第17話 王妃殿下なら、問題ありませんでした
第17話 王妃殿下なら、問題ありませんでした
王宮の筆頭文官室では、夜の十一時を過ぎても魔導灯が消えていなかった。机の上には未処理の書類が三つの山になり、椅子の横には飲み終えた珈琲の杯が四つ並んでいる。暖炉の火はとうに消え、窓の隙間から入る冷たい風が、床へ落ちた書類の端を小さく揺らしていた。
アルバートは灰色の文官服を着たまま、騎士団の補給申請書へ数字を書き込んでいた。銀縁眼鏡は何度押し上げても鼻先へずり落ち、右手の中指にはペンだこが赤く膨らんでいる。夕食として運ばれた豆のスープには白い脂が固まり、丸パンは指で押してもへこまないほど乾いていた。
「筆頭文官閣下。まだお帰りにならないのですか?」
扉から顔を出したのは、新人文官のルークだった。淡い茶色の髪には寝癖が残り、紺色の文官服の袖口には黒いインクがついている。帰宅する途中だったが、自分の机に置き忘れた手袋を取りに戻ってきたのである。
「先に帰りなさい。北部騎士団の補給申請を確認したら、私も帰る」
「それは、私の担当書類です」
「計算が二箇所間違っていた。私が直しておく」
「申し訳ございません。すぐに確認します」
「必要ない。もう遅い」
「ですが、私が間違えたのですから」
「明日の朝までに決裁へ回さなければならない。君に説明している時間が惜しい」
ルークは扉の前に立ったまま、手袋を強く握った。三か月前に文官になったばかりで、騎士団の防寒外套と手袋の数を別々に計算しなければならないことを知らなかった。アルバートは叱りはしなかったが、間違いを引き取られるたびに、自分の机から仕事が消え、何が悪かったのかを学ぶ機会まで消えていった。
「私にも、どこが間違っていたのか教えてください」
「明日にしなさい」
「昨日の書類も、そうおっしゃってご自分で直しました」
「急ぎの案件だったからだ」
「その前の予算書もです」
「細かい数字のずれがあった」
「では、私はいつ仕事を覚えられるのですか?」
アルバートのペンが止まった。ルークの声には反抗する強さより、自分の居場所を確かめようとする硬さがあった。机の端に置かれた新人用の業務手引書は、表紙だけがきれいなままで、まだ一度も開かれていない。
「今は、そんな話をしている場合ではない」
「いつならよろしいのでしょう」
「明日の勤務時間内に、面談を設定する」
「必ずですよ」
「ああ。早く帰りなさい」
ルークはうなずいたものの、足取りは重かった。廊下へ出たところで片方の手袋を落とし、拾うために戻りかけたが、アルバートの机の下まで転がってしまったことに気づいて諦めた。扉が閉まると、筆頭文官室にはペンの音と時計の針が進む音だけが残った。
アルバートは冷えた珈琲を飲み、顔をしかめた。苦みだけが舌へ残り、胃の奥が焼けるように熱くなる。抽斗には休暇中に買った干し葡萄が入っていたが、袋を開ける時間さえ惜しく感じ、また書類へ手を伸ばした。
「あと三枚だ」
そう口にしてから、アルバートは床に落ちた書類へ気づいた。拾ってみると、三枚だと思っていた補給申請の下から、未確認の報告書が七枚も出てくる。ため息をついて椅子へ戻ると、視界の端が薄暗くなった。
改革後、王宮の文官たちは定時で帰るようになった。仕事は担当部署へ分けられ、決裁者の名前も明確になったため、以前より処理は速くなっている。それでもアルバートだけは、部下の書類をすべて確認し、間違いを見つけるたびに自分で直し、期限より早く仕上げなければ落ち着かなかった。
彼が新人だった頃は、失敗すれば上司から書類を投げつけられた。何が間違っているかは教えられず、夜通し自分で探すしかなかった。そうして仕事を覚えたアルバートは、自分と同じ苦労をした者ほど有能になれると思っていた。
「王妃殿下も、休まず働いておられた」
誰もいない部屋で、アルバートは呟いた。アイリスは三日の徹夜にも耐え、誰かが失敗すれば黙って修正し、会議が重なれば食事を抜いて両方へ出席した。だから自分も、同じように働けるはずだった。
最後の書類へ手を伸ばしたとき、指先から感覚が消えた。持ち上げたはずのペンは床へ落ち、乾いた音を立てる。アルバートは拾おうと机へ手をついたが、腕に力が入らず、椅子からゆっくり崩れ落ちた。
翌朝、手袋を取りに来たルークが、机の下で倒れているアルバートを見つけた。魔導灯はついたままで、窓から差し込む朝日と重なり、部屋だけが妙に白く明るい。冷え切った豆のスープの横には、途中まで書かれた補給申請書が残っていた。
「筆頭文官閣下!」
ルークは廊下へ飛び出し、医務官を呼んだ。駆けつけた者たちがアルバートを担架へ移す間、机の上の書類が何枚も床へ落ちる。拾い集めたルークは、どれも自分やほかの部下が担当していたはずの書類だと気づいた。
王宮診療所の個室でアルバートが目を覚ましたのは、その日の午後だった。白い天井には小さな染みがあり、窓辺には洗った包帯が何本も干されている。消毒用の薬草と煮沸した布の匂いが漂い、廊下からは薬瓶を載せた台車の車輪の音が聞こえた。
「お目覚めになりましたか」
寝台の横では、アイリスが椅子に座っていた。淡い青色の実務用ドレスを着て、膝には読みかけの報告書を載せている。隣の小卓には林檎の薄切りと湯気の立つ薬草茶が置かれていた。
「王妃殿下……。今は、何時でしょうか」
「午後二時です」
「北部騎士団の補給申請を、午前中に決裁へ回さなければ」
「回しました」
「私の確認が終わっておりません」
「あなたが確認しなくても、担当部署が処理しました」
「計算に間違いがあります。防寒外套と手袋の数が合っていません」
「ルークが自分で修正しました。騎士団へも確認済みです」
アルバートは起き上がろうとしたが、腕に力が入らず、枕へ戻った。灰色の文官服は脱がされ、白い患者着へ着替えさせられている。眼鏡も小卓へ置かれているため、アイリスの顔さえ少しぼやけて見えた。
「私は、どれくらい休めばよいのでしょう」
「医師は、最低でも二週間と言っています」
「二週間も休めません」
「今朝、あなたがいなくても王宮は動きました」
「今日は動いても、明日は分かりません」
「明日も動かします。そのための業務分担です」
「ですが、最終確認は筆頭文官の責任です」
「筆頭文官が倒れるまで働くことは、責任ではありません」
アイリスは林檎を一切れ取り、アルバートへ差し出した。彼は食欲がないと首を振ったが、その動きだけで目眩がしたのか、目を閉じる。アイリスは無理に勧めず、林檎を皿へ戻した。
「いつから、夜中まで部下の仕事をしていたのです?」
「改革前からです」
「改革後は、業務を分けたはずです」
「部下に任せると、間違いが残ります」
「直し方を教えればよいでしょう」
「説明するより、自分で直す方が早いのです」
「今日だけを考えれば、そうかもしれません。ですが、明日も明後日も、同じ間違いをあなたが直すことになります」
アルバートは毛布の上へ視線を落とした。骨ばった指には点滴用の細い管がつながれ、手の甲には青い血管が浮いている。ペンを持とうとしても、今は指先がわずかに震えるだけだった。
「部下へ任せて、国政に影響が出たらどうするのです」
「間違いを見つける仕組みを作ります。一人の有能さへ依存してはいけません」
「王妃殿下も、以前は同じように働いておられました」
「だから、あなたも倒れてよいと?」
アルバートは答えられなかった。窓辺で干されている包帯が風に揺れ、一枚だけ留め具から外れかけている。アイリスは立ち上がって窓を閉め、包帯を留め直してから椅子へ戻った。
「私は、王妃殿下なら問題ないと思っていました」
「何が問題ないと思ったのです?」
「書類を増やしても、会議を重ねても、王妃殿下なら処理できると。実際に、すべて終わらせておられました」
「終わらせなければ、また私の机へ戻ってきましたから」
「それでも、一度も拒まれなかった」
「拒めば、国が止まる仕組みだったのです」
アルバートは、改革前の王妃執務室を思い出した。机へ積まれた書類の隙間には、食べかけの固いパンが挟まり、暖炉脇には冷えた紅茶が何杯も残っていた。深夜に書類を持ち込んでも、アイリスは眉一つ動かさず受け取った。
「王妃殿下なら問題ないでしょう」
それが、アルバートの口癖だった。外交文書の修正も、夜会の席順も、予算の不足も、その言葉とともに王妃へ渡していた。自分が仕事を押しつけているとは考えず、できる者へ任せるのが正しい配置だと思っていた。
「私は、悪意があったわけではありません」
「分かっています」
「王妃殿下を苦しめようと考えたことは、一度もありません」
「悪意がなければ、人を壊してもよいのですか?」
「……よくありません」
「私も同じでした。国のため、皆のためと言いながら、エマやほかの者に無理をさせたことがあります。正しい目的があれば、間違った方法を使ってよいと思っていたのです」
アイリスは薬草茶を一口飲んだ。時間がたって少し冷めていたが、カミツレの柔らかな香りは残っている。アルバートも喉の渇きを覚え、寝台脇の水差しへ手を伸ばした。
「お手伝いしましょうか?」
「自分で飲めます」
水差しを持ち上げた瞬間、手が震えて水が毛布へこぼれた。アルバートは濡れた場所を隠そうとしたが、アイリスは何も言わず、乾いた布を渡した。彼は子どものように水をこぼした自分を見られたくなくて、眼鏡のない顔を横へ向けた。
「申し訳ございません」
「水をこぼしただけです」
「自分のことさえ、まともにできません」
「倒れたばかりなのですから当然です。できないときは、誰かに頼んでください」
「頼ることと、押しつけることの違いが、分からなくなりました」
「頼まれた相手が断れるかどうかです。断れない立場の者へ、当然のように渡せば押しつけになります」
「王妃殿下は、私の仕事を断れませんでしたか?」
「以前は、断れませんでした」
アイリスの答えに、アルバートは濡れた布を握った。悪意がなかったという言葉は、何の役にも立たなかった。自分が苦労して地位を得たのだから、優秀な者が同じだけ苦労するのは当然だと考え、その考えを王妃にも部下にも向けていた。
「私の上司は、仕事を教えてくれませんでした。失敗すると書類を投げ返され、夜通し自分で間違いを探しました」
「それで、あなたは仕事を覚えたのですね」
「はい。だから、それが一番よい方法だと」
「あなたが耐えられたことを、全員が耐えられるとは限りません。それに、耐えられたからといって、正しい方法だったとも限りません」
「同じ苦労をさせる必要は、なかったのですね」
「次の者が少し楽に働けるようにすることも、先に働いた者の仕事です」
診療所の扉が小さく叩かれ、ルークが顔を出した。腕には分厚い業務手引書を抱え、反対の手には小さな紙袋を持っている。アルバートと目が合うと、入ってよいか分からず、片足だけ室内へ入れたまま止まった。
「ルーク。どうした」
「筆頭文官閣下のお見舞いです。食堂で焼き林檎を作ってもらいました」
「仕事は終わったのか?」
「そのご質問をなさると思い、先に申し上げます。今日の担当分は、勤務時間内に終わりました」
「北部騎士団の補給申請は?」
「間違いを直し、騎士団の担当者にも確認してもらいました。防寒外套は予備を含めて八百四十着、手袋は千六百八十組です」
「保管倉庫の容量は確認したか?」
「しておりませんでした」
「では、まだ終わっていないではないか」
「明日の朝、倉庫管理局へ確認します。本日中に必要な仕事ではないと、王妃殿下から教わりました」
アルバートは反論しようとしたが、アイリスの視線に気づいて口を閉じた。ルークは小卓へ紙袋を置き、椅子へ座る。袋を開くと、焼いた林檎と蜂蜜、焦がし砂糖の甘い匂いが部屋へ広がった。
「面談の約束を、守れず申し訳なかった」
アルバートが言うと、ルークは首を横へ振った。だが、すぐに許したとは言わなかった。自分の担当書類を何度も取り上げられたことは、まだ胸の奥へ残っていた。
「元気になられたら、どこを間違えたのか教えてください」
「分かった。今度は、私が直すのではなく、君に直してもらう」
「時間がかかりますよ」
「時間を取る。それが、上司の仕事なのだろう」
「はい。私も、同じ間違いをしないように覚えます」
ルークは焼き林檎を三等分し、アルバートとアイリスへ一つずつ渡した。林檎の皮は少し焦げていたが、中は柔らかく、匙を入れると蜂蜜の混ざった汁が染み出した。アルバートは朝から何も食べていなかったことに気づき、小さな一切れをゆっくり口へ運んだ。
「おいしいですか?」
「少し甘すぎる」
「病人なのですから、それくらいでよいのです」
「誰に聞いた?」
「王妃殿下です」
「余計なことを」
「アルバート。病室でまで部下へ文句を言わないでください」
アイリスは焼き林檎を食べ終え、持参した書類を一枚取り出した。療養休暇申請書である。開始日は本日、期間は二週間と記され、申請者の署名欄だけが空いていた。
「署名してください」
「二週間も必要ありません。一週間で十分です」
「医師の診断は二週間です」
「王宮へ戻れないとしても、自宅で書類を確認できます」
「できません。療養休暇中の業務は禁止です」
「緊急時は?」
「国が滅びそうなときだけ連絡します」
「その判断は、誰がするのです?」
「私と陛下です」
「それでは、私へ連絡が来ないではありませんか」
「ようやくお分かりになりましたね」
アルバートは申請書を受け取り、署名欄を見つめた。指先はまだ震えていたが、ルークから借りたペンをゆっくり動かす。いつもより歪んだ文字で、自分の名前を書き終えた。
「これで、よろしいでしょうか」
「はい」
アイリスは迷わず承認印を押した。赤い印が紙へついた瞬間、アルバートは何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わなかった。代わりに枕へ背を預け、天井を見上げた。
「二週間、何をすればよいのでしょう」
「眠って、食べて、散歩をしてください」
「それだけですか?」
「何もしない時間にも慣れてください」
「難しい課題です」
「成果報告は求めません」
翌日、アルバートは診療所の寝台で、新しい業務手引書を開いた。ルークが持ってきたものと同じ冊子で、部下へ仕事を教える方法や、間違いを共有する手順が書かれている。最初は休暇中に読むべきではないと閉じようとしたが、医師から一日十頁までならよいと言われ、鉛筆で大切な箇所へ印をつけた。
最後の頁には、王宮で使われてきた古い言葉を書き直す欄があった。アルバートは銀縁眼鏡をかけ、しばらく考えてから鉛筆を動かした。紙の上には、彼が何年も口にしてきた文章が並んだ。
『王妃殿下なら、問題ないでしょう』
アルバートはその言葉へ一本の線を引いた。完全に消さず、自分が何を当然だと思っていたのか読めるように残した。その下へ、今度はゆっくりと新しい文章を書く。
『王妃殿下でなくても処理できる仕組みを作ります』
書き終えたところで、窓の外から洗濯物を取り込む音が聞こえた。看護師たちが乾いた包帯を籠へ重ね、誰が畳むかを相談している。アルバートは手伝おうと寝台から足を下ろしかけたが、療養休暇中であることを思い出し、毛布をかけ直した。
二週間後、アルバートは王宮へ戻った。以前と同じ灰色の文官服を着ていたが、目の下の濃い隈は薄くなり、片手には書類ではなく、妻が持たせた昼食用の籠を提げている。中には卵と胡瓜を挟んだパン、林檎、蓋つきの香草茶が入っていた。
「筆頭文官閣下、お戻りをお待ちしておりました」
部下たちは立ち上がったが、アルバートは座るよう手で示した。自分の机へ着くと、これまで抱え込んでいた書類を担当者ごとに分ける。最後に北部騎士団の補給報告書をルークへ渡した。
「確認を頼む」
「筆頭文官閣下は、ご覧にならないのですか?」
「最終決裁の前に見る。まずは君が担当者として確認しなさい」
「間違っていたら?」
「一緒に直す」
ルークは報告書を胸へ抱え、自分の机へ戻った。アルバートは渡した書類を追うように手を伸ばしかけたが、その手で昼食の籠を机の端へ置き直した。昼の鐘が鳴ったら書類を閉じ、パンが固くなる前に食べる予定だった。




