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第19話 王妃という仕事を、廃止します

第19話 王妃という仕事を、廃止します


 王国議会が開かれる朝、アイリスは王妃執務室で一人、最後の資料を確認していた。濃紺の実務用ドレスの腰には魔導ペンケースがあり、銀灰色の髪は一本も乱れないよう高く結い上げている。机には温めた牛乳と胡桃入りのパンが置かれていたが、資料へ目を通しているうちに、牛乳の表面には薄い膜が張っていた。


「王妃様。また朝食を忘れていらっしゃいます」


 エマが扉を開け、洗い終えた白い手袋を籠へ入れながら近づいてきた。今日は議会へ同行するため、いつもの灰色の侍女服ではなく、襟元に青い刺繍が入った紺色の正装を着ている。彼女は冷めた牛乳を下げ、保温瓶から新しいものを杯へ注いだ。


「忘れてはいません。あとで食べようと思っていました」


「王妃様の『あとで』は、夕方を意味します」


「今日の議会が終われば、ゆっくり食べられます」


「空腹のまま保守派の方々と議論なされば、王妃制度より先に議員の方々を廃止したくなりますよ」


「それは困りますね」


 アイリスは胡桃入りのパンを半分に割り、一方をエマへ渡した。昨日、市場でレナードと一緒に買ったもので、表面には蜂蜜が薄く塗られている。エマは遠慮せず受け取り、二人は机の上に広げた法案を見ながら朝食を取った。


 法案の表題は『王族配偶者の地位及び宮廷業務の再編に関する法』となっていた。その中には、王妃が歴代担ってきた業務を四つの専門部署へ移管することが記されている。王妃だけでなく、将来女王の夫となる者にも適用されるため、性別に関係なく王族の配偶者を守る制度だった。


「これが可決されたら、この部屋はどうなるのですか?」


「行政改革顧問室になります」


「王妃様は、ここでお仕事を続けるのですね」


「週二日だけです。王妃だからではなく、契約を結んだ顧問として働きます」


「この机も、使い続けるのですか?」


「いいえ。大きすぎますし、抽斗が多すぎます。以前、奥から三年前の焼き菓子が出てきました」


「あれは、わたくしも驚きました。石のように固くなっていましたね」


 エマはパンの最後の一口を牛乳で流し込み、空になった皿を重ねた。アイリスも食事を終えると、法案と資料を革の鞄へ収めた。何度も読み直した紙の端は柔らかくなり、指先には黒いインクが薄くついていた。


 午前十時、王国議会の大広間は貴族と官僚で埋め尽くされていた。高い天井には歴代国王と王妃の肖像画が並び、壁際には王妃が慈善院を訪れ、外国使節を迎え、戦地で兵士を励ます姿が描かれている。しかし、王妃が深夜まで帳簿を調べる姿も、熱を出して寝込む姿も、どの絵にも残されていなかった。


 議員席には赤や緑の礼服を着た貴族たちが座り、傍聴席には文官、侍女、商人、職人が並んでいた。卓上の水差しへ柑橘の薄切りが入れられているため、室内には爽やかな香りが漂っている。議長が木槌を鳴らすと、ざわめきが止まった。


「これより、王族配偶者の地位及び宮廷業務の再編に関する法案を審議する。提案者、アイリス王妃殿下」


 名前を呼ばれたアイリスは、革の鞄を持って演壇へ進んだ。上座には黒い正装のレナードが座り、その隣でアルバートが議事録を確認している。レナードは口を挟まず、アイリスが自分の言葉で提案するのを待っていた。


「本法案は、王妃へ集中している業務を専門部署へ移管し、王族の配偶者へ無制限の労働を求める慣習を廃止するものです」


 アイリスは大きな業務表を議員たちへ示した。そこには、外交接待、慈善事業、宮廷行事、予算監査、王族の日程調整、貴族間の仲裁など、王妃が担当してきた仕事が並んでいる。議員席から、紙をめくる音と低い話し声が聞こえた。


「外交接待は外務局へ移管します。慈善事業は新設する福祉院、宮廷行事は儀典局、予算監査は王家から独立した監査院が担当します」


「それでは、王妃は何をなさるのです?」


 白髪のグランデル公爵が席から立ち上がった。深緑色の礼服には勲章がいくつも並び、胸を動かすたびに金属同士が触れて音を立てる。彼は法案を机へ置き、アイリスを見上げた。


「王妃は国王の配偶者です。国の行政官ではありません」


「王妃には、国母として民を導く責任がある!」


「国王の妻になれば、出産の有無に関係なく国母と呼ばれます。ですが、国民全員の母親として無償で働く契約を結んだ覚えはありません」


「契約の問題ではない。伝統だ!」


 公爵の太い声が大広間へ響いた。机の上にあった水杯が揺れ、柑橘の薄切りが水面で回る。周囲の保守派議員も、賛同するように机を叩いた。


「代々の王妃は、文句一つ言わず国へ尽くしてきた。なぜ、あなたにだけできないのです?」


「できなかった王妃の記録が、残されていないだけです」


 アイリスは別の資料を開いた。過去百年で、王妃になった女性は七人。そのうち三人が四十歳になる前に亡くなり、二人が長期間病床に伏し、一人が離宮へ移って公務へ姿を見せなくなっていた。


「先々代の王妃は、三十五歳で倒れるまで年間三百日以上公務へ出ていました。先代の王妃は、出産から十日後に外国使節を迎えています」


「それが王家へ嫁いだ女性の覚悟だ」


「断れない状況を覚悟と呼べば、使う側には都合がよいでしょう」


「あなたは、歴代王妃の献身を侮辱するのか!」


「いいえ。二度と同じ犠牲を求めないことが、その方々の働きに報いる方法だと申し上げています」


 グランデル公爵は勲章の並ぶ胸を上下させ、椅子へ座った。議員席の一部からは賛同の声が上がったが、保守派はなおも法案への反対を続けた。王妃から業務を取り上げれば権威が失われ、王家の結束が弱くなるというのである。


「王妃は国王を支える存在だ。夫を支えず、何のための妻か!」


 別の伯爵が叫ぶと、レナードの眉がわずかに動いた。アイリスは上座を見ず、伯爵へ向き直った。以前なら、国王を支えることは妻の責務だと言われれば、反論せず受け入れていた。


「支えることと、代わりに働くことは違います。私が倒れないよう陛下を支えることもあれば、陛下が私を休ませることもあります」


「王妃が業務を拒否すれば、陛下の負担が増えるではないか」


「だから、専門部署を作るのです。なぜ妻が行わなければ、夫一人で抱えることになるのです?」


「夫婦とは、そういうものだ!」


「では、伯爵は奥方様の仕事を、どれだけ担当なさっていますか?」


 伯爵は口を開けたまま固まった。彼の妻は領地の会計だけでなく、使用人の管理や子どもの教育、親族への贈答まで担っている。しかし伯爵は、自分の靴下がどこへ収納されているかさえ知らなかった。


「それとこれとは話が違う」


「どこが違うのか、具体的にご説明ください」


「王妃が国母として国へ尽くすのは伝統だ!」


 グランデル公爵が再び立ち上がった。そのとき、傍聴席で椅子を引く音が響いた。淡い黄色のワンピースを着たセシリアが立ち上がり、その後ろでは灰色の制服姿の女性たちが一斉に姿勢を正した。


「発言をお許しいただけますか?」


 議長がうなずくと、セシリアは傍聴席の前へ進んだ。蜂蜜色の髪は以前のように細かく巻かれず、首の後ろで一つに結ばれている。手には何度も使われて角の擦れた帳面があり、右の袖には薬草の葉をすり潰した緑色の染みがついていた。


「私は以前、陛下の愛妾でした。王妃代理を務めるまで、王妃様がどのような仕事をしているのか知りませんでした」


「愛妾であった者が、王妃制度へ口を出すのか?」


 公爵が顔をしかめると、セシリアは握っていた帳面を胸へ当てた。傍聴席の女性たちが見守っていることを確かめ、ゆっくり息を吸う。愛妾宮にいた頃なら、貴族の男性から強く言われるだけで、微笑んで頭を下げていた。


「愛妾だったからこそ、分かることがあります。私は、愛されて微笑んでいればよいと教えられました。王妃様は、国のために休まず働けばよいと教えられました。役割は違っても、どちらも自分の生き方を選べませんでした」


「王家に守られていた者が、勝手なことを」


「ええ。私は守られていました。だからこそ、守られている場所から出たあと、自分で生きる方法を何も知らなかったのです」


 セシリアは後ろに並ぶ女性たちを振り返った。彼女たちは職業訓練所の最初の卒業生である。薬草工房へ就職した者、商会の会計係になった者、魔道具の修理を学んだ者が、それぞれ仕事着で議会へ来ていた。


「こちらの女性は、夫が亡くなったあと、計算ができないという理由で商会から賃金を半分しか支払われませんでした。こちらの方は、家族の世話をするのは娘の役目だと言われ、三十年間、無償で働いていました」


「家庭の事情を、国の制度と一緒にするな」


「同じです。誰か一人の献身を当然だと思えば、仕事を分ける必要も、対価を払う必要もなくなるからです」


 セシリアは公爵をまっすぐ見た。彼女の後ろで、卒業生たちも目を伏せずに立っている。大広間には、衣擦れの音さえ聞こえないほどの静けさが広がった。


「女性の献身を前提にしなければ続かない伝統なら、もう寿命なのではありませんか?」


 傍聴席から拍手が起こった。最初は数人だったが、やがやがて文官や侍女、商人たちも加わり、大広間全体へ広がっていく。グランデル公爵は止めさせようと周囲を見回したが、議員席の中からも拍手する者が現れた。


「静粛に」


 議長が木槌を鳴らし、採決へ移ることを告げた。法案に賛成する者は白い札、反対する者は黒い札を机の上へ置く。アイリスは演壇に立ったまま、一つずつ増えていく白い札を見守った。


 投票の結果、賛成は全体の三分の二を超えた。王妃業務の分割と、王族配偶者の労働条件を定める法案は可決された。レナードが承認書へ国王印を押すと、議場の外で待っていた人々にも聞こえるよう、大きな鐘が三度鳴った。


 その日の夕方、アイリスは王妃執務室の前に立っていた。扉の上には金文字で『王妃執務室』と刻まれた木の看板が掛かっている。アイリスが王宮へ嫁いだ日から、変わらずそこにあったものだった。


「外すのですね」


 エマは小さな脚立を運び、扉の前へ置いた。執務室の中では、文官たちが外交資料を外務局へ、慈善院の帳簿を福祉院へ運んでいる。机の上には移動先を書いた札と、荷造りの途中で余った紐が散らばっていた。


「私が外します」


 アイリスは脚立へ上り、看板を留めている金具へ手をかけた。長年磨かれてきた木は滑らかだったが、裏側には埃が厚く積もっている。金具を外すと、看板は思っていたより重く、エマが下から両手で支えた。


「こんなに重かったのですね」


「一人で持つものではなかったのでしょう」


 二人は看板を床へ下ろし、乾いた布で埃を拭いた。金色の文字はまだ美しく残っている。アイリスはそれを捨てず、王宮資料館へ保管するよう札をつけた。


 執務室には、大きな机も書類棚も残っていた。しかし棚の中身は半分以下になり、机の上には一輪の白い花を挿した花瓶が置かれている。翌週には扉の上へ『行政改革顧問室』という新しい看板が掛けられる予定だった。


「王妃様。明日から、何とお呼びすればよいのでしょう」


「これまでどおりで構いません。王妃でなくなったわけではありませんから」


「ですが、王妃という仕事はなくなりました」


「ええ。王妃は身分であって、無制限に仕事を押しつけるための役職ではなくなりました」


 夕方五時の鐘が鳴った。アイリスは机の抽斗に残っていた魔導ペンを一本だけ取り出し、ほかの文具を箱へ入れた。エマは窓辺へ置き忘れていた冷たい牛乳の杯を見つけ、明日からは朝食を食堂で取るよう主人へ念を押した。


「今日は陛下と夕食でしたね」


「はい。市場で新しい鍋を選ぶ約束もしています」


「指輪の代わりに鍋ですか?」


「指輪は料理を焦がさないでくれませんから」


 二人は執務室の灯りを消し、扉を閉めた。廊下の壁には、看板が掛かっていた跡だけが白い四角として残っている。その跡も、やがて新しい看板に隠れるだろう。


 机も書類棚も、王宮の仕事もなくなったわけではない。だが、次にこの部屋で働く者は、一人で国を背負わなくてよい。アイリスは外した看板をエマと二人で抱え、夕食の匂いが漂い始めた廊下を、急がずに歩いていった。



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