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一話 春の訪れ

本文入りました。

 春が近づくと、私はいつも、少しだけ寂しくなる。


 理由は私にもよく分からない。

 薄いピンク色の桜が咲くのは綺麗だし、新しい季節が始まるのもずっと楽しみなはずなのにね。

 白い冬の冷たい空気が少しずつ柔らかくなって、風の匂いが春色に変わっていく頃。


 私はまた、何か大切なものが遠くへ行ってしまうような気持ち少しになる。

「……またこの季節かぁ」

 綺麗に掃除された教室の透明な窓から広い外を伏し目で眺めながら、小さくため息のように呟いた。


 私の名前は月丘陽月岡陽葵(つきおかひまり)葵。

 私立の女子高校に通う、ごく普通の高校一年生。

 ……と言いたいところだけど。

 一つだけ、多分普通じゃない悩みがある。

「数学……どうしてこんなに難しいの……」

 少し広くなった机の上に広げた文字の小さい数学のプリントを見て、私は深いため息をついた。


 数字。

 記号。

 公式。


 全部が私を嫌っているように見えてくる。

 国語なら文章を読めば気持ちを想像できる。

 家庭科なら料理や裁縫みたいに、手を動かした分だけ答えが返ってくる。

 でもやっぱり数学はなんか違う。

「どうしてこの数字になるの?」って聞いても、数字はなんにも答えてくれない。


「陽葵、また数学で悩んでるの〜?」

 隣の席の友達の七郷祈里(ななさといのり)ちゃんが軽く笑いながら気軽に声をかけてくる。

「うん……たぶん数学さんとは一生分かり合えないと思う……」

「数学さんって誰なの」

「私を苦しめる敵……」

「大げさだよ〜!」

 うっ⋯⋯笑われてしまった。

 でも私自身も本当にそう思う。

 私は勉強が嫌いってわけじゃないし、むしろできるようになりたい。


 将来は茶道の先生になりたいと思っているから、そのためにも勉強は頑張りたい。

 だけど、苦手なものは苦手だった。


 そして、その日の放課後。

 先生から呼び出された私は、職員室の前で少し緊張していた。

「月丘さん、ちょっとお願いがあるんだけど」

 担任の先生は優しく笑った。

「お願い……ですか?」

「うん。実はね、数学の成績についてなんだけど」

 その言葉を聞いた瞬間、私は肩を落とした。

 やっぱり。

 やっぱり数学だった。

「月丘さんは国語や家庭科はよくできているでしょう?」

「はい……」

「だからこそ、数学だけ少しもったいないなと思ってね」

 先生は一枚の紙を見ながら続けた。


「それで、勉強を見てくれる人をお願いしているの」

「え?」

「同じ一年生の子なんだけど、とても成績が良くてね」

 嫌な予感がした。

 まさか。

「月丘さんには、その子に数学を教えてもらってほしいの」

 ……え?

「……私が?」

「違う違う」

 先生は慌てて首を振った。

「月丘さんが教えてもらう側」

「あ……」

 恥ずかしくなって顔が熱くなる。

 そっか。

 私、そんなに危ない成績だったんだ……。

「その子ならきっと丁寧に教えてくれると思うよ」

「分かりました……」


 そして翌日。

 私は放課後の空き教室で、その子を待っていた。

 緊張していた。

 どんな子なんだろう。

 怖い子だったらどうしよう。

「こんなのも分からないの?」なんて言われたら泣いてしまうかもしれない。

 ……いや、泣かない。

 私は意外と強いんだから。

 そう自分に言い聞かせていると。

 教室の扉が静かに開いた。


「……月丘さん?」

 聞いたことのない声。

 振り向くと、そこには一人の女の子が立っていた。

 綺麗な黒髪。

 落ち着いた雰囲気。

 そして、どこか不思議な優しさを感じる目。

「はじめまして」

 その子は少しだけ微笑んだ。


「私、星奈」

「月丘陽葵です……よろしくお願いします」

「うん。よろしく」

 短い会話だった。

 なのに。

 なぜか、その瞬間だけ時間がゆっくりになった気がした。


 春の風が、窓の隙間から教室に入り込む。

 まだ少し冷たい風。

 でも、冬の終わりを知らせるような優しい風。

 この時の私は知らなかった。

 この出逢いが、私の人生を大きく変えることになるなんて。

 まだ、知らなかった。


担任の先生の名前は安方双葉(あがたふたば)です。

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