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夫が浮気の口実にした私の病弱は、本日をもって完治いたしました  作者: 星舟能空


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第28話 幕間・走ったことのない妹(オーロール視点)

 秋の舞踏会は、成功だった。

 三着、着替えた。青と、白と、薄い金色。部屋の空気は、私のほうへ傾いた。いつものように。公爵家のご令息が、二度、踊ってくださった。お母様は、翌朝、扇を三本、新しく買った。


 それから、お姉様が、監督院で、伯爵様の印刷を読み上げた。


 お母様は、王都から戻って、三日、部屋を出なかった。神経よ、と、侍女が言った。四日目に出てきて、言った。「あの子が、家を壊した」。

 お父様は、何も言わなかった。お父様は、法は妻本人だ、と一度だけ言って、それから、塩の帳簿に戻った。


 公爵家から、手紙が来た。

 『ご令嬢の件は、姉君の件が落ち着くまで、しばらく――』

 しばらく。

 私は、その言葉を、初めて、自分に向けられたものとして聞いた。しばらく、は、いつまでかしら。私は、待ったことがない。待たされたことも。欲しいものは、来た。順番通りに。


「あの子が、壊した」


 と、お母様は、毎日、言った。

 私は、それを聞きながら、ある日、思った。

 壊したのは、お姉様? それとも、印刷した伯爵様? それとも、病弱よ、と十七年言い続けた――

 そこで、やめた。考えの先を。私は、考えを途中でやめるのが、上手い。十七年、考えの先に、行かなくても、欲しいものが来たから。


 春の初め、私は、馬車で、川べりへ行った。

 侍女のマリオンを連れて。お母様には、黙って。

 王都の東の端。職人の街の向こう。誰かが、サロンで言っていた。病弱令嬢乗馬会。あの、監督院の伯爵夫人が、開いたのだと。母親に黙って通う娘が、十人いるのだと。皆、笑っていた。私も、笑った。笑ってから、馬車を、そちらへ向けた。


 柵の外に、立った。


 草地が、あった。刈られた。柵は、直っている。傾いた厩の屋根が、新しい瓦で、半分、色が違う。

 馬が、四頭。老いた馬ばかり。

 娘が、十人。十二から、十五くらい。全員、乗馬服。全員、髪を、後ろで束ねて。全員、頰に、色がある。


 真ん中に、お姉様が、いた。


 暗い緑の乗馬服。長靴。帽子は、なし。髪が、日で、少し、明るくなっていた。顔が、焼けていた。私は、お姉様の顔が、焼けているのを、見たことがない。お姉様の顔は、白かった。粥の色。

 お姉様は、小さな娘の横に立って、手綱の持ち方を、教えていた。声が、聞こえた。


「右手で、頭の近く。左手で、余りを。巻かないで。巻くと、引かれたとき、手が取れます」


 私は、その声を、知らなかった。

 お姉様の声は、はい、と、ありがとう、の声だった。実家で。伯爵家の寝台で。今、柵の中で、お姉様は、指示していた。短く。はっきり。誰かに、何かを、させる声で。


 小さな娘が、馬に乗った。

 速歩。上下に揺れて、揺れて、落ちた。

 草の上に。


 私は、息を止めた。

 お姉様は、動かなかった。

 手を、出さなかった。柵の横に立ったまま、娘が起きるのを、見ていた。


「お姉様、手を――」


 私は、声に出して、言った。柵の外から。

 誰も、聞かなかった。娘が、起きた。自分で。それから、笑った。声を出して。落ちて、起きて、笑って、もう一度、馬に乗った。


 私は、柵を、握っていた。

 私の手は、柔らかい。指輪の跡以外、何もない手。この柵の木は、その手に、硬かった。


 娘が、走った。

 速歩から、もっと速く。草地の端まで。髪が、後ろに、流れた。十二か、十三の子だ。青白かったのだと思う。今は、赤い。


 私は、走ったことが、ない。

 お母様が、転ぶと顔に傷がつく、と。

 お姉様は、心臓で。私は、顔で。うちは、そういう家だ。私は、それを、この夏、お姉様の寝台の端で、冗談で言った。冗談だと思って言った。冗談ではなかった。今、柵の外で、それが、冗談ではないことを、走る十二歳を見て、知った。

 私は、十七で、あの子より、走ったことが、ない。


「オーロール」


 お姉様が、私を見ていた。

 柵の向こうから。歩いてきた。日に焼けた顔で。乗馬服の裾が、草の露で、濡れている。


「お姉様。……日に、焼けてる」

「はい」


 はい、と、お姉様は言った。

 でも、それは、私が知っている、はい、ではなかった。従った、はい、ではない。認めた、はい、だった。日に焼けている。はい。それだけ。


「サロンで、聞いたの。病弱令嬢乗馬会って」

「そう呼ばれています。私が付けた名ではありません」

「……十人?」

「今日は、十人。来週は、十二人になります」


 お姉様は、私を見た。

 私の、水色のドレスを。今日は、晴れている。私の、柔らかい手を。柵を握っている手を。


「乗りますか」


 と、お姉様は言った。


 私は、瞬きをした。

 二度。


「ドレスが」

「乗馬服を、貸します。予備が、二着」

「……」

「モーヴは、遅いです。二十年、誰も買わなかった馬です。落ちても、遅い馬から落ちるのは、速い馬から落ちるより、近いです」


 お姉様は、そう言った。

 冗談を言った顔だった。お姉様が、冗談を言うのを、私は、初めて聞いた。冗談かどうか、分からない顔で言うので、本気かもしれなかった。


「今日は」


 と、私は、言った。


「……今日は、やめておくわ」

「はい」


 お姉様は、押さなかった。

 押さないのが、少し、変だった。私は、押されることに、慣れている。お母様は、押す。お父様は、押す。ご令息も、少し、押した。押されると、私は、断るか、受けるか、選べる。押されないと、選べない。自分で、動かなければならない。私は、それを、したことがない。


「門は、開いています」


 と、お姉様は言った。


「母親に黙って来る子が、十人です」

「私は、十七よ」

「十七でも」


 それだけだった。

 お姉様は、柵の中へ、戻った。娘たちのほうへ。振り返らなかった。私が来たことは、お姉様の中で、もう、終わっていた。あるいは、終わっていなかった。分からなかった。分からないまま、私は、馬車に乗った。


 その夜、私は、机に、紙を出した。


 私は、お姉様に、手紙を書いたことがない。

 書く用が、なかった。お姉様は、いつも、そこにいた。実家の、私の部屋の隣に。伯爵家の、二階に。手紙は、遠い人に書くものだ。お姉様は、遠くなかった。


 今、遠い。

 川べりの、傾いた厩の中に、いる。日に焼けて。


 私は、一行、書いた。

 長い手紙は、書けない。十七年、書いたのは、礼状の署名だけだ。文は、いつも、誰かが用意していた。


『私も、走ったことがないの。』


 それだけ。

 署名は、オーロール。字が、丸くて、右に傾いた。いつもの字だ。でも、いつもの字で、初めて、自分の文を書いた。


 送った。

 マリオンに、持たせて。お母様に、黙って。


 返事は、三日後に、来た。

 手紙ではなかった。

 箱だった。


 平たい、大きな箱。開けると、乗馬服が、入っていた。

 新しい。暗い赤の。私の背に合わせた丈。長靴が、一足。私の足の大きさ。

 手紙は、なかった。一行も。


 私は、箱の前に、立った。

 お姉様は、一万枚を、持っている。この王都で、皆が知っている。一万枚で、お姉様が最初に買ったものが何か、私は知らない。知らないが、この箱が、それかもしれない、と思った。思って、その思いを、途中で、やめなかった。


 触らなかった。

 今日は。

 箱は、閉めなかった。開けたまま、寝台の脇に、置いた。

 明日、触るかどうか、私は、決めていない。決めていないものが、寝台の脇にある。十七年で、初めてだった。私の寝台の脇には、いつも、決まったものがあった。三着のドレス。新しい扇。青い石の指輪。

 今夜は、暗い赤の乗馬服が、ある。誰も、それを、私に選んでいない。お姉様は、選んで、送って、一行も書かなかった。私が、選ぶために。

 窓の外で、名残の雪が、降り始めていた。走るには、まだ寒い。それも、たぶん、走らない理由の一つに、なる。なるかどうかは、明日、決める。


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