第25話 歩く女
九十日、私は、王都を歩いた。
朝、職人の街を出て、王宮の裏の厩へ。モーヴに会う。首を梳く。それから、川へ。橋を渡る。市場。教会。また橋。夕方、戻る。
長靴は、二か月で、底が減った。私は、靴屋で、新しい靴底を打ってもらった。ポーレットの金貨で。「利子は、要りません」と、彼女はもう一度言った。二度言うのは、あの人にしては、多い。
ヴィダル馬監に会ったのは、四十日目だった。
厩の頭が、私をモーヴの馬房の前で呼び止めて、「馬監が、お会いになりたいと」と言った。
馬監は、六十を過ぎた、背の高い男だった。騎兵の上着。片脚が、少し、不自由だった。厩の奥の、小さな部屋で、彼は、私を、座らせなかった。私が、座らなかったからだ。彼も、立ったままだった。
「ラランドの牝馬に、毎日、女が会いに来る、と厩の頭が言う」
「借りていますので。返すまで、預かっています」
「返す、というのは」
「ラランドへ、引いて帰ります。門を通って。それが、返す、だと、貸した人が」
馬監は、少し、笑った。
「あの男の言い方だな」
彼は、窓のほうを見た。厩の裏の、騎兵の練習場。若い騎兵が、十人ほど、輪を描いて走っている。
「ガスパールは、私の隊にいた。五年、隊長を。……あの男は、隊で、いちばん口が多くて、いちばん、部下を死なせなかった隊長だった。一度を、除いて」
「一度」
「夜襲だ。見張りの交代を、一人、間違えた。それだけだ。それだけのことで、あの男は、除隊した。私は、止めた。止められなかった。口が多い男は、自分に言い聞かせる言葉も、多い。多すぎて、誰の言葉も、入らなくなる」
私は、何も言わなかった。
夜の草地で、彼が短く言った、あの本当のことを、私は、昼の厩で、別の人の口から、聞いた。同じことだった。ただ、馬監の言葉には、彼が言わなかった一行が、あった。いちばん、部下を死なせなかった隊長だった。それを、彼は、自分では言わない。言わないことを、私は、今日、知った。
「あの男が、昼に、王都に来た」
馬監は、私を、見た。
「五年、来なかった。父の葬儀にも、私が行った。あの男は、夜、屋敷から出なかった。……それが、昼に、監督院の白い部屋で、俺は口が多い、と言って、監督官を笑わせた。厩の頭から、聞いた。奥方が、そうさせたのか」
「頼みました。一度。門で」
「一度で、来たか」
「はい」
「なら、あの男は、あなたに、二度と頼ませないつもりだ」
馬監は、それだけ言った。
それが、どういう意味か、私は、訊かなかった。訊かなくても、分かる気がした。分かる気がすることを、私は、確かめない癖がある。確かめる方法が、ラランドの門にしか、ないからだ。
「一万枚」
と、馬監は言った。
「監督院の判決は、王都では、もう、皆が知っている。病弱な伯爵夫人が、馬で三日来て、夫の印刷を読み上げた、と。……一万枚。何をなさる」
「まだ、決めていません」
「決めるまで、モーヴは、ここにいればいい。ラランドの馬は、うちの厩で、いちばん良い馬房を使う。それは、五年前からの、決まりだ」
九十日目に、金は、来た。
馬車で、ではなかった。金貨一万枚は、大人一人分の重さだ。私は、それを、二人の男が担いで、階段を上がってくるところを、想像していた。持てるようになっておかなければ、と、書庫で思ったのは、その重さのためだった。
来たのは、紙、一枚だった。
監督院の使者が、封筒を持ってきた。中に、王都の銀行の為替。金貨一万枚と、書いてある。伯爵が、屋敷を抵当に入れて、銀行から借りて、監督院を通して、私に払った。紙で。
私は、その紙を、机の上に置いて、見た。
軽い。
一万枚が、紙一枚。私と同じ重さになるはずのものが、私の手のひらに載る。
持てるようになっておいたのに、と、私は思った。思って、少し、笑った。声が出た。ポーレットが、扉のところで、私を見た。「奥様?」「いえ。軽かったので」。ポーレットは、何のことか分からない顔で、頷いた。
九十一日目、私は、いつものように、歩いた。
川へ。橋を渡って、公園へ。
公園の端に、乗馬道がある。朝、貴族の馬が、そこを走る。私は、それを、柵の外から、見るのが、この頃の習慣になっていた。走っている馬を、見る。速歩。駈歩。腰で受けているか、受け損ねているか。私は、それが、分かる。五か月で、分かるようになった。
その朝、乗馬道の脇に、馬車が、止まっていた。
黒い、良い馬車。中に、女が二人。母親と、娘。
娘は、十二か、十三。青白い顔。膝に、毛布。春の初めなのに。窓に、額を、つけていた。乗馬道を、見ていた。走る馬を。目が、動いていた。馬と一緒に。右へ。左へ。
母親が、何か言った。
ほら、風が。
たぶん、そう言った。口の形が、そう見えた。
窓が、閉まった。娘の額が、窓から、離れた。馬車が、動いた。娘は、動く馬車の中で、もう、乗馬道を見ていなかった。見ないことに、慣れた顔だった。
私は、柵のところに、立っていた。
あの子は、走ったことがあるだろうか。
その問いが、私の中で、立った。立った、というのが、いちばん正確だ。問いが、脚を持って、立った。
答えは、たぶん、知っている。ない。転ぶと、顔に傷がつく。心臓が。風が。あの子の家は、そういう家だ。
私は、あの窓の中に、十二の私を見た。実家の、庭を見る窓。走る妹。走らない私。それから、十二の妹も見た。金色の籠の中の。走ったことのない、柔らかい手の。
一万枚。何をなさる。
馬監の問いが、この柵の前で、答えを持った。
私は、その日、川べりを、歩いた。
王都の端。職人の街のさらに向こう。古い、騎兵の練習場が、あった。使われていない。柵が、半分、壊れている。草が、膝まである。小さな厩が一つ。屋根が、少し、傾いている。
持ち主は、退役した騎兵の未亡人だった。夫が死んで、三年、誰にも貸せなかった、と言った。「馬の場所を借りたい人は、この街には、あまりいないの」。
「借ります」
と、私は言った。
「一年。それから、更新を」
「何に、お使いになるの」
「乗馬を、教えます」
「誰に」
「走ったことのない、娘に」
未亡人は、私を見た。乗馬服と、長靴と、日焼けを。それから、頷いた。この王都は、監督院の判決を、皆が知っている。病弱な伯爵夫人が、と。彼女も、たぶん、知っていた。知っていて、何も言わなかった。
契約書に、署名した。
レオニー・ソレル。
三年半前の名。父の名。塩の名。
私は、それを書いて、少し、見た。これは、借りている名だ。父から。父は、法に従うと言った。この名も、法が、私に戻した。戻された名は、借り物だ。いつか、返す。誰に返すのか、まだ、知らない。知らないまま、私は、この名で、草の伸びた練習場を、借りた。
ポーレットに、言った。
「女中頭を、お願いします」
「女中頭」
「乗馬会の」
「……番人、のほうが、近いのでは」
「では、番人で」
「はい」
あの人は、頷いた。それから、初めて、訊いた。
「奥様は、何と、呼ばれますか。そこで」
「先生、でしょうか」
「先生」
「病弱と言われた娘に、走ることを教える先生です。私が、いちばん、その資格があります」
ポーレットは、何も言わなかった。
何も言わずに、少し、笑った。十九年で、二度目だと思う。一度目は、六本の柱の間。二度目は、傾いた厩の前。二度とも、王都だった。あの人の笑いは、王都でしか、出ないのかもしれない。それも、たぶん、あの人の物だ。




