第31話 春の観閲
王室騎兵の春の観閲は、王都の大公園で行われる。
朝、騎兵が、大路を行く。三百騎。それが終わると、市民の列が続く。乗馬の会、馬車の会、商人の組合の馬。古い決まりだ。誰が決めたかは、知らない。
「うちの馬で、十二人。列の最後に、入れる」
と、ヴィダル馬監は、冬の終わりに言った。
「乗馬会、というのは、市民の列に入る資格がある。虚弱歓迎、と看板に書いてある会でも、規則には、虚弱の除外はない」
馬監は、規則を読む人だった。私と同じだ。読める人間の物だ、と、彼は言った。馬監も、私も、読んだ。
春の朝、練習場に、十三人がいた。
全員、暗い赤の乗馬服。私が、一万枚で、最初に買ったのは、妹の一着だった。二番目に買ったのが、十二着。同じ色。同じ仕立屋。仕立屋は、「同じ物を十三着」と言って、私の顔を見た。私は、「はい」と答えた。三つ目の、はい、だった。
十三人目は、明け方に来た。
妹だった。
暗い赤の乗馬服。長靴。髪を、後ろで束ねて。侍女のマリオンが、門のところで、震えていた。妹は、震えていなかった。
「三週間、練習したの」
と、妹は言った。
「夜明けに。お母様に、黙って。……ポーレットが、開けてくれたわ」
私は、ポーレットを見た。
ポーレットは、厩の前で、腕を組んでいた。何も言わなかった。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。三週間、夜明けに、門を開けていた。私に、黙って。私は、それを、知っていた。厩の藁が、夜明けに、減っていたからだ。知っていて、何も言わなかった。黙るのは、得意だ。二人とも。
「モーヴは、私が乗ります。貴女は、片目の葦毛に。いちばん、遅い馬です」
「……遅いのは、いいの」
「遅いから、生きています」
妹は、頷いた。
大路には、人が、いた。
両側に。貴族が、馬車で。市民が、立って。三百騎が通ったあと、大路は、蹄の音で、まだ、震えていた。
私は、モーヴで、先頭に出た。
後ろに、十二人。二列。最後に、妹。片目の葦毛で。背筋だけ、伸ばして。
「背筋」
と、私は、振り返らずに言った。
十三人が、背筋を伸ばした。それが、聞こえた。乗馬服の布が、鳴る音で。
モーヴが、歩いた。
私は、腰で受けた。二十年、誰も買わなかった馬の歩みを。
大路の、両側から、声がした。
病弱令嬢乗馬会。誰かが、そう言った。誰かが、笑った。誰かが、笑わなかった。私は、前を見ていた。前を見る、というのは、馬の上では、大事なことだ。下を見ると、落ちる。後ろを見ると、馬が迷う。
道の右側に、馬車が止まっていた。
ソレル家の馬車。塩の紋。
窓に、母の顔。扇が、開いたまま、止まっていた。母の目は、私を見て、それから、列の最後まで、動いた。最後で、止まった。
妹。暗い赤の乗馬服で。片目の葦毛の上で。
母の扇が、落ちた。膝に。母が、扇を落とすのを、私は、初めて見た。
父が、隣にいた。父は、帽子を、少し、上げた。バティストと同じ角度で。塩商いの男と、老いた馬丁は、同じ角度で帽子を上げる。それが、父の全部で、父の全部は、いつも、それだけだ。
道の左側に、人が、一人、立っていた。
黒い上着。馬車ではなく、立って。
夫――いや、ベルヴュー伯爵。
三年、年に五分、見た顔。白い部屋で、病床にありました、と言った顔。
痩せていた。冬のあいだに。上着が、少し、大きく見えた。
彼は、私を見ていた。
私は、前を見ていた。
それから、一度、彼を、見た。
一度だけ。モーヴの上から。彼の頭は、私の膝より、少し、高い所にあった。馬の上から人を見ると、皆、同じ高さになる。伯爵も、庭師も、十二歳の娘も。それを、私は、この一年で知った。
彼は、頭を、少し、下げた。
私は、下げなかった。前を、見た。
それだけだった。三年と、一年が、一度の視線で、終わった。言葉は、要らなかった。私は、彼に、言うことを持っていなかった。彼は、たぶん、持っていた。持っていて、言わなかった。言わないことは、あの人の中で、本当にならない。それは、あの人の物だ。私の物ではない。
私の後ろを、十二人が、通った。
その後ろを、妹が、通った。
揺れていた。速歩ではない。歩みで、揺れていた。落ちそうに見えた。落ちなかった。背筋だけ、伸ばして。
ヴィダル馬監が、大路の脇を、馬で並んで走っていた。
馬監は、伯爵の前で、馬を止めた。私は、それを、振り返らずに、聞いた。馬の上では、耳が、後ろにも向く。五か月の夜で、そうなった。
「伯爵。奥方は、病弱と伺っていたが」
馬監の声だった。大きくなかった。
伯爵は、少し、黙った。
「……元、です」
と、彼は言った。
「どちらの、元、だ」
馬監が、訊いた。
「元妻か。元病弱か」
また、少し、黙った。
「……両方です」
それが、彼の、全部だった。
私は、前を見ていた。元、です。両方です。三年と一年で、あの人が、私について言った言葉の中で、いちばん短くて、いちばん、印刷されていない言葉だった。誰も、それを刷らない。馬監と、私の後ろ向きの耳だけが、聞いた。それで、足りた。
大路が、終わった。
公園の門で、十三人が、止まった。
娘たちが、笑っていた。声を出して。十二人が、十二の声で。頰が、赤かった。走ったからではない。歩いただけだ。歩いただけで、血は、顔に来る。
妹が、葦毛から、降りた。
自分で。左足を鐙に残して、右脚を戻して、地面に。
脚が、震えていた。
「震えるのは」
と、私は言った。
「最初だけ」
と、妹が、言った。
三週間、夜明けに、誰かに教えられた言葉だ。ポーレットではない。あの人は、そんなことを言わない。私が、十二人に言うのを、柵の外から、聞いていたのだと思う。三週間、夜明けに。
妹は、私を見た。
日に焼けていない顔。三週間の夜明けでは、焼けない。でも、頰は、赤かった。
「お姉様」
「はい」
「……私、走ってないわ。今日は、歩いただけ」
「はい」
「走るのは」
「次の春に」
妹は、頷いた。
柔らかい手で、手綱を、まだ、握っていた。巻かずに。
コレットが、私の袖を、引いた。
十二歳。青白かった顔。今日、いちばん赤い。
「先生」
「はい」
「お母様が、泣いてた」
「誰の」
「私の。馬車の中で。……窓を、開けて」
窓を、開けて。
私は、公園の門の外に、並んだ馬車を見た。どれか、分からなかった。黒い、良い馬車は、たくさんある。
でも、一つ、窓が開いていた。秋に、ほら、風が、と言って、閉めた窓が。
私は、それを、見た。
ずいぶん、長く。
病人は、と、私は、頭の中で言いかけた。
言いかけて、続きが、なかった。
病人は、何をしないのか。私は、もう、一つも、思い出せなかった。十四段。閂。生垣。走る。乗る。命じる。頼む。訊く。出る。いいえ。選ぶ。全部、消えた。消えるほうが、速かった。
残った規則は、なかった。規則がないと、不安になる人間だと、私は、思っていた。三年前は。今、不安ではなかった。規則がない代わりに、十三人と、七頭と、番人が、いた。それで、足りる。足りることを、私は、開いた窓を見ながら、知った。
窓は、開いていた。
春の風が、入っていたと思う。風は、病人には良くない。私は、もう、それを、誰にも言わない。




