第20話 実家
父と母は、審理の一週間前に、王都へ来た。
監督院を通して、面会を求めてきた。私は、監督院の控室で、と答えた。私の宿ではなく。宿は、私の物だ。まだ、誰にも、入らせていない。
控室は、白い石の部屋だった。窓が一つ。椰子が四つ。机が一つ。
私は、立っていた。
座らなかった。座ると、病人に見える。見えることを、私は、三年、床の下で学んだ。今日は、それを、自分のために使う。
母が、先に入ってきた。
扇。香水。神経。三年前と、同じ順番で。
父が、後ろから。塩商いの、大きな身体。金で買った男爵の、上着。
母は、私を見て、止まった。
「……レオニー」
私は、乗馬服を着ていた。先代の奥様の、暗い緑。ポーレットが、この一か月で、もう一度、丈を直した。私の肩が、一か月で、少し、広くなったからだ。長靴。三日の雨と、三十日の王都の埃で、革が、色を変えている。
顔は、日に焼けていた。夜の草地では焼けない。王都を、昼に、歩いたからだ。三十日。毎日。
「貴女、何を――」
「お母様。お父様。おかけください」
私が、言った。
二人は、座った。座って、と言われたから、座ったのではないと思う。想定していないことが起きて、一秒、動かなくなって、それから、座る場所があったから、座ったのだ。
私は、立ったままだった。
「貴女は、病人なのよ」
母が、言った。
三年前と、同じ言葉。十七年前と、同じ言葉。母の持っている、私についての、唯一の言葉。
「はい。そう、言われていました」
「言われていた、ではないでしょう。貴女は、六歳のときに――」
「六歳のときに、熱を出しました。医者は、心臓が弱っているかもしれない、と言いました。かもしれない、と。お母様は、かもしれない、を、聞かれなかった」
母の扇が、止まった。
「私は、今年、王都まで、馬で来ました。三日で」
「……馬」
「馬です。夜に、五か月、乗りました。速歩で十周しても、心臓は、打っています。速く。強く。壊れる打ち方ではなく、動いている打ち方で」
母は、何も言わなかった。
母の顔から、神経が、少し、落ちた。神経は、母の持ち物の中で、いちばん大きな物だ。それが落ちると、母は、五十を過ぎた、扇を持った女だった。私は、その顔を、初めて見た。
「持参金だ」
父が、言った。
父は、話が速い。商人だ。
「一万枚。我々が、払った。無効なら、返還は、我々に――」
「法は、妻本人、と書いています」
「何」
「第二十七条。無効と認められた婚姻において、妻の実家より持参された財産は、妻本人に帰属する。……お読みになりますか。写しを、持っています」
私は、長靴の左の踵から――ではない。もう、そこには入れていない。乗馬服の内側から、紙を出した。二十七条の写し。五か月、長靴の中で、私の歩き方を覚えた紙。
父は、それを、見なかった。
「読んだ」
と、父は言った。
「商人は、金の行き先の法は、読む。……妻本人だ。書いてある」
父は、私を見た。
娘が、法律を暗唱している。塩商いの家の、動かない娘が。父の顔に、それが、通った。母より、速く。商人は、事実の通りが速い。
「お前が、読めるとは、思っていなかった」
「三年、他に、することがありませんでした」
父は、何も言わなかった。
しばらく。
それから、私の手を、見た。
私の手は、乗馬服の袖から出て、机の端に、置いてあった。硬い手のひらは、見えない。見えるのは、手の甲の、日焼けと、指の関節の、少し太くなった形。綱を握る手の形だ。
「……働いたな」
と、父は、言った。
小さく。
「塩の袋を担ぐ手だ。若い頃の、わしの手だ」
私は、父を見た。
父は、私の手から、目を離さなかった。それは、値札を見る目ではなかった。父が、私を、値札以外のもので見たのは、たぶん、生まれて初めてだった。
働いた手。病人の手、とは、言わなかった。
それは、父が私に言った言葉の中で、いちばん正確な言葉だった。
「オーロールの縁談が」
母が、扇を、開いた。
神経が、戻ってきた。
「公爵家の、ご令息と、話が進んでいるの。秋の舞踏会で、お目に留まって。……姉が、婚姻無効なんて、醜聞だわ。公爵家は、そういうことを、いちばん――」
「妹の縁談に」
私は、言った。
「私の病気を、使わないでください」
母の扇が、また、止まった。
「十七年、使ってきたのでしょう。病弱な姉のために、妹の支度を急いでいます。病弱な姉がいるので、妹を早く片づけたいのです。病弱な姉の代わりに、妹には、良い縁を。……全部、床の下で聞きました。応接間の扉の外で聞きました。母の手紙で、読みました。貴女が静かにしていてくれるおかげで、家は順調です、と」
私は、一つ、息を吸った。
「今日で、完治しました。ですから、今後、私の病気は、使えません」
母は、立った。
「取り下げなさい」
「いいえ」
一語だった。
二十三年で、母に、いいえ、と言ったのは、初めてだった。口の中で、その言葉は、知らない形をしていなかった。五か月、夜に、たくさんの知らないことをした口だ。いいえ、は、その中では、小さいほうだった。
「レオニー」
「いいえ、お母様。取り下げません。二十七条は、妻のために書かれています。私は、妻でした。三年、成就しないままの。それは、伯爵が、三年、印刷して配りました。私は、それを、監督院に、出しました」
母は、扇を持ったまま、私を見ていた。
長く。
母が私を、こんなに長く見たのは、六歳の熱のとき以来だと思う。あのとき、母は、泣いていた。今日は、泣いていなかった。
「貴女」
と、母は、言った。
「誰に、似たの」
私は、少し、考えた。
考える必要は、なかった。答えは、決まっていた。ただ、それを、この人に言う言葉を、探した。
「誰にも」
と、私は言った。
「三年、誰にも、会っていませんでしたから」
母は、何も言わなかった。
扇を閉じて、扉へ、歩いた。父が、立った。父は、扉の前で、振り返った。私の手を、もう一度、見た。
それから、言った。
「……法は、妻本人だ。商人は、法に、逆らわん」
それだけだった。
それが、父の、全部だった。父は、私に味方したのではない。法に、従ったのだ。塩の商いで、三十年、そうしてきた人だ。私は、それを、味方と呼ばないことにした。呼ばなくても、父は、母より先に、扉を出なかった。母を、先に出した。それも、たぶん、父の、全部だった。
二人が出ていって、控室は、静かになった。
ポーレットが、隅に、立っていた。ずっと、いた。何も、言わなかった。
「奥様」
「はい」
「お座りに、なりますか」
「……いいえ。歩きます」
私は、監督院を出た。
六本の柱。王都の昼。音。匂い。
歩いた。
三十日、私は、この街を歩いた。連絡先を届けに行った翌日から、毎日。長靴で。職人の街から、王宮の裏の厩まで。モーヴに会いに。それから、川まで。橋を、七つ、渡った。数えた。三十日で、王都の橋を、全部、渡った。
今日は、川へ行った。
欄干に、手を置いた。硬い手のひらを、石に。
働いた手。
父は、そう言った。私は、その言葉を、川の上で、持っていた。父が私に渡した物の中で、たぶん、それだけが、値札ではなかった。一万枚の持参金は、値札だった。乗馬服も、長靴も、モーヴも、二十七条も、父の物ではない。父が渡したのは、あの三語だけだ。
私は、それを、受け取ることにした。母の、誰に似たの、と一緒に。誰にも似ていない、働いた手。それが、今日、実家が私に置いていった物の、全部だった。
悪くなかった。三年前の実家は、私に、革のトランクしか置いていかなかった。




