第19話 幕間・何もしなかった男(フェリクス視点)
紙は、枕の上にあった。
ジャクリーヌが、それを、盆に載せて持ってきた。粥の椀の隣に。粥は、まだ、湯気を立てていた。
『本日をもって、完治いたしましたので、退院いたします。
レオニー・ド・ベルヴュー』
私は、三度、読んだ。
一度目は、意味が分からなかった。完治。退院。妻は、病人だ。病人が、完治、と書く。
二度目は、字を見た。私は、妻の字を知らなかった。三年、妻の書いた物を、見たことがない。婚姻登録簿の署名だけだ。あれは、震えていた。この字は、震えていない。
三度目に、私は、それが、どう見えるかを考えた。妻が、家を出た。療養地へ行く十日前に。それは、どう見えるか。
錯乱、と見える。
病弱な妻が、療養を前に、心を乱して、家を出た。それは、気の毒に見える。私が、気の毒に見える。
私は、そう思った。最初に。
最初に思ったことが、その人の本当のことだ、と誰かが言った。誰だったか。ディアーヌだったかもしれない。
私は、二階へ上がった。
十四段。数えたことはない。今朝、なぜか、途中で数え始めて、やめた。
妻の部屋の扉は、開いていた。鍵は、掛かっていなかった。ジャクリーヌは、五時に開いていたと言った。開けたのは、侍女だ。侍女も、いない。
部屋に、入った。
寝台。乱れていない。枕が、一つ。
トランク。南への支度。革の匂い。
窓。開いている。
そして、蔦。
寝台の下の鉢植えから、窓枠を越えて、天井のそばまで、伸びていた。私は、その蔦を、見上げた。なぜ、こんなに育つのか、分からなかった。寝室で、日も乏しく、水も粥の残りだろうに。分からないものを、私は、分からないまま、見ていた。
天井に、染みがあった。
大きい。寝台の真上。妻は、三年、これを見ていたのか。私は、この部屋で、天井を見上げたことがない。年に五分、寝台の足元に立って、妻の顔を見て、それで、出た。天井は、見ない。天井を見るのは、寝ている人だ。
私は、部屋の真ん中に、立っていた。
どれくらいか、分からない。ジャクリーヌが、下から、呼びに来た。「旦那様、ルグラン先生が」。
五分は、過ぎていた。たぶん、ずっと。
私は、この部屋に、こんなに長くいたことがなかった。妻が、いないときに、初めて、いた。それが、どう見えるかは、考えなかった。誰も、見ていなかったからだ。
ジャクリーヌの報告は、粥の後だった。
「侍女のポーレットも、おりません。荷物が、なくなっております。それから――」
彼女は、少し、言葉を選んだ。
「この夏から、奥様の寝間着の裾に、泥が。草の汁。馬の毛が、一度。夜、鍵を掛けるようにいたしましたが、……庭師が、夜、生垣の切れ目に、人影を見たと。二度。生垣の向こうは、ラランド子爵の、厩でございます」
ラランド。
隣の。夜に馬を見ている、変わった男。騎兵だった、と聞いている。会ったことは、二度ある。父の葬儀と、境界の井戸の件で。口が多くて、話が終わらない男だった。私は、話の途中で帰った。
「妻が、夜、隣へ」
「……そのように、見えます」
見える。
ジャクリーヌは、私の言葉を、使った。この家では、私の言葉が、皆の言葉になる。三年、そうだった。
私は、書斎に、下りた。
椰子に座って、考えた。
私は、妻に、何もしなかった。
それは、事実だ。静かな部屋を、与えた。医者を、月に一度。強壮酒を。粥を。時間を。妻は、長くない人だった。義母が、そう言った。二十五までは、と。私は、それを、信じた。信じて、何もしなかった。長くない人に、できることは、少ない。傷つけもしなかった。怒鳴りもしなかった。妻の部屋に、女を入れたこともない。ディアーヌは、この家の敷居を、跨いだことがない。それは、私の礼儀だった。
私は、何もしなかった。
それが、私の、言い分だ。
言い分、と自分で思って、私は、少し、止まった。
言い分が要るのは、責められる人だ。私は、責められていない。妻は、完治、と書いて、出ていった。責める言葉は、一つもなかった。
それなのに、私は、書斎で、言い分を、考えていた。誰に向けて、かは、分からなかった。
十日後、監督院から、召喚状が来た。
『ベルヴュー伯爵夫人レオニーより、第二十七条に基づく婚姻無効の申立てあり。審理は二十日後。伯爵の出頭を求める。』
二十七条。
私は、法律を読まない。読んだのは、ディアーヌだった。彼女は、その夜、この家の敷居を、初めて跨いだ。跨いで、書庫から婚姻法を出して、二十七条を、声に出して読んだ。
「――妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する」
彼女の声が、そこで、止まった。
「一万、よ」
「……」
「一万枚。あるの」
「ない」
「どこへ」
「屋敷の抵当を、外した。父の借金を。それから――」
それから、の先を、私は言わなかった。ディアーヌも、訊かなかった。彼女は、自分の首にある物の値段を、知っている。会計係だ。
「ただし」
彼女は、続きを、読んだ。
「妻に不貞の過失があるときは、この限りでない。……過失。不貞」
彼女は、私を見た。
「あの人は、夜、隣の男の所へ通っていたのでしょう。ジャクリーヌが、そう言ったのでしょう。それは、不貞に見えるわ」
「見える」
「見えれば、いいの。監督院は、見える物を見る。不貞なら、持参金は、返さなくていい。一万は、残る。……フェリクス。あなたは、被害者に見える。病弱な妻を三年養って、その妻に、裏切られた夫に」
私は、その言葉を、聞いた。
被害者に見える。良く見える。
安堵した。それは、本当だ。胸の中で、何かが、緩んだ。一万枚が、残る。屋敷が、残る。
安堵した自分の、胸の音を、私は、聞いた。
良い音ではなかった。
私は、それを、聞かなかったことにした。聞かなかったことについては、何も考えなくていい。三年、私は、二階の天井の染みについて、そうしてきた。
「ジャクリーヌに、全部、話させる。裾の泥。馬の毛。庭師の見た影。隣の男。……それが、私の、申し立てだ」
「そうして」
ディアーヌは、婚姻法を、閉じた。
閉じて、書庫の棚を、見た。法律の棚の隣の、薄い冊子の列。
「あら」
と、彼女は言った。
「報告書が、ない。三年分。……今年のだけ、ある」
私は、棚を見た。
聖アンヌ施療院後援会、年次報告書。私の手紙が印刷されている冊子。一年目、二年目、三年目が、ない。四年目――今年、秋に刷られた分だけが、あった。
私は、それを、取った。
開いた。私の寄付の頁。私の名。私の手紙。ディアーヌが、響きがいい、と言った文。
『妻は寝室を離れることもかなわず、私は妻に代わり――』
私は、その一行を、読んだ。
妻は、寝室を離れることもかなわず。
私が、書いた。いや、ディアーヌが言葉を選んで、私が、書いた。私の名で。何百部。後援会の婦人たちの、胸に残るように。
妻は、夜、隣の男の所へ通っていた。
妻は、寝室を離れることもかなわなかった。
二つの文を、私は、書斎で、並べた。
並べると、片方が、嘘になる。どちらが嘘かは、私が、監督院で、選ぶことになる。
「……誰も、慈善の報告書など、読まないわ」
ディアーヌが、私の顔を見て、言った。
「監督院の書記は、法律を読むの。報告書は、読まない」
私は、頷いた。
頷いて、報告書を、棚に戻した。三冊が消えた列の、端に。
三冊は、どこにある。妻が、持って出たのだ。妻は、三年、書庫の本を読んでいた。侍女が運んでいた。私は、それを、知っていた。知っていて、何とも思わなかった。病人が、本を読む。それだけのことだ。
何を読んでいたか、私は、一度も、訊かなかった。
その夜、私は、義父母に、手紙を書いた。
娘が、家を出た。王都の監督院へ。婚姻無効を申し立てている。持参金の件も含む。すぐに、王都へ。
短い手紙だった。私は、手紙が短い。
書き終えて、私は、気づいた。
三年で、妻について、自分の手で書いた手紙は、これが初めてだった。報告書の手紙は、ディアーヌの言葉だ。これは、私の言葉だ。
私の言葉で書いた妻の話は、妻が出ていった、だった。
それ以外に、私は、妻について、書くことを、持っていなかった。三年で。何もしなかったからだ。それが、私の、言い分だ。言い分が、三年分、この一行に収まっていることに、私は、封をしてから、気づいた。




