第23話 立会人、隣家
審理室は、白かった。十日前と、同じ白さだった。
違うのは、右手の壁際に、椅子が一つ、増えていることだった。そこに、彼が座っていた。
いつもの上着だった。いちばん良いものらしいが、いつもの上着に見えた。彼は、白い部屋の光に、目を細めていた。細めたまま、監督官を見ていた。
「ラランド子爵。伯爵は、夫人が夜、貴方の元へ通っていた、と主張しています」
監督官が、言った。
「通っていた」
と、彼は答えた。
審理室が、ざわめいた。
夫が、少し、背を伸ばした。良く見える姿勢に。傍聴席で、ディアーヌの口が、動いた。
「五か月。毎夜。最初は、十時から二時半。家政婦が鍵を掛けてからは、十一時から二時半。……鍵は、侍女が開けた。いい侍女だ」
彼は、まっすぐ、言った。隠さなかった。隠さない人が、白い部屋で、隠さない。それが、どう聞こえるかは、考えていない顔だった。
「夫人は、貴方の厩で、何を」
「最初の夜は、牝馬の頭を、四十分押さえた。難産だった。馬丁が腹をやられていて、俺一人だった。扉に、誰か立っていたので、手を貸してくれ、と言った。誰かは、知らなかった。その夜のうちに、仔が立つのを見た。その次から、手綱の持ち方。肩の横を歩く。梳き櫛。走った。転んだ。起きた。鞍に上がった。速歩。落ちた。起きた。駈歩。丘に上がった。……五か月分を、順に言うと、そうなる。細かいことは、まだ、ある。全部言うと、監督官殿が寝る」
誰かが、笑った。
傍聴席の、後ろのほうで。母ではない。母は、笑わない。
彼は、膝の上の、油布の包みを、解いた。
黒い革の、厚い帳面。
「種付けと、出産の台帳だ。王室騎兵に馬を売る家は、これを付ける。父の代から、一頭も欠かさず。読まれるために付けるものじゃない。だから、嘘を書く理由がない」
彼は、それを、書記に渡した。頁を、開いて。
書記が、読んだ。
「『父、王室騎兵種牡馬アルジャン。母、ソワール。生、夏の初め、真夜中過ぎ。立会い、バティスト(病欠)、レオニー(隣家)。所要、四十分。名――』」
書記は、そこで、止まった。
名の行を、見て、彼を見た。彼は、首を、小さく、横に振った。書記は、名を、読まなかった。
私は、それを、見た。見て、何も言わなかった。利子は、返したときに、だ。ここは、ラランドではない。
夫が、立った。
「監督官殿。夜、五か月、二人で。それを、不貞でない、と」
彼が、夫を見た。
初めて、この部屋で。目を、細めたまま。
「不貞をする暇は、牝馬が許さない」
と、彼は言った。
「ソワールは、四十分かかった。仔が立つのに、四度、転んだ。その次は、手綱。手綱は、一晩では覚えられない。三晩かかる。それから、走る。転ぶ。起きる。俺は、起きられる人には手を出さない。失礼だからだ。それから、鞍。鞍は、一週間。速歩、二週間。駈歩、三週間。夜は、三時間半しかない。三時間半で、馬を教えて、そのうえ不貞をする。俺には、無理だ。俺は、口が多い。口が多い男は、手が遅い。つまり――」
傍聴席が、笑った。
今度は、後ろだけではなかった。監督官の口の端が、少し、動いた。動いて、すぐ、戻った。
「――つまり、俺が、あの人に触れたのは、二度だ。左の長靴の、踝。鐙に乗せるときに。革越しに。二度。数えている。眠れない男は、数える。それが、この病気の、良いところだ」
夫は、立ったまま、何か言おうとした。
彼が、先に、言った。今度は、長くなかった。
「あの人は、俺の厩で、五か月、走った」
白い部屋が、静かになった。
「走れる人だった。走らせなかった人たちが、あの人を、虚弱と呼んだ。伯爵は、それを三年、印刷した。妻は寝室を離れることもかなわず、と。……いま、伯爵は、妻は夜、出歩いていた、と言う」
彼は、夫を、見た。
「どっちだ。寝室を離れられない妻が、夜、俺の厩まで、五百歩、歩いてきたのか。歩けたなら、伯爵の印刷は、嘘だ。歩けなかったなら、俺の台帳が、嘘だ。台帳は、嘘を書かない。読まれないから。印刷は、響きを選ぶ。読まれるから」
監督官が、夫を見た。
「伯爵。どちらですか」
夫は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。私は、彼の顔を見ていた。三年、年に五分見てきた顔。良く見える顔。良く見せる顔。今日、その二つが、白い部屋で、どちらを選んでも、良く見えなくなっていた。
妻は、歩けた。それを認めれば、三年の印刷が、嘘になる。後援会の婦人たちの胸に残った言葉が、全部。献身的な夫が、嘘つきになる。
妻は、歩けなかった。それを認めれば、不貞の主張が、消える。一万枚が、消える。屋敷が、消える。
この人は、良く見えることを、選ぶ人だ。三年、床の下で聞いた。どちらが、良く見えるか。
「……妻は」
と、夫は、言った。
「病床に、ありました」
選んだ。
印刷のほうを。婦人たちの胸に残った言葉を。屋敷より、一万枚より、良く見えることを。この人は、最後まで、この人だった。私は、それを、責めなかった。責める言葉を、持っていなかった。ただ、夫が、私を、最後まで、病床に置いたことを、私は、白い部屋で、立ったまま、受け取った。
「では」
監督官が、羽根ペンを取った。
「伯爵の、不貞の主張は、伯爵自身の、三年にわたる公言と、両立しません。主張を、退けます。……伯爵。監督院への申立てにおいて、都合により事実を選ぶことは、許されません。記録に、留めます」
夫は、座った。
ゆっくり。
「本院は、ベルヴュー伯爵とレオニー・ソレルの婚姻を、第二十七条により、無効と認める。婚姻は、登録の日より、成立しなかったものとする。妻の実家より持参された財産、金貨一万枚は、レオニー・ソレル本人に帰属する。伯爵は、九十日以内に、これを返還すること」
レオニー・ソレル。
監督官は、そう言った。ベルヴューが、消えた。私は、一秒、その名を、白い部屋で、聞いた。三年半前の名。父の名。塩の名。私は、それも、たぶん、長くは、着ない。
傍聴席で、ディアーヌが、立った。
顔が、白かった。壁と同じくらい。彼女は、何も言わずに、扉へ歩いた。夫は、彼女を、見なかった。彼女も、夫を、見なかった。二人は、この白い部屋で、初めて、互いに用がなくなった顔をしていた。
私は、立っていた。
呼吸を、数えた。癖だ。
十で、終わった。
百まで、数えなかった。十で、三年が、終わった。三年は、十呼吸で終わる。それを、私は、知らなかった。
外は、昼だった。
六本の柱の間に、光が、真っすぐ落ちていた。
彼は、柱の影に、立った。目を、細めて。手で、光を遮って。
「昼は、ひどい」
と、彼は言った。
「ありがとうございます」
と、私は言った。
三年、言い続けた言葉だった。医師に。ジャクリーヌに。夫に。あれは、粥を受け取る言葉だった。
今日、同じ言葉を、私は、柱の影の人に、言った。同じ言葉が、違う重さだった。この人は、昼を持っていないのに、昼に、来た。三日の街道を、二日半で。眠らずに。それに対して、私が持っている言葉は、三年使い古した、この一つしかなかった。使い古した言葉でも、重さが変われば、届く。届いたかどうかは、彼の顔を見れば、分かった。
「借りは」
と、彼は言った。
「まだ、返してもらっていない」
「モーヴは、ヴィダル馬監の厩に」
「返しに来い、と言った。ここじゃない。ラランドに。あなたが、モーヴを引いて、俺の門を通る。それが、返す、だ」
私は、彼を見た。
昼の光の中で。細めた目。眠っていない顔。五年、昼に街へ出ていない人が、二日半、街道を来て、白い部屋で、俺は口が多い、と言って、監督官を笑わせた顔。
「……はい」
と、私は言った。
来る、のほうの、はい。彼は、それを、聞き分けた。眠れない男は、耳がいい。
父が、柱の陰から、出てきた。
母は、いなかった。先に、馬車へ行ったのだと思う。父は、彼を見た。上から下まで。塩商いの目で。
「馬の人か」
「馬の人だ」
父は、頷いた。それだけだった。それだけで、父は、馬車へ行った。父の全部は、いつも、それだけだ。
彼は、父の背中を見て、言った。
「口が少ないな」
「塩商いです」
「なら、俺と、丁度だ」
私は、笑った。
声が出た。六本の柱の間で。昼に。
私は、もう、伯爵夫人ではなかった。今日から。何であるかは、まだ、決めていない。決めていないまま、昼の王都で、声を出して笑っていた。それは、三年前には、なかったことだ。名のないまま笑う。それも、たぶん、私の物だ。




