第18話 愛は、業務命令では生まれません
第18話 愛は、業務命令では生まれません
王都に初雪が降った朝、レナードは国王執務室で一通の面会申請書を書いていた。黒い上着の袖には朝食の卵の黄身が小さくつき、机の端には一口だけかじった丸パンが残っている。暖炉から乾いた薪の匂いが漂う中、彼は希望日時を三度書き直し、ようやく魔導ペンを置いた。
「陛下。王妃殿下へ夕食のお誘いですか?」
向かいで書類を確認していたアルバートが、銀縁眼鏡を押し上げた。療養休暇から戻った彼は顔色がよくなり、昼食用の籠も忘れず持参している。籠からは、妻が焼いたという肉入りのパイの匂いが漏れていた。
「夕食ではない。私的な話がある」
「目的欄にも、そのように?」
「『私的な話』と書いた」
「王妃殿下は、曖昧な申請を好まれません」
「内容まで書けば、会う前にすべて伝わってしまうだろう」
「それもそうでございますね」
アルバートは自分の仕事へ戻ったが、レナードは申請書を封筒へ入れられずにいた。机の抽斗には、濃紺の天鵞絨で包まれた小箱が入っている。南部の鉱山で百年に一度しか採れない星青石を使い、王室専属の職人に作らせた指輪だった。
青い魔鉱石の中央には白い光が浮かび、角度を変えると小さな星のように輝く。代々、王が最も大切な女性へ贈る品とされ、値段をつけることも許されていない。これならアイリスへ自分の思いが伝わると考えたが、渡す場面を想像するたび、胸の奥に細い棘が引っかかった。
「アルバート。女性は、指輪を贈られれば喜ぶものか?」
「人によるかと存じます」
「国宝級の魔鉱石を使ったものだ」
「価値が高ければ、喜びも大きくなるとは限りません」
「お前は妻へ何を贈った?」
「先月は、底の厚い鍋を贈りました」
「鍋?」
「煮込み料理が焦げにくいと喜んでくれました。ただし、結婚記念日に鍋だけを贈った年は、三日ほど口を利いてもらえませんでした」
「参考になるのか、ならないのか分からない話だな」
レナードは申請書を封筒へ入れ、王妃執務室へ届けさせた。返事が来たのは昼休みの直前だった。翌日の午後七時から一時間、王妃の私室で面会を許可すると記されている。
翌晩、アイリスの私室には夕食後の穏やかな空気が残っていた。暖炉の前には洗った靴下が二足干され、丸机には読みかけの果樹栽培書と、食べかけの胡桃入り焼き菓子が置かれている。花瓶には豪華な薔薇ではなく、領地の農婦から届いた赤い木の実の枝が挿してあった。
アイリスは淡い紫色の部屋着を身につけ、銀灰色の髪を肩へ下ろしていた。昼間の実務用ドレスとは違い、胸元も袖もゆったりとしている。彼女は湯気の立つ牛乳を飲みながら、扉の前に立つレナードへ椅子を勧めた。
「時間どおりですね」
「ああ。今日は遅刻していない」
「前回も遅刻しておりませんでした」
「では、信用は少し増えたか?」
「同じことを二度できた程度では、まだ評価期間中です」
レナードは灰色の外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。黒い正装の襟元には、いつもの金の国王章がついている。アイリスの私室へ来るだけなのに、謁見へ出るような服を選んでしまった自分へ気づいたが、今さら着替えには戻れなかった。
「それで、私的なお話とは何でしょう」
「その前に、君へ渡したいものがある」
レナードは懐から濃紺の小箱を取り出し、丸机へ置いた。蓋を開けると、青い魔鉱石の光が天井へ反射した。暖炉の炎とは違う冷たい輝きが、アイリスの青紫色の瞳に映る。
「星青石ですね」
「知っているのか?」
「王家の財産目録で確認しました。百十二年前に採掘され、先王の代まで宝物庫で保管されていたはずです」
「昨年、職人へ指輪にするよう命じた」
「なぜです?」
「君へ贈るためだ」
アイリスは指輪へ手を伸ばさなかった。美しいと思わないわけではない。青い石の中を流れる白い光は、雪の夜に見る星よりも明るかった。
「受け取ってくれないか」
「これは謝罪ですか。報酬ですか。それとも命令ですか?」
「そのどれでもない」
「では、何でしょう」
「私が君を大切に思っている証だ」
「なぜ、それを指輪で証明するのです?」
レナードは答えようとしたが、言葉が出なかった。王家の記録には、大切な女性へ星青石を贈ると書かれている。職人も、これほどの指輪なら王妃は必ず喜ぶと言った。
「高価なものなら、君にふさわしいと思った」
「私が、高価な指輪を欲しいと申し上げましたか?」
「いや」
「青い宝石が好きだと?」
「君の瞳と同じ色だから、似合うと思った」
「似合うことと、欲しいことは違います」
アイリスは温めた牛乳を一口飲んだ。蜂蜜は香りが残る程度にしか入っておらず、舌へ触れる甘さもわずかだった。レナードはその杯を見つめ、初めて彼女の飲み物へ砂糖壺が添えられていないことに気づいた。
「君は、甘いものが好きではないのか?」
「焼き菓子は好きです。飲み物まで甘いと、口に残ります」
「夜会では、蜂蜜入りの紅茶を飲んでいただろう」
「あれはセシリアの好みです。給仕が同じものを持ってくるので、残さず飲んでいました」
「言えばよかったではないか」
「王妃が飲み物一つへ注文をつければ、厨房と給仕係に新しい手順が増えます。当時は、それを伝える時間も惜しかったのです」
レナードは、何度も同じ食卓を囲んだ夜を思い出した。アイリスの前にはいつも蜂蜜入りの紅茶があり、彼女は黙って飲み干していた。好んでいるのか、我慢しているのかを尋ねたことはない。
「では、君は何を贈られたら喜ぶ?」
「それを本人へ尋ねてから贈るのですか?」
「知らないまま、また間違えるよりよい」
「書きやすい魔導ペンが欲しいです。今使っているものは、長時間握ると中指が痛くなります」
「指輪より、ペンなのか?」
「指輪では帳簿へ署名できませんから」
アイリスは右手を開いて見せた。中指には薄いペンだこがあり、爪の脇には落とし切れなかった青いインクが残っている。国王の隣で豪華な衣装を身につけていても、その手は毎日書類を扱う者の手だった。
「君が何を好むのか、私は何も知らないのだな」
「私も以前は、陛下のお好きなものを知りませんでした」
「君は、焼いた芋を覚えてくれた」
「陛下がご自分で教えてくださったからです」
レナードは小箱の蓋を閉じた。天井に揺れていた青い光が消え、部屋には暖炉の赤い明かりだけが残る。レナードの指先は、閉じた箱の上から動かなかった。
「私は、君を愛しているつもりだった」
「つもり、ですか?」
「そばにいるのが当然だと思っていた。君なら言わなくても理解し、私が命じなくても必要なことをしてくれる。それを信頼と呼んでいた」
「都合のよい言葉ですね」
「ああ。今はそう思う」
「陛下は、愛と信頼を理由に、私へ無制限の労働を求めました」
「否定できない」
アイリスは空になった杯を丸机へ置いた。底には溶け残った蜂蜜が薄くつき、牛乳の白い跡が輪になっている。以前のレナードなら、耳の痛い言葉を聞くと国王の顔へ戻り、もうよいと話を打ち切っていた。
しかし今夜の彼は視線を逸らさず、閉じた小箱を自分の側へ引き戻した。アイリスはその動きを見て、膝の上で組んでいた指を少し緩めた。受け取れと命じられる可能性を、まだどこかで警戒していたのである。
「指輪は持ち帰る」
「よろしいのですか?」
「受け取らないと言う者へ押しつければ、贈り物ではない。命令になる」
「少し学ばれましたね」
「評価期間中だからな」
レナードは指輪の小箱を懐へ戻した。その代わりに、外套の内側から手のひらほどの革表紙の手帳を取り出す。黒い革の角は擦れ、何度も開いたため表紙が少し反っていた。
「こちらも、贈り物ですか?」
「いや。報告書に近い」
「今夜は仕事の話をしない約束でしたが」
「これは、私がしたことの記録だ。君に読んでほしい」
アイリスが手帳を開くと、日付と短い文章が並んでいた。王妃へ直接届いていた書類のうち、財務案件を担当部署へ戻したこと。緊急と書かれた申請を調べ、本当に緊急だったものが二割しかなかったこと。侍女と下級文官の休暇を増やし、国王自身も月に二日の公休日を取ったことが記されている。
「これを、毎日書いていたのですか?」
「君が公爵領から戻り、限定勤務を始めた日からだ」
「私へ見せるために?」
「最初は、自分が忘れないためだった。口で反省したと言っても、仕事を君へ戻せば何も変わらない」
頁の途中には、黒い染みが広がっていた。朝食の珈琲をこぼしたらしく、その日の記録だけ文字が滲んでいる。別の頁には干し肉の油がつき、最後の数頁には、急いで書いたためか文字が斜めに走っていた。
「ずいぶん汚れていますね」
「毎日持ち歩いていた」
「ここには、『王妃へ回す前に自分で読んだ』とあります」
「以前の私は、君なら分かると言って、中身を確認せず渡していたからな」
「それを反省として記録する国王も、珍しいでしょう」
「褒めているのか?」
「事実を申し上げています」
アイリスは次の頁をめくった。そこには、王妃不在でも国が動くように各部署の代理責任者を育てたこと、失敗を報告した者を罰するのではなく、原因を共有する制度を作ったことが記されている。アルバートが倒れた日には、筆圧の強い文字で『仕組みを変えても、人の考え方が変わらなければ同じことが起きる』と書かれていた。
「これでも、まだ足りないだろう」
「ええ。まったく足りません」
「そこまで即答しなくてもよいのではないか?」
「三年間の扱いが、数か月で消えると思っているなら、まだ足りません」
「思ってはいない」
レナードは苦い顔をしたが、手帳を取り返そうとはしなかった。アイリスは最後の頁まで目を通し、表紙を閉じる。指輪よりはるかに安い手帳だったが、そこには宝物庫から持ち出した品ではなく、レナード自身が費やした時間が残っていた。
「ですが、続きを見る価値はありそうです」
「受け取ってくれるのか?」
「はい。この手帳は」
「指輪は?」
「お持ち帰りください」
「確認しただけだ」
レナードは椅子の背へ体を預け、初めて肩の力を抜いた。暖炉の火が小さくなり、薪の端が崩れて赤い火の粉を散らす。窓辺に干された靴下の片方が熱で乾きすぎ、少し縮んでいることにアイリスが気づいた。
「また、左右の長さが違ってしまいました」
「新しいものを贈ろうか?」
「自分で買えます」
「では、一緒に買いに行くのはどうだ?」
「王都の市場へ?」
「君が何を選ぶのか知りたい。靴下だけでなく、ペンも」
「面会申請が必要ですよ」
「明日の朝に提出する」
レナードが立ち上がると、外套のポケットから小さな紙包みが落ちた。拾ったアイリスが開くと、東広場で買った焦がし砂糖の胡桃が入っている。指輪を渡したあと、一緒に食べるつもりで持ってきたものだった。
「これは、いただいても?」
「もちろんだ。国宝ではないから、財産目録へ載せる必要もない」
「では、紅茶を淹れ直しましょう。蜂蜜は入れません」
「私にも同じものを頼む」
「陛下は、甘い紅茶がお好きでは?」
「今日は君と同じものを飲んでみたい」
アイリスは呼び鈴へ手を伸ばしかけたが、自分で湯を沸かすことにした。暖炉へ小さな薬缶を載せると、やがて蓋が細かく鳴り始める。レナードは焦がし胡桃を二人分の皿へ分けたが、大きなものをアイリスの側へ置いた。
「陛下。均等ではありませんね」
「大きい方は、君の分だ」
「なぜです?」
「君が胡桃入りの焼き菓子を半分残していた。嫌いなら、そもそも注文しないだろう」
「ようやく一つ、私の好みを見つけましたね」
レナードは小さな胡桃を口へ入れた。焦がし砂糖は少し苦く、噛むと木の実の香ばしい匂いが広がる。アイリスも大きな一粒を食べ、読み終えた手帳を自分の果樹栽培書の隣へ置いた。




