第30話 眠る
彼は、出発の夜に、出なかった。
七日目の夜、東の門へ向かって、通りの先に消えた人が、翌日の正午、練習場の門に、いた。
灰色の馬と、麦藁帽子と、眠っていない顔で。
「……門で、馬が、止まった」
と、彼は言った。
「東の門で。灰色の馬が、動かなかった。五年、俺の馬だ。止まったことがない。止まった。つまり、俺は、馬に、止められた。馬は、乗る人を測る。測って、こいつは、俺を、まだ王都を出る人間ではない、と――いや、違う。これは、俺の言い訳だ。馬のせいにしている。俺が、止まった。それだけだ」
私は、門の内側で、彼を見た。
「一日、遅れる」
「はい」
「今夜、出る」
「はい」
彼は、灰色の馬を、厩に入れた。
それから、厩の脇の、小部屋に来た。私が、帳簿を付ける部屋だ。窓が一つ。机と、椰子と、壁際に、長い木の腰掛け。ポーレットが、屋根裏から出してきた腰掛けだ。あの人は、どこの屋根裏からでも、何かを出してくる。
彼は、腰掛けに、座った。
私は、机で、帳簿を付けていた。十二人分。来週、十四人。馬、七頭。飼葉。
彼は、喋った。
ラランドの冬のこと。バティストが一人で二十頭を見ること。ゲリ――と言いかけて、仔馬、と言い直したこと。北の丘の雪のこと。雪の中で馬が何を食うか。つまり――。
つまり、の先が、来なかった。
私は、帳簿から、顔を上げた。
彼は、腰掛けに座ったまま、壁に、頭を預けていた。
目が、閉じていた。
口が、少し、開いていた。つまり、の形のままで。
眠っていた。
私は、ペンを、置いた。
音を、立てないように。
この人は、真夜中から明け方まで、眠れない。明け方から昼まで、眠る。それが、五年の形だ。正午に起きて、王都の昼を七日、耐えて、夜も眠れずに、八日目の正午、練習場の小部屋で、眠った。
昼に。壁に頭を預けて。座ったまま。私の三歩隣で。
私は、彼を、見た。
眠っている顔を、初めて見た。眠っていない顔は、五か月と七日、見た。眠っている顔は、違った。若かった。三十だと聞いていた。眠っている顔は、たぶん、二十五の顔だった。夜襲の前の顔かもしれない。分からない。確かめる方法がない。
ポーレットが、扉を、少し開けた。
中を見た。彼を見た。私を見た。
何も言わずに、扉を閉めた。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。今日は、扉を閉めた。それも、いろいろなことの、一つだ。
二時に、娘たちが来た。
私は、外へ出た。扉を、静かに閉めて。
十二人に、手綱と、速歩と、駈歩を教えた。コレットが、「子爵様は」と訊いた。私は、「小部屋で、帳簿を見ています」と答えた。嘘だった。私は、嘘をついたことが、あまりない。病人は、嘘をつく必要がない。今日、一つ、ついた。彼を起こさないための嘘は、たぶん、良い嘘だ。良い嘘があるかどうかは、知らない。あることにした。
四時に、娘たちが帰った。
私は、小部屋に、戻った。
彼は、まだ、眠っていた。
四時間。
私は、椰子に座って、帳簿を開いて、書かなかった。ペンの音が、起こすかもしれない。書かずに、座っていた。座って、起きていた。
見張りだ、と思った。
誰かが眠っている隣で、起きている。それが、見張りだ。この人は、五年、見張りの交代を、頭の中で数え続けて、眠れなかった。今日、私が、見張りをしている。この人は、それを知らない。知らないで、眠っている。
私は、四時間、それをした。
待つのとは、違った。三年、私は、寝台で、待った。何が来るかを。今日は、待っていなかった。起きていた。誰かのために。起きているのと、待っているのは、身体の同じ場所を使うのに、全然、違うものだった。それを、私は、この四時間で、知った。
四時を少し過ぎて、彼が、目を開けた。
最初、どこにいるか、分からない顔をした。
壁。窓。机。私。
それから、口が、閉じた。つまり、の形が、消えた。
「……眠っていた」
「四時間」
「四時間」
「はい。正午から」
彼は、腰掛けに座ったまま、動かなかった。
自分の手を、見た。それから、窓を見た。夕方の光。
「昼に」
「はい」
「俺は、昼に、眠れる。明け方から正午まで。それは、いい。だが――」
彼は、言葉を、探した。この人が、言葉を探すのは、珍しい。いつも、多すぎるほど、持っている。
「こんな時刻に、こんなふうに、座ったまま、眠ったことは、ない。五年。夜襲の前、隊で、焚き火の横で、そうやって寝た。それが、最後だ。……あの夜以来、俺は、誰かが起きている、と信じて眠ったことがない。俺が寝れば、交代を間違える。だから、俺が、起きている。ずっと。それが、俺の――」
彼は、私を見た。
「あなたが、起きていた」
「はい」
「四時間」
「はい」
「見張りを」
「そう、呼ぶのだと、思いながら」
彼は、長く、黙った。
黙って、私を見ていた。この人が黙る時間は、いつも、何かを言おうとしてやめた時間だ。今日は、違った。やめていなかった。言う前に、揃えていた。多すぎる言葉を、一度に口を通る形に。
「つまり」
と、彼は言った。
それから、いつもの調子で、続けた。ただ、いつもより、少し、速く。
「つまり、俺は、あなたの隣で、眠った。五年、誰の隣でも眠れなかった男が。昼に。あなたが起きていると知らないで、眠って、起きたら、あなたが起きていた。それは、俺の五年の中で、初めてのことで、初めてのことは、一度きりかもしれないし、そうでないかもしれない。分からん。分からないことは、考える。考えると眠れない。だが、今日は、考えないで、眠った。つまり、考えないで眠れる場所が、一つ、あった。この腰掛けだ。いや、腰掛けじゃない。あなたの三歩隣だ。つまり――」
彼は、息を吸った。
「――つまり、あなたの隣で、寝たい。毎日。昼でも、夜でも。これは、馬の話ではない。手綱の話でも、鞍の話でも、利子の話でもない。……俺は、口が多いが、これだけは、短く言うべきだと分かっている。分かっていて、長くなった。長くなった分は、忘れてくれ。最後の一文だけ、聞いてくれ」
私は、椰子に座ったまま、彼を見ていた。
「契約、ですか」
と、私は訊いた。
「契約は、嫌いだ」
彼は、即座に言った。
「契約は、紙だ。紙は、印刷される。印刷された紙を、俺は、白い部屋で、見た」
「私も、嫌いです。一度、無効にしましたから」
「……なら、結婚を」
「結婚も、一度、無効にしました」
「二度目は、成就させる」
私は、笑った。
声が、出た。小部屋で。夕方の光の中で。三年、息だけで笑った喉から、この一年で、何度、声が出ただろう。数えていない。数えなくなったものは、私の物だ。
「はい」
と、私は言った。
彼は、私を見た。
瞬きをした。
「……どっちの、はい、だ」
「三つ目です」
「三つ目」
「従った、でも、来る、でもありません。……選んだ、です」
彼は、何も言わなかった。
何も言わない時間が、長かった。この人が、言うことを持たずに黙ったのは、白い廊下で私を見たときと、今だけだ。二度目。私は、数えている。
「春に」
と、私は言った。
「モーヴを引いて、貴方の門を通ります。利子を、いただきに。……その夜に」
「名を、言う」
「はい」
「それから、成就させる」
「はい」
三度、はい、と言った。全部、三つ目の、はい、だった。三つ目のはいは、一度覚えると、続けて言える。それを、私は、今日、知った。
彼は、立った。
腰掛けから。四時間、座って眠った脚で。少し、ふらついた。私は、手を出さなかった。起きられる人に手を出すのは、失礼だ。彼は、自分で、立った。
「今夜、出る」
「はい」
「今度は、馬は、止まらない」
「はい」
「……止まっても、俺が、動かす」
夕方、練習場の門で、彼を見送った。
灰色の馬は、止まらなかった。東の門へ向かって、通りの先に、消えた。二度目の見送りだった。二度目は、一度目より、短く感じた。春までの日数が、決まっていたからだ。決まっている日数は、決まっていない日数より、短い。それも、たぶん、今日、知ったことだ。
小部屋に戻って、腰掛けを見た。
誰も、座っていない。壁に、頭の形の、跡もない。木は、跡を残さない。
私は、そこに、座ってみた。彼が座った場所に。壁に、頭を預けた。目を、閉じなかった。閉じる必要がなかった。私は、眠るためではなく、ただ、座っていた。
眠れない男が、四時間、私の隣で眠った。
私は、四時間、起きていた。見張りを、初めて、した。
誰かのために起きているのは、待つのとは、違う。
その違いを、私は、帳簿の余白に、書かなかった。書かなくても、身体が、覚えている。四時間分。それは、硬い手のひらや、青い痣と、同じ場所に、残る。私の物として。




