話 王都婚姻監督院
一日目の夜、私は、知らない寝台で寝た。
街道の宿。二階の小さな部屋。寝台は、硬くて、狭くて、枕が一つしかなかった。
私は、二十三年、自分の寝台以外で寝たことがない。実家の寝台と、伯爵家の寝台と。どちらも、私を病人だと知っている寝台だった。
この寝台は、私を知らなかった。
私を、疲れて泊まった、乗馬服の女だと思っていた。
その通りだった。太腿の内側が、鞍の形に痛い。腰が、痛い。手のひらは、硬いのに、その上から、また、痛い。私は、痛みを、一つずつ、数えた。数えているうちに、眠った。数え終わらないうちに眠るのは、初めてだった。
二日目は、雨だった。
ポーレットは、荷車の油布の下にいた。バティストは、帽子の縁から雨を落としながら、御していた。私は、モーヴの上で、濡れた。乗馬服は、雨を、少しは弾いた。先代の奥様は、良い布を選んだ人だったらしい。
バティストは、三日で、たぶん、二十語しか喋らなかった。
そのうちの十語が、二日目の昼だった。
「子爵は、口が多い。わしは、少ない。合わせて、丁度だ。奥方は、どっちだ」
「……少ないほうです」
「なら、子爵と、丁度だな」
それだけだった。
私は、モーヴの首に、雨が流れるのを、見ていた。丁度、という言葉を、私は、雨の中で、しばらく、持っていた。
三日目の午後、王都が、見えた。
壁だった。
最初に見えたのは、壁。石の。長い。それから、その上に、塔と、屋根と、煙。近づくと、音が、来た。車輪と、蹄と、人の声と、鐘と、何か分からない音。全部、混じって、一つの音になっている。
私は、この音を、知らなかった。本で、王都の描写を、たぶん、五十は読んだ。音のことは、書いてなかった。書いてあっても、分からなかっただろう。音は、読めない。
門を、通った。
匂いが、変わった。人と、馬と、煙と、パンと、下水と、花。全部、同時に。私は、モーヴの上で、それを、吸った。病人は、王都の匂いを吸わない。もう、数えない規則の、一つだ。
ヴィダル馬監の厩は、王宮の裏の、騎兵の宿舎の隣にあった。
バティストが、門番に、何か言った。門番が、中へ走った。出てきたのは、馬監ではなく、厩の頭らしい、大きな男だった。
彼は、モーヴを、見た。
私ではなく、モーヴを。首の付け根の、焼き印を。
「ラランドの」
と、彼は言った。
「ラランドの馬だ。あの人は、馬を売っても、貸さん。……奥方は、どういう」
「借りました」
と、私は言った。
「返します」
男は、私を見た。乗馬服と、長靴と、三日の雨と埃を。何か言いかけて、バティストを見て、やめた。バティストが、帽子を、少し上げた。それで、話は、通ったらしい。老いた馬丁の帽子は、この王都で、私の名より、通る。
モーヴは、厩に入った。良い厩だった。私の実家の応接間より、広い。
私は、モーヴの首に、手を置いた。三日、私を運んだ首。
「借りたので」
と、私は、モーヴに言った。
「返します。返すまで、ここで」
モーヴは、目を細めた。何も言わない目で。
王室婚姻監督院は、王宮の西にあった。
白い石の建物で、正面に、柱が六本。婚姻の登録も、解消も、無効も、全部、ここで扱う。本で、読んだ。本には、柱の数は書いてなかった。私は、数えた。六。
中は、静かだった。
高い天井。長い廊下。木の扉が、番号の順に並んでいる。私は、「申立て」と書かれた扉を、見つけた。ポーレットが、後ろにいた。バティストは、外で、荷車を見ている。
扉の中に、書記がいた。
痩せた、五十くらいの男。眼鏡。羽根ペン。書類の山。私を見て、それから、ポーレットを見て、それから、また、私を見た。
「ご用件を」
「婚姻の無効を、申し立てに参りました。第二十七条により」
書記は、眼鏡を、少し、上げた。
「……ご本人が」
「はい」
「奥様は、どちらの」
「ベルヴュー伯爵夫人、レオニーです。旧姓、ソレル」
書記の羽根ペンが、止まった。
この王都で、私の名を知っている人が、どれくらいいるか、私は知らない。でも、ベルヴュー伯爵の名は、知られている。献身的な夫。慈善の。妻は、病床に。書記の顔に、それが、通った。
「……伯爵夫人が、お一人で」
「侍女と、馬丁と、三人で。馬で、三日」
「ご主人は」
「存じません。私は、枕の上に、紙を残して出てきました」
書記は、羽根ペンを、置いた。
一秒、動かなかった。想定していないことが起きると、人は、一秒、動かなくなる。私は、それを、この一年で、何度も見た。医師。夫。ジャクリーヌ。この書記。全員、同じ一秒。
「……申立ての、理由を」
「婚姻が、登録の日より三年、成就せぬまま継続しています。三年と、半年」
「証拠は」
私は、ポーレットのほうを見た。ポーレットが、包みから、三冊の薄い冊子を出して、机に置いた。
「聖アンヌ施療院後援会の、年次報告書です。三年分。伯爵の寄付の手紙が、印刷されています。一年目、『妻は病床にあり』。二年目、『妻は日に日に弱り』。三年目、『妻は寝室を離れることもかなわず』。……全部、伯爵の名で」
「これは、奥様の病状の証明では」
「はい。夫が、三年間、私の寝室に入れなかった理由の証明でもあります。夫は、そう公言しています。何百部も、印刷して」
書記は、冊子を、開いた。
読んだ。三冊。眼鏡の奥で、目が、少し、大きくなった。
「それから、この人が、証人です」
ポーレットが、一歩、前に出た。
「ポーレットと申します。伯爵家で、十九年。奥様の侍女を、三年。毎朝、毎夕、奥様のお着替えをいたしました。奥様と旦那様の寝室は、階段の右と左で、三年、一度も、行き来がございませんでした。……私は、それを、知っております」
彼女は、それだけ言った。
三年、黙っていた人が、王都の白い建物で、三十語、言った。声は、震えなかった。震えるのは最初だけで、この人の最初は、たぶん、鍵の夜に済んでいた。
書記は、長く、私たちを見た。
それから、新しい紙を、出した。
「申立書を、作成します。奥様、ここに、署名を」
私は、ペンを取った。
三日前、枕の上に置いた紙以来、二度目の署名。レオニー・ド・ベルヴュー。震えなかった。この名を、あと、何度書くのだろう。この申立てが通れば、この名は、なくなる。なくなる名を書くのは、少し、変な感じがした。変な感じは、悪い感じではなかった。
「審理は、三十日後。伯爵を、召喚します。奥様は、王都に留まってください。連絡先を」
「……まだ、ありません。今日、着きました」
「明日、届けてください」
「はい」
監督院を出ると、夕方だった。
王都の夕方は、音が、変わる。昼より、低くなる。私は、それを、六本の柱の間で、聞いた。
「奥様」
ポーレットが、言った。
「宿を、決めます。今夜から」
「お金が」
「あります」
彼女は、外套の内側から、小さな革の袋を出した。
「十九年で、金貨八枚。貸します。利子は、要りません」
「なぜ」
「利子を取ると、子爵様と同じになってしまいますから」
ポーレットは、そう言った。
冗談を言ったのかどうか、私には、分からなかった。この人は、十九年で、たぶん、一度も冗談を言っていない。今日が、一度目かもしれない。私は、それを、一度目として受け取ることにした。受け取って、少し、笑った。声が出た。柱の間で。
宿は、職人の街の、二階だった。
窓から、屋根が、たくさん見えた。人の屋根。私の部屋の窓からは、車寄せと、庭と、生垣しか見えなかった。今夜の窓は、屋根だ。数えた。三十まで数えて、やめた。多すぎる。星と同じだ。
バティストは、馬監の厩に泊まると言って、帰った。「奥方、三十日後に、わしは、また来る。子爵が、そうしろと言うだろうから」。二十語のうちの、最後の十語だった。
夜、私は、知らない寝台で、二度目に、寝た。
三十日。
私は、三年、待った。待つのは、得意だ。三十日は、待てる。
ただ、今度は、寝台の上で待たない。
私は、明日、この街を、歩く。長靴で。連絡先を届けに行き、それから、行ける所まで。王都を歩く病人はいない。私は、病人ではない。それを、明日、王都に、歩いて見せる。誰も見ていなくても。
枕を、抱えなかった。抱える物が、なかった。なくても、眠れた。




