第27話 幕間・献身的な嘘つき(フェリクス視点)
銀行家は、礼儀正しかった。
礼儀正しい人間が、いちばん、正確に人を測る。彼は、私の屋敷の図面と、領地の地代と、父の代の借金の残りを、一枚の紙に並べて、一万枚、という数字の隣に置いた。並べると、数字は、変わらない。私は、それを、その日、覚えた。
抵当は、屋敷と、領地の三分の一。
一万枚は、紙一枚になって、監督院へ行った。妻へ――いや、レオニー・ソレルへ。監督官は、そう呼んだ。妻、という言葉は、あの白い部屋で、なくなった。
ディアーヌは、一度、来た。
抵当の証書に署名した、翌日だった。この家の敷居を、三度、跨いだ人だ。一度目は、婚姻法を読みに。二度目は、報告書が三冊ないことに気づいた夜。三度目が、今日。
彼女は、客間に座らなかった。
玄関ホールで、立ったまま、言った。
「献身的な嘘つきなら、まだ、売れたのよ」
会計係の声だった。数字を、読み上げる声。
「病弱な妻を三年養って、その妻に裏切られた夫。それは、気の毒に見えた。後援会は、気の毒な人が好きなの。私が、そう売るつもりだった。三年、売ってきたように」
「……」
「あなたは、監督院で、『妻は病床にありました』と言った。あの瞬間に、あなたは、献身的な嘘つきではなくなった。ただの、嘘つきになったの。三年の印刷が、全部、嘘だと、白い部屋で、認めた」
「印刷は、君の言葉だ」
「ええ。私が選んだ。……でも、あの日のあれは、私が選ばなかった言葉よ。あなたが、自分で選んだ。響きは、良かったわ。あなたの、最後の印刷」
彼女は、扇を、開かなかった。持っていなかった。
「一万枚が、なくなって、屋敷に抵当が付いて、後援会が、あなたの手紙を刷らなくなる。それでも、献身的な夫、なら、私は、隣にいられた。気の毒な人の隣は、悪くない席なの。……ただの嘘つきの隣は、席じゃない」
彼女は、扉へ歩いた。
振り返らなかった。三年、この人は、私の馬車の灯りを、自分の門で見送った。今日、私が、この人の背中を、玄関で見送った。順番が、逆になった。それだけだった。それだけのことが、ホールの高い天井の下で、随分、静かだった。
モンテイユ男爵夫人からの手紙は、翌週だった。
後援会の会長。甲高い声の。
『今年度の年次報告書には、伯爵閣下のお手紙の掲載を、見合わせることといたしました。理事のお席は、次期、見送らせていただきます。ご寄付には、変わらず感謝申し上げております。』
感謝申し上げております。
響きのいい言葉だ。誰が選んだのか、私は知らない。ディアーヌではない。彼女は、もう、会計係を辞めていた。
ルグラン医師は、来なくなった。
最後の月、彼は、玄関で、ジャクリーヌに言った。「患者がおられませんので」。それだけだった。三年、月に一度、三秒、手首を取った男の、最後の言葉だった。
ジャクリーヌは、残った。
使用人は、半分になった。抵当の付いた屋敷は、給料が遅れる。遅れると、辞める。ジャクリーヌは、辞めなかった。辞めない理由を、私は、訊かなかった。訊けば、彼女は、答えるだろう。たぶん、私が聞きたくないことを。この家で、私が訊かないことは、起きなかったことになる。三年、そうだった。今も、そうだ。
秋の終わり、私は、二階へ上がった。
十四段。
今度は、数えた。全部。
妻――レオニー・ソレルの部屋。扉は、開いていた。誰も、閉めていなかった。閉める理由が、なかった。
トランクが、あった。
南への支度。革の匂いは、もう、しなかった。
蔦が、枯れ始めていた。
天井のそばまで伸びていた蔦が、上から、茶色くなっている。誰も、水をやらない。三年、誰が水をやっていたのか、私は、知らない。侍女だろう。侍女も、いない。
私は、窓に、立った。
初めてだった。
この部屋の窓に、立つのは。年に五分、寝台の足元に立って、それで、出た。窓は、見なかった。窓を見るのは、寝ている人だ。
生垣が、見えた。
黒い、高い、イチイの壁。その、真ん中に、切れ目。枯れた木を、切った跡。
その向こうに、草地。広い。
草地の向こうに、低い建物。厩。
その向こうに、丘。ヒースの。夕方の光で、赤茶色だった。
馬が、いた。
三頭。遠くで、草を食んでいる。
私は、それを、見た。
妻は、三年、この窓から、これを見ていた。昼の色で。夜の色で。粥と、強壮酒と、天井の染みの間に、これがあった。
私は、この窓から何が見えるか、三年、知らなかった。知らなくていいと、思っていた。病人の窓だ。病人の窓には、病人の景色がある。私は、そう思っていたのだと思う。思っていた、というより、思わなかった。
暗くなるまで、私は、そこにいた。
なぜかは、分からない。ジャクリーヌが、一度、階段の下から、名を呼んだ。私は、答えなかった。彼女は、上がってこなかった。
夜になった。
草地の向こうで、灯りが、一つ、動いた。
厩の前を、ゆっくり。止まる。動く。
それから、丘の上に、影が、一つ、出た。
馬に、乗った、人の影。月が、その後ろにあった。影は、丘の上で、しばらく、動かなかった。
隣の男だ。
夜に、馬を見ている、変わった男。白い部屋で、俺は口が多い、と言った男。台帳を持ってきた男。妻を、走らせた男。
私は、窓から、それを見た。
妻は、あそこへ、歩いて行った。この窓の下の、庭を横切って、生垣の切れ目を抜けて、草地を、五百歩。毎夜。五か月。
私は、十四段を、年に一度、上がった。
五百歩と、十四段。
並べても、数字は、変わらない。並べた人の中の、何かが、変わるだけだ。
私は、それを、誰にも言わなかった。
言えば、噂になる。噂は、良く見えない。それが、理由だ、と、私は自分に言った。自分に言った言葉は、自分に聞こえる。聞こえた言葉は、それだけではなかった。もう一つ、別の理由が、聞こえた。それは、口に出さなかった。口に出さないことは、私の中で、本当にならない。それが、私の、三年のやり方だった。今夜も、そうした。それしか、やり方を、知らなかった。
冬に、モンテイユ男爵夫人に、街で会った。
彼女は、扇の陰で、訊いた。
「奥様は、本当に、隣の……?」
私は、少し、黙った。
妻は、病床にありました。
それが、私の、印刷だ。最後の。それを、もう一度、言えば、この人は、頷く。頷いて、気の毒な顔をする。私は、まだ、少し、気の毒に見える。
言わなかった。
「……分かりません」
と、私は言った。
「私は、妻の部屋に、年に五分しか、いませんでした」
男爵夫人は、扇を、止めた。
私を見た。気の毒な顔では、なかった。何と言えばいいか分からない顔だった。私は、その顔を、初めて、人にさせた。三年、良く見える言葉しか言わなかった男が、良く見えない事実を、一つ、言った。それが、どう見えるかは、考えなかった。考える前に、口から出た。三年で、初めてのことだった。
屋敷に戻って、私は、二階へ、上がらなかった。
トランクは、あの部屋にある。南へ、行かなかったトランク。私も、どこへも行かない。この屋敷にいる。抵当の付いた。
屋敷は、まだ、ある。見える物は、まだ、ある。壁も、柱も、車寄せの薔薇も。
見えない物が、なくなった。
それが何か、私は、名を持っていなかった。名を持っていないものは、私の中で、本当にならない。それでいい、と、私は思った。思って、自分の思ったことを、聞いた。良い音では、なかった。私は、それを、聞かなかったことに、しなかった。初めて。それが、私の、この冬の、全部だった。




