第24話 待つ女
審理の二日後、職人の街の宿に、馬車が止まった。
黒い、良い馬車だった。この街には、似合わない。窓から見て、私は、誰か、すぐに分かった。会ったことはない。声しか知らない。でも、この街に、この馬車で来る人は、一人しかいない。
「奥様。……お客様が」
ポーレットが、言った。奥様、と、まだ呼ぶ。私は、まだ、それを直していない。直す名が、決まっていないからだ。
「上げてください」
ディアーヌ・ド・シャンボールは、階段を、上がってきた。
三十四歳。暗い紫のドレス。首に、真珠。会計係の、速い足音。部屋に入って、彼女は、まず、部屋を見た。小さい。窓が一つ。屋根が、たくさん見える窓。寝台と、机と、椰子が二つ。
私は、立っていた。
彼女も、立った。座って、と言わなかったからだ。この人は、言われなければ座らない人だと、床下の声で、私は知っていた。この人は、会計係だ。会計係は、招かれた席にだけ、座る。
「初めまして、ではないわね」
と、彼女は言った。
「声は、三年、聞いていました」
「……床下、ね。彼が、言っていたわ。暖炉が、同じ煙突だと。あの家の家政婦が、審理の後で、思い出したそうよ。三年、誰も、気づかなかった。会計係が、煙突を見落とした」
彼女は、少し、笑った。良い笑いではなかった。
「用件を、言うわ。私は、用件のない訪問をしないの」
「はい」
「一万枚。九十日で、彼には、出せない。屋敷を売れば、出る。売れば、彼は、屋敷のない伯爵になる。……分割にしてほしいの。あるいは、一部を。あなたには、そんなお金、要らないでしょう。一万枚。あなたは、粥で三年、暮らした人よ」
私は、彼女を見た。
「私は、何も、請求していません」
「請求したじゃない。監督院で」
「法が、請求しています。第二十七条。私は、それを、読み上げただけです。……分割も、一部も、私には、決められません。決めたのは、法です。法が、九十日、と書いています」
「読み上げなければ、よかったのに」
彼女は、それを、本気で言った。
私は、それに、答えなかった。答える言葉が、なかったのではない。答える必要が、なかった。
ディアーヌは、窓のほうへ、歩いた。
屋根を、見た。
「三年、待ったの」
と、彼女は言った。
窓に向かって。私にではなく。
「私は、三十一で、彼に会った。後援会で。彼は、結婚したばかりだった。妻は病弱で、長くない、と言った。医者が、二十五までは、と。だから、二年。……二年、と言ったのよ、彼は。私は、三十三で、伯爵夫人になるはずだった」
彼女は、窓枠に、手を置いた。
「三十四になった。三十五になる。私は、三年、あなたの病状の言葉を、選び続けた。病床にあり。日に日に弱り。寝室を離れることもかなわず。毎年、上手くなった。上手くなりたくて、なったんじゃない。三年、書いていれば、誰でも上手くなる」
「私も、三年、待ちました」
と、私は言った。
「何をだか、分からないまま」
「私は、分かっていたわ」
ディアーヌは、振り返った。
「何を、待っていたか。はっきり。三年、毎日。……あなたが、死んで――」
そこで、止まった。
部屋が、静かになった。
屋根の上で、鳩が、一羽、飛んだ。窓越しに、その羽の音が、聞こえた気がした。
ディアーヌは、口を、開けたままだった。
自分の言った言葉を、自分で、聞いた顔だった。三年、響きの良い言葉を選んできた人が、初めて、選ばない言葉を、口から出した。出た言葉は、響きが、悪かった。
「……私、いま、何と言ったの」
「聞いた通りのことを」
と、私は言った。
「私が、死んでいれば。貴女は、三十三で、伯爵夫人でした。三年、貴女が待っていたのは、それです。私が、順調に死ぬことです。私は、それを、床の下で、三年、聞いていました。今日、初めて、床の上で、聞きました。それだけです」
ディアーヌは、椰子に、座った。
初めて。言われずに。座る、というより、脚が、座らせたのだと思う。
私は、立っていた。
「『病弱と言っておけばいいのよ』」
彼女は、自分の膝を見て、言った。
「そう言ったのは、私。結婚した年に。彼は、妻を社交に出さない理由を、探していた。私が、言ったの。病弱と言っておけば、誰も何も訊かない、むしろ、気の毒に思われる、と。響きがいい、と言ったのも、私。毎年。……私は、言葉を選ぶ人なの。三年、あなたの病状の言葉を選んだ。一度も、あなたを見ないで」
「上手でした」
と、私は言った。
「貴女の言葉は。婦人たちの胸に、残っていました。私の耳にも。三年分、全部、覚えています。……私は、それを、監督院に、持っていきました。三冊」
ディアーヌは、顔を上げた。
「あの三冊で、私が、三年、選んだ言葉が、あなたの証拠になった」
「はい」
「私が、あなたを寝室に閉じた言葉が、あなたを、寝室から出す言葉になった」
「はい」
彼女は、しばらく、私を見ていた。
会計係の目で。数字を、合わせる目で。三年の数字が、合っていく顔だった。合った答えが、彼女の望んだ答えではなかっただけだ。
「……上手すぎたのね、私」
と、彼女は言った。
笑わなかった。
ディアーヌは、立った。
ドレスの裾を、直した。真珠に、手を触れた。会計係の速い動きが、少し、戻った。
「彼のところへは、戻らないわ」
と、彼女は、扉の前で言った。
「屋敷のない伯爵の、献身的な、嘘つき。それは、後援会では、売れないの。献身的な夫、なら、売れた。三年、売れた。……もう、売れない」
私は、何も言わなかった。
「私に、何か、言うことは」
「私に、言うことでは、ありません」
「誰に、言えばいいの」
私は、少し、考えた。
「……ご自分に」
と、私は言った。
「貴女は、三年、私についての言葉を、上手に選びました。ご自分についての言葉は、たぶん、一度も、選んでいません。三十一で会って、三十四になった。それは、貴女の三年です。私の三年ではなく。……それを、誰に言うのかは、私には、分かりません。私には、言わないでください。私は、貴女の三年を、聞く義務が、ありません。私の三年を、貴女は、三冊、書いたのですから。それで、足りています」
ディアーヌは、扉に、手を置いた。
振り返らなかった。
「あなた、床の下で、三年、聞いていて、どうして、何も言わなかったの」
「病人は、文句を言いません」
「……」
「今は、病人ではありません。だから、今日、言いました」
彼女は、出ていった。
階段の音。速い。会計係の足音。それから、馬車の音。黒い、良い馬車が、職人の街を、出ていった。
私は、窓に、立った。
屋根。鳩。王都の、昼の音。
待つ女が、二人いた。
一人は、私が死ぬのを、待っていた。三年。何を待っているか、はっきり知って。
一人は、何を待っているか知らないまま、待っていた。三年。粥と、天井の染みと、床下の声と。
知らなかったほうが、先に、待つのをやめた。階段を、一段、下りた夜に。
それだけの違いだ。
それだけの違いが、今日、この小さな部屋で、とても、大きかった。
ポーレットが、扉のところに、立っていた。ずっと、いたのだと思う。
「奥様」
「……その、呼び方を、変えなければ」
「何と」
「分かりません。まだ。九十日、あります」
ポーレットは、頷いた。
あの人は、何も言わずに、頷く。それから、言った。
「では、九十日、奥様で」
「はい」
私は、椰子に、座った。
ディアーヌが、座った椰子ではない。もう一つのほうに。
座っても、病人には見えなかった。窓から、屋根が見えた。座って見る屋根は、立って見る屋根と、少し、違う角度だった。それだけだった。座ることは、もう、病人の姿勢ではなかった。三年ぶりに、私は、座ることを、自分で選んだ。




