二話 不思議な女の子
「じゃあ、今日からよろしくね。月岡さん。」
とても静かな声だった。
優しいのに、どこか落ち着いていて。
その声を聞いているだけで、不思議と心が少しだけ穏やかになる。
「よ、よろしくお願いします」
私は慌てて深く頭を下げた。
「わざわざお時間を作ってくださって……ありがとうございます」
「……ふふっ」
小さく笑う優しい声が聞こえた。
「そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ。同じ一年生なんだから」
「で、でも……」
「敬語なんだね」
「え?」
「礼儀正しいなって思って」
少しだけ照れてしまう。
「お母さんに、『挨拶とお礼だけはちゃんとしなさい』って、小さい頃から言われてて……」
「そうなんだ」
彼女は優しく頷いた。
この子と話していて思う。
この子はとても不思議だ。
大きな声を出すわけでもない。
別にたくさん笑うわけでもない。
なのに、一緒にいるだけで心が安心する。
初めて会ったはずなのに、そんな気がしなかった。
「じゃあ始めようか」
彼女は私の数学の教科書を開く。
「先生から、どこを教えてもらってほしいか聞いてる?」
「えっと……」
私は教科書を見つめた。
「全部です」
「全部?」
「はい……」
「……」
一瞬だけ沈黙が流れる。
「じゃあ、この問題を解いてみて」
ノートに書かれたのは、そこまで難しそうには見えない一次方程式。
……見えないだけ。
私は鉛筆を持つ。
数字を見る。
式を見る。
『3x−5=10』
…………。
…………。
「……」
頭の中が真っ白になった。
えっと。
何からするんだっけ。
右?
左?
移項?
移項ってどっちに行くんだっけ。
頭の中の数字がぐるぐると回り始める。
「えっと……その……」
震える手が止まる。
芯が綺麗に削られた鉛筆も止まる。
さっきまでフル回転だった思考も止まる。
完全に固まってしまった。
「……」
星奈さんは何も言わない。
私を急かすこともなく、ただただ静かに私を待ってくれている。
その星奈さんの優しさが逆に申し訳なくなってくる。
「ご、ごめんなさい……」
私は思わず俯いた。
「頭では頑張ろうって思ってるんですけど……」
「うん」
「数字を見ると、急に何も分からなくなっちゃって……」
情けない。
こんなの、小学生でも解けるかもしれない。
私だけが遠くへ遠くへ置いていかれている気がした。
その時だった。
星奈さんが私のノートを見ながら、小さく呟く。
「……本当に苦手なんだね」
「うぅ……」
なにも否定できない。
恥ずかしくて顔がタコみたいに熱くなる。
クスクスと笑われるかな。
先生みたいに呆れられるかな。
そう思って恐る恐る顔を上げると。
星奈さんは少し困ったように微笑んでいた。
「でも、大丈夫」
「へ?」
「苦手なら、一つずつできるようになればいいし」
その言葉には、人を馬鹿にするような響きは少しもなかった。
「それに分からないことを分からないって言えるのは、悪いことじゃないよ」
「……」
「じゃあ、一番最初からやってみようか」
そう言って、星奈さんはノートにゆっくりと私が見やすいように数字を書き始めた。
「まずは、この『=』は天秤だと思ってみて」
「天秤……?」
「うん。左右の重さが同じだから、片方だけを変えちゃダメなの」
私はその説明を聞きながら、小さく頷いた。
……あれ?
今まで何度も何度も先生に教えてもらったはずなのに。
星奈さんの言葉は、私も不思議なくらい頭にすっぽりと、パズルのピースを埋めるように入ってくる。
もしかしたら。
この子なら。
私は本当に数学が少しだけ好きになれるのかもしれない。
そんな予感が、春の柔らかな風と一緒に胸の中へ入り込んできた。




