第33話 番外・三年の着替え(ポーレット視点)
私は、口が少ない。
十九年、ベルヴュー家にいて、一年に言った言葉を数えたら、たぶん、百に足りない。数えたことはない。数えるのは、奥様の癖だ。私の癖は、黙ることだ。
病人係になったのは、三年前だ。
新しい奥様が来る。病弱で、長くない。部屋から出ない。粥を運び、髪を梳き、着替えをさせる者が、一人、要る。ジャクリーヌ様が、私を選んだ。理由は、一つだ。私が、黙るから。病人の部屋には、黙る者がいい。
最初の朝、枕が、乱れていなかった。
二つある枕の、片方が。私は、それを見た。奥様は、私が見たのを見た。二人とも、何も言わなかった。それが、私たちの三年の、始まりだった。
三年、毎朝、毎夕、着替えをさせた。
着替えをさせる者は、身体を見る。それが、仕事だ。
最初の一年、奥様の身体は、細かった。粥で暮らす身体だ。二年目も。三年目の春まで。
三年目の初夏、変わった。
手のひらに、水疱。それから、硬い皮。腰に、青い痣。太腿の内側に、鞍の形の赤み。私は、鞍の形を知っている。先代の奥様が、乗馬をなさる方だった。その着替えも、私がした。十六年前。
誰よりも先に、私は、知った。ジャクリーヌ様より、旦那様より、医者より。この人は、夜、馬に乗っている。
何も、言わなかった。黙るのは、得意だ。
裾の泥は、最初の朝から、私が落とした。
夜明けに。洗濯場で。誰も起きていない時刻に。私は、洗うのが速い。十九年、速い。三か月、一度も、ジャクリーヌ様の目に触れなかった。触れた朝は、私が町へ出された朝だ。私が、いなかったからだ。それだけだ。
夏の終わりに、屋根裏へ上がった。
先代の奥様の物は、全部、私が畳んだ。十六年前。どこに何があるか、知っている。使用人の古い長靴も、乗馬服も。長靴は、衣装箱の底に、入れた。乗馬服は、丈を直した。夜に。奥様が、生垣の向こうにおられる間に。
頼まれていない。
頼まれないことをするのは、この家で、奥様と、私だけだった。奥様は、階段を下りることを。私は、丈を直すことを。同じ家の、同じ階で、三年、二人とも、黙って、頼まれないことをしていた。互いに、知らないで。
鍵の夜、私は、行った。
扉の前に、座っておられる音がした。廊下の突き当たりまで、床は音を運ぶ。座って、動かない音。三年、聞いてきた音だ。もう、聞きたくなかった。
合鍵を、持って行った。リネン室の。十九年、持っていた鍵だ。使う日が来るとは、思っていなかった。
知っているだけの人でいるのが、嫌になった。そう、言った。
十九年で、いちばん長く喋った夜だった。それでも、たぶん、百語に足りない。
王都の白い部屋で、私は、三十語、言った。
三年、毎朝毎夕、奥様のお着替えをいたしました。寝室は、右と左。一度も。
声は、震えなかった。震えるのは最初だけで、私の最初は、鍵の夜に済んでいた。
旦那様の顔を、見た。
三年、この家で、旦那様は、私を見たことがない。侍女は、見ない物だ。白い部屋で、旦那様は、私を見た。見て、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。私が、三年、言わなかったことを、白い部屋で言った。それは、旦那様にとって、想定していないことだった。想定していないことが起きると、人は、一秒、動かなくなる。奥様が、いつも、そう言っておられた。
王都で、二度、笑った。
六本の柱の間で、一度。傾いた厩の前で、一度。
十九年で、二度目と三度目だったと思う。一度目は、覚えていない。王都でしか笑えないらしい、と奥様は言われた。そうかもしれない。ベルヴュー家では、笑う理由がなかった。理由がなければ、笑わない。それだけのことだ。
番人になった。
乗馬会の。傾いた厩の屋根を直し、柵を直し、十三人の娘の長靴の泥を落とす。娘たちは、奥様と同じ泥をつけて帰る。私は、それを、夜明けではなく、昼に、洗う。隠さなくていい泥は、昼に洗える。それが、この一年で、いちばん、変わったことだ。
三週間、夜明けに、門を開けた。
妹君のために。奥様には、黙って。奥様は、知っておられた。厩の藁が、減っていたからだ。知っていて、何も言われなかった。黙るのは、二人とも、得意だ。
春の観閲で、妹君は、片目の葦毛で、大路を通られた。落ちなかった。背筋だけ、伸ばして。私は、公園の門で、予備の馬を持って、それを見た。ソレル男爵夫人の扇が、膝に落ちるのも、見た。私は、扇が落ちるのを見るのが、たぶん、好きだ。理由は、考えない。
式の夜、荷車で、丘に上がった。
荷車は、二度目だ。静かで、悪くない。
奥様の髪を、梳いた。
三年、毎夕、梳いた髪だ。この一年、王都で、また、毎夕、梳いた。今夜、花嫁の髪として、梳いた。松明の横で。
梳きながら、話さなかった。
三年、そうだった。一年、そうだった。今夜も、そうだった。話さないのが、私たちの話し方だ。話す人たちは、話さない人たちが何を話しているか、知らない。それでいい。
梳き終えて、私は、奥様の肩に、一度だけ、手を置いた。
十九年で、初めて、主人の身体に、仕事ではない手を置いた。すぐ、離した。それだけで、足りた。足りることは、奥様が、開いた窓を見ながら知られたことだと、私は思っている。私も、今夜、知った。
子爵の誓いは、長かった。
私は、寝なかった。私は、長い話で寝ない。十九年、この家で、長い話を聞く用がなかっただけだ。聞いてみれば、寝なかった。つまり、の数を、数えかけて、やめた。数えるのは、奥様の癖だ。私の癖ではない。
奥様の誓いは、一行だった。
私は、貴方の隣で、起きています。
それを聞いて、私は、思った。三年、この人の隣で、起きていたのは、私だ。廊下の突き当たりで。座って動かない音を、聞きながら。
今夜から、隣で起きているのは、子爵だ。いや、子爵は眠る。奥様が、起きている。順番が、変わった。私は、順番の変わり方を、荷車の上で、考えた。悪くない変わり方だった。
翌朝、私は、着替えに行かなかった。
着替えは、もう、私の仕事ではない。
番人の仕事は、王都にある。十三人の娘の、昼の泥だ。私は、荷車で帰る。バティストが御す。静かに。二人で、二十語。丁度だ。
館の玄関に、長靴が、揃えてあった。
黒い革の、少し古い、使用人の長靴。踵が、減っている。私が、屋根裏から出して、衣装箱の底に入れた物だ。奥様は、二年、それを履かれた。十四段を下りるのに。閂を上げるのに。生垣を抜けるのに。王都へ三日、行くのに。
新しい長靴が、隣に、揃えてあった。奥様が、王都で、自分の金で買われた物だ。
古いほうを、私は、持って帰ることにした。
誰にも言わずに。頼まれていない。頼まれないことをするのは、私の仕事だ。十九年、そうだった。これからも、そうだ。
奥様、と、私は、もう呼ばない。
何と呼ぶかは、決めていない。
決めるのは、私だ。十九年で、初めて、私が決めることが、一つ、ある。
荷車の上で、王都まで、三日ある。決めるには、足りる。足りることは、この一年で、いちばん多く、覚えたことだ。
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