第20話 王妃はもう業務外です
第20話 王妃はもう業務外です
王宮改革から三年が過ぎた春、ルヴェリア公爵領の庭には、白いカミツレの花が一面に咲いていた。領主館の裏庭では、収穫した薬草を乾燥棚へ移す作業が朝から続いている。刈り取られた葉の青い匂いと、温められた土の匂いが混ざり、風が吹くたびに白い花びらが籠の中へ落ちた。
アイリスは生成り色のワンピースを着て、作業台の前に座っていた。袖には乾いた土がつき、銀灰色の髪も首の後ろで簡単にまとめただけである。王宮にいた頃のような宝石も化粧もなかったが、日に焼けた頬には自然な色が戻り、青紫色の瞳には朝の光が映っていた。
「王妃様。こちらの葉は、虫食いが多いです」
隣で仕分けをしていたエマが、穴の開いた葉を持ち上げた。彼女は茶色い仕事着の上へ白い前掛けをつけ、三つ編みには黄色い布を結んでいる。前掛けのポケットには、作業の合間に食べようと持ってきた塩漬け卵が一つ入っていた。
「虫食いの部分だけ取り除き、消毒薬の材料へ回してください」
「お茶には使えないのですか?」
「味に苦みが出ます。昨日、試しに飲んだでしょう」
「まだ舌に残っています。蜂蜜を三杯入れても消えませんでした」
「なぜ三杯も入れたのです?」
「二杯で消えなかったからです」
エマは虫食いの葉を別の籠へ入れた。作業台の端には朝食の残りである黒パンと薄切りのチーズが布に包まれている。アイリスは朝から薬草の仕分けに夢中になり、パンを半分食べたところで置いたままにしていた。
「王妃様。朝食の続きを召し上がってください」
「この籠が終わったら食べます」
「三年前にも同じことをおっしゃっていました」
「今は自分で休憩時間を決めています」
「決めた時間を守っていません」
エマは薬草を持っていたアイリスの手から取り上げ、代わりに黒パンを渡した。パンは朝露を含んで少し柔らかくなり、チーズには乾燥させた香草の匂いが移っている。アイリスは反論せずに一口かじり、エマもポケットから塩漬け卵を出した。
「朝から卵一つだけですか?」
「黒パンも食べました」
「どのくらい?」
「王妃様が切ったくらいの厚さです」
「それなら十分ですね」
「はい。指三本分ございました」
二人が顔を見合わせて笑ったとき、領主館の正門から馬車の音が聞こえてきた。黒塗りの王家専用馬車ではなく、荷物を運ぶための飾り気のない茶色い馬車だった。御者台にはミハイルが座り、その隣には灰色の外套を羽織ったレナードがいる。
「陛下がお見えになりました」
エマは卵の殻を布へ包み、作業台の下に置いた籠へ入れた。アイリスは土のついた袖を払ったが、白い布にはかえって薄茶色の染みが広がる。着替えに戻ろうとしたところで、馬車から下りたレナードが庭へ入ってきた。
「そのままでよい」
「王都からお越しになると分かっていれば、もう少し整えておりました」
「知らせれば、朝から着替えて待っていただろう」
「当然です。国王陛下をお迎えするのですから」
「今日は国王として来たわけではない」
レナードは黒い正装ではなく、襟元の緩い白いシャツに濃茶色の上着を合わせていた。磨かれた長靴には庭の土がつき、風で黒髪も少し乱れている。片手には革の鞄を持ち、もう一方の手には紙袋を提げていた。
「その袋は何です?」
「王都の市場で買った胡桃入りのパンだ。昼食には間に合うと思った」
「陛下が、ご自分でお買いになったのですか?」
「店の前に並んだ。前の客が十二個も買ったため、ずいぶん待たされた」
「予約はなさらなかったのですね」
「パンを買うにも予約が必要なのか?」
「人気の店なら必要かもしれません」
「次からは確認する」
レナードは紙袋をエマへ渡し、アイリスの前へ立った。彼の視線が、土のついた袖から、簡単に結ばれた髪へ移る。王宮にいた頃のアイリスは常に完璧だったが、その肌は白すぎて、笑っても頬の筋肉しか動いていなかった。
「何かついていますか?」
「いや。以前より元気そうだと思っただけだ」
「睡眠を取り、食事もしておりますから」
「今も朝食を途中で忘れていたようだが」
「エマから聞いたのですか?」
「見れば分かる。作業台に食べかけのパンがある」
「あとで食べるつもりでした」
「君の『あとで』は、夕方を意味するのだろう」
レナードがエマと同じことを言ったため、アイリスは口を閉じた。エマは肩を揺らしながら胡桃入りのパンを領主館へ運んでいく。ミハイルも馬車から荷物を下ろしたが、王と王妃を二人にするため、何も言わず彼女のあとへ続いた。
「それで、本日はどのようなご用ですか?」
「三年分の休暇が、今日で終わる」
レナードは革の鞄から一枚の書類を取り出した。『長期有給休暇満了に伴う復職確認書』と記されている。アイリスが三年前、未消化だった休暇を申請したときから、正式な満了日が来れば本人の意思を確認することになっていた。
「もう三年ですか」
「ああ」
「最初の三か月は、ほとんど眠っていました」
「四か月目には、使われていない倉庫を調べ始めたそうだな」
「見つけてしまったものは、仕方ありません」
「休暇中にも働いた分は、別に計算させた。領主としての仕事だから、王宮の勤務には含まれないそうだ」
「財務局も、ずいぶん細かくなりましたね」
「君が細かくしたのだろう」
レナードは作業台へ復職確認書を置いた。風で飛ばされないよう、アイリスが薬草の籠を端へ載せる。紙には、王妃業務へ復帰する、復帰しない、条件つきで別の職務を担当するという三つの欄があった。
「王宮へ戻るつもりはあるか?」
「以前のような王妃業務へ、という意味でしょうか」
「そうだ」
「ありません」
アイリスは迷わず、復帰しないという欄へ印をつけた。腰に魔導ペンケースはなかったため、レナードからペンを借りる。握りやすいよう軸を太く作られた魔導ペンは、以前二人で市場へ行った日に、レナードが選んだものだった。
アイリスは新しい役職の欄へ、『ルヴェリア公爵領領主兼、王国行政改革顧問』と書いた。その下に、勤務条件を一つずつ加えていく。王宮勤務は週二日、会議は一日二件まで、午後五時以降の勤務は行わず、緊急連絡は国家存亡に関わる場合のみとした。
「条件が増えているな」
「前回の契約から三年たちました。見直すのは当然です」
「国家存亡に関わる場合とは、具体的にどの程度だ?」
「戦争、大規模災害、王位継承に関わる事態です。陛下が朝食を抜いた、靴下が片方なくなった、といった連絡は含みません」
「靴下で連絡したことはない」
「先月、王都の市場で買った灰色の靴下が見つからないと、魔導通信を寄越したでしょう」
「あれは、君と同じ色を買ったのに片方なくしたからだ」
「結局、どこにありました?」
「長靴の中だ」
「やはり緊急ではありませんね」
アイリスは最後に署名し、復職確認書をレナードへ返した。三年前に休暇届を出したときは、指先の震えを隠すため、ペンを強く握らなければならなかった。今は土のついた指で、自分の働き方を落ち着いて選ぶことができた。
「私はこれからも、領地経営に専念します」
「分かった」
「反対なさらないのですか?」
「君が王都にいなくても、王宮は動いている。必要なときに顧問として力を貸してくれれば、それでよい」
「三年前の陛下なら、命令して連れ戻していましたね」
「三年前の私は、君が何をしていたのかも知らなかった」
レナードは復職確認書を鞄へ収め、別の紙を取り出した。それは王命書でも、新しい契約書でもない。上部には大きく『休暇届』と記されていた。
「どなたの休暇届ですか?」
「私のだ」
「陛下の?」
「今日から一週間、この領地に滞在する」
アイリスは休暇届を受け取り、開始日と終了日を確認した。財務局長、外務局長、騎士団長、筆頭文官の承認印が並び、緊急時の代理責任者も決まっている。レナード自身の署名だけで押し通した書類ではなかった。
「国王陛下が、一週間も王都を離れてよろしいのですか?」
「私がいなければ動かない国を作った覚えはない」
レナードは何でもないことのように言った。三年前なら、自分が一日休めば国が止まると考え、アイリスにも同じ働き方を求めていた。今の王宮には、国王が不在でも決裁できる代理人がおり、部署ごとの責任者もいる。
「それで、一週間は何をなさるおつもりです?」
「決めていない」
「視察ではないのですよね?」
「違う。釣りをしてみたい。あとは、畑で芋を焼く」
「ずいぶん具体的ではありませんか」
「ミハイルから、川には大きな鱒がいると聞いた。それから、領主館の裏に焚き火のできる場所があるそうだな」
「焼き芋のために、そこまで調べたのですか?」
「仕事以外で好きなものを増やしておけと、君が言っただろう」
庭の奥から、昼食を知らせる鐘が鳴った。薬草を仕分けていた領民たちは作業を止め、手についた土を払いながら食堂へ向かう。作業台にはまだ三籠分の葉が残っていたが、アイリスもエマとの約束どおり席を立った。
「残りは午後です」
「手伝おう」
「休暇中ですよ」
「薬草の仕分けは仕事になるのか?」
「賃金を受け取らなければ、手伝いです。ただし、虫食いの葉をお茶用へ混ぜたら、夕食で飲んでいただきます」
「エマが蜂蜜を三杯入れたものか?」
「陛下は甘いものがお好きですから、四杯でもよいでしょう」
「慎重に分けることにする」
昼食には、レナードが持ってきた胡桃入りのパンと、領地で採れた野菜のスープが出された。人参、蕪、豆、細かく刻んだ玉葱が入り、月桂樹と胡椒の香りがする。エマはパンを厚く切ろうとするアイリスから包丁を受け取り、同じ大きさへ切り分けた。
「今回は、指三本分ではありません」
「少し薄すぎませんか?」
「食べ終えたら、お代わりをなさってください」
「合理的だ」
レナードがエマの側についたため、アイリスは二人を順番に見た。以前なら国王と侍女が同じ食卓でパンの厚さについて話すことなどなかった。エマは一瞬だけ身分差を思い出したように姿勢を正したが、レナードが先にパン籠を差し出すと、礼を言って一つ取った。
午後、レナードは本当に薬草の仕分けを手伝った。最初はカミツレと似た白い花を同じ籠へ入れ、アイリスからやり直しを命じられた。国王へやり直しを命じる領主を、周囲の作業員たちは見ないふりをしながら笑っていた。
「違いが分からない」
「香りを確かめてください。カミツレは青林檎に似た匂いがします」
「こちらは?」
「雑草です」
「雑草にも名前はあるのだろう?」
「ありますが、薬草として使わないので別の籠へ入れてください」
「後で名前を調べる」
「休暇中に勉強ですか?」
「知りたいだけなら、仕事ではないだろう」
夕方までに薬草の仕分けは終わった。作業台を片づけると、アイリスの爪の間には黒い土が入り、レナードの白いシャツにも緑色の汁がついていた。二人は着替えたあと、領主館の食堂で夕食を取ることにした。
アイリスは淡い紫色の部屋着へ着替え、髪を肩へ下ろしていた。レナードも汚れたシャツを脱ぎ、生成り色の上着を着ている。食卓には焼きたての丸パン、野菜のスープ、鶏肉と茸の煮込みが並び、窓の外からは夕食を作る家々の煙と薪の匂いが流れてきた。
「このパンは、朝のものより柔らかいな」
「焼きたてですから」
「明日は、私が切ろう」
「厚さは指二本までです」
「君よりは薄く切れる」
「人参を春から冬までの厚さに切った方が、よくおっしゃいますね」
「三年前の話を、いつまで覚えているのだ」
「人参を見るたびに思い出します」
レナードは鶏肉を口へ入れ、反論する代わりにパンをちぎった。アイリスもスープを飲み、柔らかく煮えた蕪を匙で崩す。食事が終わる頃には、窓の外の空は群青色へ変わり、畑仕事を終えた領民たちが小さな灯りを持って家路についていた。
給仕が食器を下げると、レナードは椅子の横へ置いていた革の鞄へ手を伸ばした。王都から持参した書類の端が、蓋の隙間から見えている。彼が一冊取り出そうとしたところで、アイリスはその手の甲を指先で軽く叩いた。
「陛下。ただいま、私は業務外です」
「君へ渡すつもりではない。私が少し読むだけだ」
「陛下も休暇中でしょう」
「目を通すだけなら」
「その一枚が二枚になり、気づけば夜中になります」
「では、鞄を部屋へ置いてくる」
「エマに預けます」
「そこまでするのか?」
「三年間で学びました。働きすぎる人の『少しだけ』は信用してはいけません」
呼ばれたエマが革の鞄を受け取り、鍵のかかる戸棚へしまった。レナードは空になった自分の手を見つめ、何をすればよいのか分からない様子で指を組んだ。アイリスはそんな彼を見ながら、温かい香草茶を二つの杯へ注いだ。
「では、王妃としてではなく、妻として話してもいいか?」
アイリスは壁の時計を見た。いつもの面会なら、残り時間を確認する場面だった。時計の針は午後八時を示し、明日の朝には急いで起きる予定もない。
「何のお話です?」
「明日の釣りのことでもよい。焼き芋のことでもよい。君が領地で見つけた好きなものも、まだ全部は聞いていない」
「一時間では足りないかもしれませんよ」
「休暇は一週間ある」
「それなら、急ぐ必要はありませんね」
アイリスは時計からレナードへ視線を戻した。国王の許可も、王妃の責務も、面会申請書も必要なかった。誰かに命じられたのではなく、自分がこの人と話したいかどうかを選べる。
「今夜は時間制限なしで、お受けします」
レナードは表情を緩め、温かい香草茶の杯を持ち上げた。外では領民たちの家の窓に一つずつ灯りがともり、仕事を終えた人々が夕食の席へ着いている。王も王妃も、もう誰か一人の献身だけでは成り立たなかった。
アイリスは残っていた野菜のスープを自分の椀へ少しだけ注いだ。冷める前に匙ですくうと、玉葱の甘みと香草の匂いが口の中へ広がる。彼女は自分の時間を、自分の意思で、隣に座る夫とゆっくり分かち合った。




