第32話 夜の結婚式
モーヴを、返しに行った。
王都から、三日。バティストが、迎えに来た。「子爵が、そうしろと言うだろうから」ではなく、「子爵が、そうしろと言った」と、今度は、言った。
ポーレットは、荷車に乗った。「番人は、休みを取ります。十九年で、二度目です」。一度目は、王都へ来た三日だったらしい。あの人の休みは、いつも、荷車の上だ。
三日目の夕方、ラランドの門が、見えた。
私は、モーヴに乗っていた。
乗って、門を通る。それが、返す、だ。引いて、ではなく。彼は、引いて、と言った。私は、乗って来た。少し、違う。違っていても、門を通れば、返したことになると思った。モーヴも、そう思っている顔をしていた。
門の内側に、人が、立っていた。
灰色の馬の上ではなく。立って。腕を、組まずに。
隣に、馬が一頭。栗色。背が、私の肩より高い。仔馬ではなかった。一年で、仔馬は、仔馬でなくなる。
私は、門を、通った。
モーヴの歩みで。腰で受けて。
彼の前で、止まった。
降りた。左足を鐙に残して、右脚を戻して、地面に。脚は、震えなかった。震えるのは、最初だけで、最初は、去年の一段目で、済んでいる。
「返しに来ました」
と、私は言った。
モーヴの手綱を、差し出した。
「受け取った」
と、彼は言った。
手綱を、取った。私の手から。手袋は、していなかった。硬い手のひらが、硬い手のひらに、触れた。三度目だ。長靴ではなく、手だった。
「利子を」
と、私は言った。
彼は、隣の栗色を、見た。
栗色は、私を見ていた。ソワールの夜、藁の上で、四度目に立った脚で、今、立っていた。大きくなった目で。怖がっていない目で。
「ゲリゾン」
と、彼は言った。
「南の、古い言葉だ。母が、南の人だった。俺が熱を出すと、額に手を当てて、そう言った」
「意味は」
「治る。治った。南の言葉は、時間を、あまり区別しない」
彼は、私を見た。
「完治、だ」
私は、栗色を、見た。
完治。
私が、枕の上に置いた紙に書いた言葉。本日をもって、完治いたしましたので。あの朝、私は、その言葉を、自分で選んだと思っていた。
選んでいた。
でも、その一年前の夏の夜、この人は、私が引いた仔馬に、同じ言葉を、つけていた。病人が引いた馬に、病人の名はつけない、と。私は、それを、知らなかった。知らないで、同じ言葉を、選んだ。
「……知っていて、言わなかったのですか」
「言わなかった。あなたが、聞いていい、と俺が思う日まで」
「今日が」
「今日だ。門を、通ったから」
目が、熱くなった。
私は、それを、袖で拭かなかった。
涙が出るのは、目が使われているからだ。馬の上で、初めて日の出を見た朝、私は、そう思った。今日、私の目は、名を、見た。一年、言われなかった名を。使ったものは、痛む。痛んで、水が出る。それだけのことだ。
私は、ゲリゾンの首に、手を置いた。
温かかった。大きくて、動いていて、私の手のひらを、全部、受け止めた。去年、モーヴの首で、初めて知った温度だ。同じ温度が、私が引いた馬の首にあった。
「六歳の熱以来、初めてです」
と、私は言った。
「泣くのは」
「……そうか」
「悲しくて、ではありません」
「知っている」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
口が多い人が、言わないときは、言わないほうが、多いときだ。私は、それを、この一年で覚えた。
式は、その夜だった。
ヒースの丘の上。
松明が、立っていた。私は、数えた。癖だ。
十四。
彼が、決めた数ではない。バティストが、厩にあった分を、全部持ってきた数だと、あとで聞いた。偶然だ。偶然でも、私は、数えた。十四段。三年で初めて下りた段の数と、同じ数の松明が、丘の上に、立っていた。
司祭は、村から来た。
老いた人だった。不機嫌だった。
「真夜中に、式を挙げる者は、おらん」
「眠れない男が、おります」
と、彼が言った。
「……ふむ」
司祭は、それで、納得した。老人は、納得が速い。あるいは、この郡で、ラランド子爵が夜に起きていることを、知らない人はいない。
ポーレットが、私の髪を、梳いた。
式の前に。丘の上で。松明の横で。三年、毎夕、梳いた髪を。今夜、花嫁の髪として。梳きながら、話さなかった。三年、そうだった。今夜も、そうだった。話さないのが、私たちの、話し方だ。
梳き終えて、彼女は、一度だけ、私の肩に、手を置いた。すぐ、離した。それだけで、足りた。
証人は、馬だった。
モーヴ。ゲリゾン。灰色。ソワール。それから、バティストと、ポーレット。人間は、二人。馬は、四頭。司祭は、証人の数え方に文句を言わなかった。「真夜中に文句を言う元気は、おらん」と言った。
「名を」
と、司祭が、私に訊いた。
「レオニー」
「姓は」
私は、一秒、考えた。
ソレル。父の名。塩の名。法が、私に、戻した名。借りていた名だ。借りたものは、返す。それが、貸し借りの決まりだ。北でも、南でも、王都でも。
「ラランド」
と、私は言った。
「今夜から」
司祭は、頷いた。書いた。レオニー・ド・ラランド。
ソレルは、今夜、父に、返った。父は、法に従う人だ。返された名を、たぶん、塩の帳簿の隣に、置くだろう。それでいい。借りたものを返して、私は、この丘の上で、初めて、自分で選んだ名を持った。選んだ、の、はい、と同じ種類の名だ。
誓いは、彼が、先だった。
長かった。
当然だ。この人の誓いが、短いわけがない。夜襲の話から始まって、見張りの交代の話になって、ソワールの夜になって、四十分になって、手綱になって、走ることになって、転ぶことになって、起きられる人には手を出さない話になって、白い部屋になって、つまり――
司祭が、二度、咳をした。
バティストが、帽子を、少し、上げた。
ポーレットは、動かなかった。あの人は、長い話でも、寝ない。
馬は、草を食んでいた。
「――つまり」
と、彼は、言った。
松明の光の中で、私を見て。
「あなたが起きているなら、俺は、眠れる。それだけだ。それだけを、五年、探していた。探していると、知らないで、探していた。……以上だ」
以上だ、と、この人が言うのを、私は、初めて聞いた。
終わらない話に、終わりがあった。
「では、花嫁」
と、司祭が言った。
私は、一行、用意していた。
三年、はい、と、ありがとうございます、しか言わなかった口だ。長い誓いは、できない。できないことは、しない。できることを、する。それが、この一年で、私が覚えた、いちばん大きなことだった。
「私は、貴方の隣で、起きています」
と、私は言った。
「貴方が眠るあいだ。……以上です」
彼は、笑った。
声を出して。松明の下で。低くて、短くて、すぐ止まる笑い。私は、その笑いを、白い部屋の外の柱の間で、一度聞いた。今夜、二度目だった。
司祭が、何か、言った。
言葉は、覚えていない。決まった言葉だ。誰かが用意した言葉。私は、そういう言葉を、三年、床の下で聞いていた。今夜のは、床の上で聞いた。それだけの違いで、それは、私に向けて言われた言葉になった。
丘を、下りた。
十四の松明を、バティストが、一つずつ、消していった。私は、数えた。十四から、ゼロまで。ゼロは、数字だ。空白ではない。数え終わった、という印だ。
ラランドの館は、石造りで、窓が小さかった。
北の家は、そういうものだ。
私は、その夜、初めて、病人としてではなく、横になった。
二十四年で、初めて。
寝台の高さは、私の寝台と、少し、違った。天井に、染みは、なかった。私は、それを、確かめた。癖だ。癖は、この丘まで、ついてくる。ついてきても、いい。
隣で、眠れない人が、眠っていた。
真夜中だった。この人が、五年、眠れなかった時刻だ。
私は、少し、起きていた。見張りを。誓いの通りに。
見張りは、待つのとは、違う。誰かのために、起きている。それは、身体の、待つのと同じ場所を使うのに、全然、違うものだ。私は、それを、王都の小部屋で、四時間、知った。今夜、二度目だった。二度目は、一度目より、静かだった。
それから、私も、眠った。
見張りは、朝、馬に任せた。馬は、昼も夜も、起きている。
本日をもって、完治いたしました。
私は、それを、今夜、誰にも書かなかった。
書く必要が、なかった。一年前の夏の夜に、もう、一頭の馬に、その名が、ついていたからだ。私が引いた馬に。私が知らないうちに。
治る、と、治った、を、南の言葉は区別しない。
私も、今夜から、区別しないことにした。
(終)




