第21話 印刷された寝室
審理室は、白かった。
壁も、床も、天井も。天井には、染みが、なかった。私は、入ってすぐ、それを確かめた。三年の癖だ。癖は、王都まで、ついてくる。
正面に、監督官が座っていた。六十くらいの、白髪の男。その横に、あの書記。眼鏡。羽根ペン。
右手に、夫。
黒い上着。三年、年に五分見てきた顔。今日は、五分より、長く見ることになる。彼は、私を見て、一秒、動かなかった。乗馬服と、長靴と、日焼けを。それから、良く見える顔に、戻った。
夫の後ろに、ジャクリーヌ。
傍聴の席に、ディアーヌ。それから、父と母。母の扇は、動いていなかった。
私の横に、ポーレット。
私は、立っていた。
「申立人。お座りになって結構です」
と、監督官が言った。
「立っていられますので」
と、私は答えた。
監督官は、少し、私を見た。それから、頷いた。
「申立ての、要旨を」
私は、短く、言った。
結婚は三年半前。夫と私の寝室は、階段の右と左。三年半、一度も、行き来がない。婚姻は、成就していない。二十七条により、無効を申し立てる。
「証拠を」
私は、机の上の三冊を、取った。
そして、歩いた。
審理室の、私の席から、監督官の机まで。二十歩。私の歩幅で。白い床に、長靴の音が、した。私は、それを、監督官と、夫と、傍聴席の全員に、聞かせた。歩く音を。寝室を離れることもかなわない妻の、歩く音を。
三冊を、監督官の前に置いた。
「聖アンヌ施療院後援会の、年次報告書です。三年分。夫の寄付の手紙が、印刷されています。書記の方に、読み上げていただけますか。夫の名の、頁を」
監督官が、頷いた。
書記が、一冊目を、開いた。
「『――妻は病床にあり、私は妻に代わり、この寄付を――』。ベルヴュー伯爵、フェリクス」
二冊目。
「『――妻は日に日に弱り、私は――』。ベルヴュー伯爵、フェリクス」
三冊目。
「『――妻は寝室を離れることもかなわず、私は妻に代わり――』。ベルヴュー伯爵、フェリクス」
審理室は、静かだった。
書記の声だけが、三度、夫の名を読んだ。
監督官が、夫を見た。
「伯爵。これは、貴方の言葉ですか」
「……はい」
「三年、奥様は、寝室を離れられなかった。そう、書いておられる」
「妻は、病人でした。療養のため、部屋で――」
「その寝室に、伯爵は、どれくらい」
夫は、答えなかった。
私が、答えた。
「年に、五分です。結婚記念日に。今年は、療養地の件で、三分、増えました。三年半で、合計、十八分です」
傍聴席で、誰かが、息を呑んだ。
母だと思う。母は、私が夫と何分話すか、訊いたことがない。今日、監督院で、知った。
「証人、ポーレット」
ポーレットが、一歩、出た。
十九年、黙っていた人が、白い部屋で、喋った。三年、毎朝毎夕、奥様のお着替えをした。寝室は、右と左。一度も。旦那様のお部屋の寝具を替えるのは、別の者で、その者も、同じことを申します。
彼女の声は、震えなかった。二度目だからだ。
監督官が、羽根ペンを取った。
書き始めた。無効、という字が、たぶん、その中にある。私は、それを、見ていた。二十歩先から。
「監督官殿」
夫が、言った。
「申し上げたいことが」
良く見える声だった。客間の声。床下で、三年、聞いた声。
「妻は、療養を前に、心を乱して、家を出ました。錯乱しているのです。無効の申立ては、病人の――」
「奥様は、王都まで、馬で三日、いらしたと聞いています」
監督官が、言った。
「錯乱した病人は、馬で三日、来ない」
夫は、一秒、止まった。
それから、言った。
「私は、妻に、何もしなかった」
審理室が、静かになった。
夫は、自分の言葉を、聞いた。聞いて、言い直した。
「――いえ。私は、妻を、三年、養いました。静かな部屋と、医者と、時間を。傷つけたことは、一度も。それは、証人の侍女も、認めるでしょう」
ポーレットは、何も言わなかった。認めもしなかった。彼女は、訊かれたことにだけ、答える。
「ですが」
夫は、続けた。
ここからだ、と、私は思った。彼の声が、変わった。良く見える声から、良く見せる声に。私は、その違いを、聞き分けられる。三年分の耳がある。
「妻には、過失があります」
彼は、私を見なかった。監督官を見ていた。
「妻は、夜、隣の男の元へ、通っていました。この夏、五か月。家政婦が、証言します。……第二十七条の、ただし書きです。妻に不貞の過失があるときは、この限りでない」
ジャクリーヌが、前に出た。
寝間着の裾の泥。草の汁。馬の毛が、一度。庭師が、夜、生垣の切れ目に人影を見た。二度。鍵を掛けたが、鍵は、開いていた。生垣の向こうは、ラランド子爵の厩。子爵は、夜、起きている男。
審理室が、ざわめいた。
傍聴席で、ディアーヌの口が、少し、動いた。笑みだった。会計係の。数字が、合った顔。
不貞。
私は、その言葉を、白い部屋で、受け取った。
私に、向けられた。生まれて初めて、この言葉が、私に。三年、病弱、と呼ばれた。今日、不貞、と呼ばれた。どちらも、私が選んだ言葉ではない。どちらも、夫の口から出て、印刷されるか、記録されるかする言葉だ。
胸の真ん中が、熱くなった。五度目。
私は、それを、顔に出さなかった。出す必要がなかった。私は、立っていた。立っている人は、怒っているように見えない。座っていた人が立つと、怒っているように見える。私は、最初から、立っていた。
「重大な、主張です」
監督官が、羽根ペンを、置いた。
「申立人。反論は」
「私は、夜、隣の厩に行きました。五か月。それは、事実です」
私は、言った。
ざわめきが、止まった。夫が、私を見た。初めて、この部屋で。
「馬に、乗っていました。夜に。夫が、歌劇の時刻に、家を出ている間に。……不貞かどうかは、私には、分かりません。本には、書いてありませんでした。監督官殿が、お決めになることです」
監督官は、長く、私を見た。
「隣人を、召喚します。ラランド子爵。十日後に、続行」
審理は、そこで、止まった。
宿に戻って、私は、机に、紙を出した。
ポーレットが、蝋燭を置いて、下がった。何も言わずに。
あの人に、書く。
召喚状は、監督院から行く。私が書かなくても、あの人は、十日後、ここに立つことを求められる。昼に。王都で。真夜中から明け方まで眠れず、明け方から昼まで眠る人が。
私は、書いた。
事実だけ。今日の日付。審理のこと。報告書を読み上げたこと。夫が、不貞を主張したこと。生垣、泥、馬の毛、庭師。十日後に続行。召喚状が行くこと。
事実は、短かった。あの人の話と、逆だ。
それから、ペンが、止まった。
来なくていい。
そう、書こうとした。
あの人は、昼を持っていない。王都まで三日。昼の街道。昼の王都。昼の白い部屋。私が知っているあの人は、夜の草地の、灯りの横の人だ。それを、この白い部屋に、引きずり出すのは、私の申立てだ。私が、二十七条を暗唱したから、あの人は、召喚される。
来なくていい。
書けば、あの人は、来ないかもしれない。来ないでも、監督院は、たぶん、ポーレットの証言と、宿帳――いや、この王都に、宿帳はない。厩の台帳が、あるかもしれない。分からない。
書けなかった。
ペンが、動かなかった。理由は、はっきりしていた。
来なくていい、と書けば、私は、あの人の昼を、決めることになる。
私は、私の昼を決めるために、ここにいる。三年、他人に決められた昼を、自分で決めるために、馬で三日、来た。それなのに、他人の昼を、私が決める。それは、違う。私が、母と、夫と、ディアーヌと、トランクにされたことを、あの人にする。それは、私の物ではない。
私は、来なくていい、と、書かなかった。
来てください、とも、書かなかった。門で、一度、言った。昼に、来てください、と。二度は、言わない。頼むのは、一度でいい。二度頼めば、それは、頼みではなく、催促だ。あの人は、一度で、聞く人だ。聞いて、考える、と言った。考えるのは、あの人の物だ。
署名を、した。
レオニー。
それだけ。ド・ベルヴューは、書かなかった。あの人に、私は、最初から、レオニー、だった。ソワールの夜に、名は、と訊かれて、そう答えた。あの人の前で、私は、一度も、伯爵夫人の名で呼ばれていない。だから、書かない。この名だけで、届く。
封をした。
明日の朝、監督院の使者と、同じ馬車で、北へ出る。三日。着くのは、召喚状と、同じ日だ。
寝台に入って、私は、天井を見た。
染みのない天井。
不貞、という言葉を、私は、もう一度、口の中で言ってみた。声には出さずに。知らない形をしていた。三年、病弱、が私の名だった。今日、別の名を、夫が用意した。私は、どちらも、着ない。
着るものは、乗馬服と、長靴と、硬い手のひらだ。それだけが、私の名だ。十日後、白い部屋で、それだけで、立つ。




