第29話 利子
彼は、王都に、七日いた。
ヴィダル馬監の家に泊まった。元の隊長の家だ。「五年ぶりに、部下が昼に来た。泊めないわけがない」と、馬監は言ったそうだ。彼は、その言葉を、私に伝えるとき、少し、目を逸らした。目を逸らす、というのを、この人がするのを、私は初めて見た。
正午に、彼は、練習場に来た。
毎日。目を細めて。
三日目から、麦藁の帽子を被ってきた。未亡人の亡夫の物だと、ポーレットが言った。ポーレットが、貸したのだ。あの人は、何も言わずに、いろいろなことをする。帽子は、彼の頭に、少し小さかった。それでも、目は、細めなくなった。少しだけ。
娘たちは、三日で、彼に慣れた。
彼は、娘たちに、喋った。馬の蹄の話、鬣の話、遅い馬がなぜ長生きするかの話。話は、いつも、途中で、別の話になった。娘たちは、途中で寝なかった。笑った。コレットが、「子爵様、つまり、って十回言った」と数えた。彼は、「十一回だ。数え損ねている」と答えた。
「馬は、乗る人を測る」
と、彼は、十二人に言った。
「病人か、そうでないか。怖がっているか、怖がっていないか。……怖がっていていい。怖がっているのと、病人なのは、別だ。こいつらは、その区別がつく。つかないのは、人間だけだ」
私は、それを、柵の横で聞いていた。
夜の草地で、私に言ったことを、彼は、昼の練習場で、十二人に言った。同じ言葉が、昼の光の中で、少し、違う音をした。悪い音ではなかった。
五日目の夜、馬監の晩餐があった。
小さな食卓だった。馬監と、その夫人。退役した将軍とその夫人。それから、彼と、私。
彼は、上着を着ていた。いちばん良い、いつもの上着に見える上着。私は、乗馬服ではなく、王都で初めて仕立てたドレスを着た。暗い緑の。乗馬服と同じ色を、選んだ。選んだ理由は、考えなかった。
彼は、食卓で、喋った。
将軍夫人に、蹄鉄の話を。スープの間、ずっと。将軍夫人は、二度、口を開こうとして、二度、閉じた。彼の話に、切れ目がなかったからだ。
「子爵は、蹄鉄に、詳しくていらっしゃること」
と、私は言った。
将軍夫人が、私を見た。
「夫人は、王都の冬の、川の凍り方に、詳しくていらっしゃると、馬監から伺いました。今年は、早いのでしょうか」
将軍夫人の顔が、明るくなった。
彼女は、川の凍り方について、話し始めた。彼は、口を閉じた。閉じて、私を見た。
私は、それを、三年、床の下で聞いていた。
客間の会話には、穴が開く。誰かが喋りすぎて、誰かが喋れなくなる。ディアーヌは、その穴を、響きの良い言葉で埋めた。私は、埋め方を、聞いて覚えた。三年分。今夜、初めて、床の上で、使った。
彼が、夜を、私に貸した。手綱と、鞍と、起きられる人には手を出さないことを。
私は、昼を、彼に貸す。会話の穴の埋め方と、将軍夫人の川の話を。それは、私が持っている、たぶん唯一の、昼の物だった。
魚の間、彼は、三度、喋りかけた。
三度、私は、扇を持たずに、言葉で、方向を変えた。三度目に、彼は、もう、喋りかけなかった。将軍の話を、聞いていた。頷いていた。聞くとき、この人は、ちゃんと聞く。それは、夜の草地で、知っている。
馬監が、食卓の向こうで、私を見ていた。
何も言わなかった。ただ、少し、頷いた。あの男は、あなたに、二度と頼ませないつもりだ、と言った人の頷き方だった。
晩餐の帰り、二人で、歩いた。
馬監の家から、職人の街まで。夕方の王都。音が、低くなる時刻。彼は、この時刻から、起きる人だ。だから、今夜、彼の顔は、正午より、少し、生きていた。
「助かった」
と、彼は言った。
「将軍夫人は、たぶん、俺を、蹄鉄の妖精だと思っている」
「川の凍り方の話は、面白かったです」
「あなたが、面白くした。……俺は、夜を貸した。あなたは、昼を貸した。それで、貸し借りは、どうなる」
「まだ、あります。モーヴを、返していません」
「そうだ」
彼は、少し、歩いた。
「馬三頭の、貸与料を」
と、私は言った。
言うつもりだった言葉だ。三日、考えていた。
「金貨で、払います。一万枚、あります。それで、貸し借りを、なしに――」
「なしは、嫌だ」
彼は、止まった。
王都の、夕方の通りで。人が、通っていた。彼は、それを、気にしなかった。
「……なしは、嫌だ」
二度、言った。
この人が、馬の話でも、段取りの話でもないことを言うのを、私は、初めて聞いた。一度目は、門で「考える」と言ったときかもしれない。あれは、まだ、段取りに近かった。今夜のは、違った。嫌だ、は、段取りではない。
「なぜ」
と、私は訊いた。
「なしになると、あなたが、返しに来る理由が、なくなる」
私は、彼を見た。
夕方の光で、眠っていない顔が、いつもより、眠っていなかった。七日、昼に起きて、夜も、たぶん、眠れずにいる顔だ。
「モーヴは、返します。門を通って。春に」
「それだけか」
私は、答えなかった。
答えを、持っていなかったのではない。持っていたが、まだ、口の形になっていなかった。三年、はい、と、ありがとうございます、しか言わなかった口は、いいえ、を覚え、出ます、を覚え、乗りたいです、を覚えた。今夜のこれは、まだ、覚えていない言葉だった。
「分かりません。まだ」
と、私は言った。
「まだ、なら、いい」
彼は、また、歩き始めた。
「まだ、は、ないとは違う。条文のときも、そう言った。あのとき、あなたは、二十日で、出ます、と言った。……今度は、いつでもいい。俺は、待つのが下手だが、眠れないから、時間はある」
私は、少し、笑った。声が出た。夕方の通りで。
彼は、笑わなかった。笑わないで、私の笑いを、聞いていた。聞くとき、この人は、ちゃんと聞く。
六日目、コレットが、彼に訊いた。
柵の横で。十二人の前で。十二歳の口で。
「子爵様は、先生と、結婚するの」
十二人が、静かになった。
ポーレットが、厩の前で、腕を組んだ。
彼は、麦藁帽子の下で、少し、目を細めた。昼の光のせいではなかったと思う。
「……訊かれたことは、答える」
と、彼は言った。
「分からん」
コレットは、それで、納得した。十二歳は、納得が速い。私の妹と同じだ。
私は、柵の横で、モーヴの首に、手を置いていた。手を置いたまま、動かなかった。分からん、と彼は言った。嘘ではない。隠さない人は、嘘をつかない。分からない、と、まだ、は、同じことだ。私が言ったことと、同じことを、彼が、十二歳に、言った。
七日目の夕方、彼は、ラランドへ帰る、と言った。
「バティストが、一人だ。馬が、二十頭。冬が、来る」
「はい」
「春に、モーヴを、返しに来い。門を通って。利子は、まだ、渡していない」
「はい」
「今夜、出る。夜の街道は、俺の物だ」
私は、練習場の門で、彼を見送った。
灰色の馬に、一で乗って、彼は、東の門へ向かった。振り返らなかった。私は、彼が通りの先に消えるまで、立っていた。
この七日、私は、この人に、一度も、眠れているか、と訊かなかった。訊かなくても、見えていた。眠っていない顔が、日ごとに、眠っていなくなっていた。昼に起きて、夜も眠れない。七日。
訊かなかった理由は、分かっていた。訊けば、彼は、答える。答えを聞けば、私は、この人に、帰れ、と言うことになる。それは、この人の昼を、私が決めることだ。私は、それを、しない。監督院の夜に、決めた。
その代わりに、私は、七日、この人に、昼を貸した。貸したものは、返ってくる。返ってくるのは、春だ。門を通って。
夜、練習場の帳簿を付けた。
十二人。四頭と、三頭で、七頭。厩の屋根、直し済み。柵、直し済み。
最後に、余白に、書いた。
『利子、未払い。双方。』
書いてから、見た。
双方、という字を、私は、長く見た。貸し借りは、片方では成立しない。三年、私は、もらう側だった。今、私は、貸して、借りている。双方。それは、対等な人の言葉だ。馬の肩の横にいる人間の言葉だ。
私は、その二文字を、消さなかった。




