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夫が浮気の口実にした私の病弱は、本日をもって完治いたしました  作者: 星舟能空


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第26話 病弱令嬢乗馬会

 看板は、私が書いた。

 板に、白い塗料で。ポーレットが、傾いた厩の壁に、打ちつけた。


『乗馬会

 虚弱、と言われた方、歓迎。』


 虚弱。医師の言葉だ。私に付いた値札。私は、それを、看板に使った。値札を、看板に。剝がした札は、捨てるより、使うほうが、良い。それは、床下と、書庫と、監督院で、覚えたことだ。


 馬は、モーヴ一頭だった。

 借り物だ。返すまで、預かっている。預かっている間、使うことは、貸した人が、たぶん、許す。「馬は、立場を訊かない」と、あの人は言った。モーヴは、走ったことのない娘を、訊かないだろう。


 最初の一週間、誰も来なかった。

 看板を、読む人はいた。職人の街の人。川べりを通る人。読んで、笑って、通った。乗馬会。虚弱歓迎。この街で、それは、冗談に見えたのだと思う。

 私は、草を刈った。柵を、直した。ポーレットが、厩の屋根に上がって、瓦を直した。「屋根裏に、十九年いましたから」と、彼女は言った。それが、屋根の直し方とどう繋がるのか、私には分からなかった。分からなくても、瓦は、直った。


 二週目の月曜、馬車が、来た。


 母親と、娘だった。

 娘は、十四。母親は、私の母と、同じ扇を持っていた。同じ神経を。


「あなたが、これを」


 母親は、看板を、扇で示した。


「悪趣味だわ。虚弱歓迎、だなんて。病弱な娘を、馬に乗せる。死んだら、どうなさるの」

「私は、十七年、病弱と言われました。三年、寝室を離れられないと、印刷されました。今年、監督院で、無効になりました」


 私は、そう言った。

 母親は、一秒、動かなくなった。この王都で、私の話を知らない貴族は、もう、いない。この人も、知っていた。知っていて、来た。来て、看板の前で、その話の本人に会った顔だった。


 娘は、母親の後ろに、立っていた。

 私を、見ていなかった。モーヴを、見ていた。柵の中で、草を食んでいる、老いた牝馬を。目が、動いていた。モーヴが、頭を上げると、娘の目も、上がった。


「お嬢様」


 と、私は、娘に言った。


「走ったことは、ありますか」


 娘は、瞬きをした。

 母親が、「マドレーヌ」と言った。娘は、母親を見なかった。


「……ありません」

「では、まず、歩きましょう。馬の肩の横を」

「心臓が」


 と、母親が言った。私にではなく、娘に。娘の心臓に。


「私も、そう言われました」


 と、私は言った。


「六歳から。心臓が、と。今年、王都まで、馬で三日、来ました。心臓は、打っています。速歩で、十周しても。……お嬢様の心臓が、どうかは、私には、分かりません。医者ではないので。ただ、歩いたことのない心臓と、弱い心臓は、見ただけでは、区別がつかない、と、馬の人が言っていました。歩かせて、初めて、分かる、と」


 母親は、扇を、閉じた。

 娘の腕を、取った。馬車に、戻った。

 馬車は、行った。


 翌日の午後、娘は、一人で来た。

 侍女を、一人、連れて。母親には、黙って。侍女は、門のところで、震えていた。娘は、震えていなかった。


「歩きます」


 と、彼女は言った。


 私は、モーヴを、柵から出した。

 手綱の持ち方。右手で、頭の近く。左手で、余りを。巻かない。巻くと、引かれたとき、手が取れる。

 肩の横。前に出ない。後ろに下がらない。馬は、肩の横にいる人間を、対等だと思う。


 娘は、モーヴの肩の横を、歩いた。

 一周。

 二周目で、彼女の頰に、色が出た。青白い顔に、赤い。走ったからではない。歩いただけだ。歩いただけで、血は、顔に来る。それを、私は、この子の顔で、見た。私は、自分の顔で、それを、見たことがない。夜だったから。鏡がなかったから。


 三日目に、二人目が来た。

 マドレーヌの、いとこだと言った。十三。マドレーヌが、話したらしい。話したことを、母親に黙っていろ、と言ったらしい。二人は、黙るのが、上手かった。病弱と言われた娘は、黙るのが、上手い。私が、そうだったように。


 五日目に、三人目が来た。

 私は、その子を、知っていた。

 黒い、良い馬車。膝に、毛布。窓に、額。乗馬道を見ていた目。

 コレット。十二歳。

 家の者が、看板を読んだ、と侍女が言った。母親には、黙って、連れてきた、と。この王都に、母親に黙って乗馬会に来る娘が、五日で、三人。私は、それを、数えた。三。


 コレットは、モーヴを見て、動かなかった。

 私は、待った。

 病人は、待たされることに、慣れている。待つ側にも、慣れている。三年、寝台で、何が来るかを待った。この子は、たぶん、馬車の中で、同じことをしていた。


「……大きい」


 と、コレットは言った。


「はい。でも、遅い」

「遅い」

「遅いから、生きています。二十年。速い馬は、若いうちに買われて、若いうちに死ぬ、と、貸してくれた人が言いました。この馬は、遅くて、誰も買わなかった。だから、ここにいます」


 コレットは、モーヴに、近づいた。

 手を、出した。

 モーヴが、鼻を、その手に、寄せた。

 コレットの顔に、何かが、通った。私は、それが何か、知っていた。夜の草地で、初めて黒い馬の息を聞いたとき、私の顔に、通ったものだ。名前は、ない。ないまま、通る。


 馬が、要る。

 一頭で、三人。すぐに、五人になる。十人になる。私は、それを、数えていた。


 ヴィダル馬監に、手紙を書いた。

 馬監は、翌日、返事ではなく、馬を三頭、送ってきた。騎兵の、老いた馬。片目の白い葦毛。脚の遅い黒鹿毛。背の低い栗毛。「遅いから、生きている馬だ。うちでは、もう、使わん。使え」と、厩の頭が、伝えた。


 三頭で、六人。

 六人は、二週間で、十人になった。

 母親に黙って、来る娘。母親が知って、怒鳴り込んで、娘の頰の色を見て、黙って帰る母親。それから、翌週、自分で娘を連れてくる母親。順番は、だいたい、そうだった。

 王都の噂は、看板より、速かった。病弱令嬢乗馬会。誰かが、そう呼び始めた。私は、その名を、直さなかった。呼ばれる名は、呼ぶ人の物だ。私は、看板の名だけを、持っていればいい。


 十人で、四頭。

 足りない。

 私は、机に、紙を出した。


 ラランドへの、手紙。

 私は、あの人に、手紙を書いたことがない。監督院の夜に、一度。事実だけ。今夜、二度目。


『ラランド子爵 ガスパール様


 王都の東の端、川べりの旧騎兵練習場にて、乗馬会を開きました。

 生徒、十名。虚弱、と言われた娘たちです。馬、四頭。うち一頭は、貴方のモーヴです。返還前に使用していることを、お詫びします。馬は立場を訊かない、と伺っておりましたので。

 娘に向く、老いた牝馬を、三頭、貸与いただきたく、お願い申し上げます。

 利子は、前回と同様で。

 貸与の条件は、貴方がお決めください。

                    レオニー・ソレル』


 書き終えて、私は、読み返した。

 事務的だった。事実と、依頼と、利子。

 昼に、来てください、とは、書かなかった。門で、一度、言った。二度は、言わない。頼みは、一度でいい。二度目は、催促だ。私は、この手紙で、馬を頼んだ。人を頼んだのではない。人は、門で、頼んだ。


 署名を、見た。

 レオニー・ソレル。

 借りている名。あの人に、この名で書くのは、初めてだった。あの人の前で、私は、レオニー、だけだった。今夜、姓をつけた。事務の手紙だから、と、自分に言った。自分に言った言葉は、自分に、聞こえる。聞こえて、私は、少し、迷って、そのままにした。返す名は、返すときに、返す。


 封をして、翌朝、監督院の使者と同じ馬車に、預けた。


 返事は、来なかった。

 五日。十日。

 私は、待った。待つのは、得意だ。ただ、今度は、待ちながら、柵を直し、草を刈り、十人に、手綱の持ち方を教えた。待つことが、他のことと一緒にできる。それを、私は、この秋、覚えた。


 十日目の、正午。

 門に、馬が、いた。


 灰色の、大きな馬。

 その後ろに、栗毛の牝馬が、三頭。綱で、繋がれて。

 灰色の馬の上に、目を細めた男が、いた。


 昼の光の中で。眠っていない顔で。手で、光を遮って。

 十人の娘が、柵の中から、その男を見た。ポーレットが、厩の前で、腕を組んで、その男を見た。私は、モーヴの肩の横から、その男を見た。


「返事は」


 と、私は言った。


「書かなかった」


 と、彼は言った。


「昼に、持ってきた。条件は、俺が決めろ、と書いてあった。……決めた。俺が、連れてくる。それが、条件だ」


 彼は、灰色の馬から、一で、降りた。

 降りて、目を細めたまま、十人の娘を、見た。娘たちは、口を開けていた。この人が、口が多い人だということを、まだ、知らない顔で。


「……ひどいな、昼は」


 と、彼は、言った。


「知っています」


 と、私は言った。

 二度目だった。同じ言葉が、同じ人と。二度目は、少し、笑いが混じった。彼のほうにも。それは、たぶん、私が、この人の顔を、初めて、昼の、笑いに近い形で、見た瞬間だった。


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