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第16話 王妃暗殺計画は、定時内に処理します

第16話 王妃暗殺計画は、定時内に処理します


 ルヴェリア公爵領の収穫祭を三日後に控えた朝、アイリスは領主館の食堂で焼きたての黒パンを切っていた。生成り色の普段着には青い小花の刺繍があり、銀灰色の髪は首の後ろで緩く結ばれている。食卓には茸入りの卵焼き、林檎のジャム、豆と根菜のスープが並び、開け放した窓からは刈り取った小麦と湿った土の匂いが入ってきた。


「王妃様。黒パンが厚すぎます」


 向かいに座るエマが、自分の皿へ載せられたパンを両手で持ち上げた。厚さは指三本分ほどあり、林檎のジャムを塗ろうとしても中央まで届かない。アイリスはパン切り包丁を見下ろし、首をかしげた。


「薄く切ったつもりですが」


「王妃様は、帳簿の数字には細かいのに、パンの厚さには寛大でいらっしゃいますね」


「たくさん食べられてよいではありませんか」


「このあと、収穫祭の衣装合わせがございます。お腹が苦しくなれば、帯が締まりません」


「では半分、私が引き受けます」


 アイリスがパンへ手を伸ばしたところで、廊下から硬い靴音が近づいてきた。扉を開けて入ってきたミハイルは、黒い軍装の上へ銀の外套を羽織り、腰には長剣を下げている。朝露の残る庭を急いで横切ってきたのか、磨かれた長靴の先には泥がついていた。


「王妃殿下。緊急のご報告がございます」


「朝食は召し上がりましたか?」


「その前に、お伝えすべきことです」


「空腹のまま話せば、必要以上に深刻な顔になります。座ってください」


「すでに十分、深刻な案件です」


 ミハイルは立ったまま、折り畳んだ紙を食卓へ置いた。紙には油の染みがあり、端からは焦げた香辛料の匂いがする。城下町の酒場で働く料理人が、昨夜、騎士団の詰め所へ持ち込んだものだった。


「収穫祭で、王妃殿下を暗殺する計画があります」


 エマの手から黒パンが落ち、スープの椀へ沈んだ。茶色い汁が跳ね、白い前掛けへ丸い染みを作る。彼女はすぐに布巾へ手を伸ばしたが、指先がうまく動かず、匙まで床へ落とした。


「誰が計画しているのです?」


 アイリスは席を立たず、密告書を開いた。青紫色の瞳が文字を追い、最後に記された三人の名前で止まる。改革によって仲買商会の利権を失ったハリントン伯爵、デムラー子爵、ローレンス男爵だった。


「酒場の個室で、伯爵家の従者が暗殺者へ前金を渡しました。料理人は食事を運ぶ際に会話を聞き、捨てられた覚書を拾ったそうです」


「狙われるのは、収穫祭の行列ですね」


「はい。広場へ入る直前の、製粉所前の通りです。二階の窓から魔導弓を使う計画かと」


「暗殺者の人数は?」


「確認できているのは三名です。しかし、ほかにも協力者がいる可能性があります」


 ミハイルは椅子を引き、ようやく腰を下ろした。エマが落とした匙を拾い、新しい匙と取り替える。その手も強く握られていたため、銀の柄が掌へ食い込んで白い跡を残していた。


「収穫祭を中止5156246493し手…せます。領民には、悪天候が予想されるためと説明しましょう」


「三日後の予報は晴れです」


「魔導気象局の誤報ということにできます」


「祭りは予定どおり行います」


「王妃殿下」


「収穫祭のために、領民は半年も準備してきました。ここで中止すれば、犯人に計画が漏れたと教えることにもなります」


「祭りと王妃殿下のお命を比べることはできません」


「比べてはいません。祭りを続けたまま、暗殺者を捕らえる方法を考えます」


 アイリスはスープへ沈んだ黒パンを匙ですくい、エマの皿へ戻した。パンは汁を吸って倍ほどに膨らみ、持ち上げると端から崩れそうになっている。エマはそれを食べる気になれず、じっと主人の顔を見つめた。


「王妃様。わたくしは、お祭りなど中止でよいと思います」


「エマ」


「農家の方々も、王妃様が命を狙われてまで行列を見てほしいとは思いません。王妃様がいなくなったら、来年の収穫祭を誰が開くのですか?」


「いなくなるつもりはありません」


「暗殺される方は、皆様そう思っていたはずです」


「それは、もっともですね」


 アイリスは密告書を畳み、食卓の端へ置いた。外では収穫祭の練習をしている子どもたちが、太鼓を打ち鳴らしている。音はまだそろわず、一人が早く叩くたびにほかの子どもたちが笑い、その声に庭の鳥が一斉に飛び立った。


「行列の順路は変えません。ただし、私が乗る馬車を変更します。製粉所の手前で囮の馬車を先へ進ませ、私は別の場所から広場へ入ります」


「囮には誰を乗せるのです?」


「人は乗せません。姿を映す投影魔道具を使います」


「暗殺者が魔道具を見破る可能性があります」


「ですから、護衛を増員してください。ただし、祭りの服装へ紛れさせます。鎧を着た騎士が並べば、領民にも犯人にも気づかれます」


 ミハイルは紙ナプキンを引き寄せ、行列の順路を書き始めた。製粉所の二階には先に騎士を配置し、向かいの酒場にも弓兵を潜ませる。暗殺者が魔導弓へ触れた時点で術式を封じ、通りの両端を閉鎖する計画だった。


「騎士団が暗殺者を捕らえている間に、証拠を処分されては困ります」


 アイリスはハリントン伯爵家の名前を指先で叩いた。暗殺者だけを捕らえても、雇い主が知らないと言い張れば計画の全体像は明らかにならない。密告書だけでは伯爵を有罪にするには足りなかった。


「文官監査局を、王都の伯爵邸と商会へ向かわせます。暗殺者が動いた時刻と同時に捜索を開始してください」


「捜索令状は、陛下の署名が必要です」


「魔導通信で申請します。陛下には暗殺計画のことも伝えなければなりませんね」


「レナード陛下が、祭りの開催をお許しになるでしょうか」


「許可を求めるつもりはありません。私はこの領地の領主です」


 アイリスは小型魔道具を取り出し、王城へ通信をつないだ。ミハイルは何か言いかけたが、諦めて冷めかけた卵焼きへ手を伸ばした。口へ入れると、刻んだ茸の香りと強めの塩味が広がった。


「王妃殿下。この卵焼きは、どなたが作ったのです?」


「私です。少し塩を入れすぎました」


「少しではないと思います」


「では、黒パンと一緒に召し上がってください」


「暗殺計画を話しながら、朝食を勧められるとは思いませんでした」


「食事を抜けば、昼までに判断力が落ちます。暗殺事件も勤務時間内に片づけましょう」


 三日後、ルヴェリア領の収穫祭は予定どおり開催された。広場には赤、黄、橙色の旗が渡され、石畳の両側には小麦の穂を束ねた飾りが並んでいる。屋台では焼いた腸詰め、茸の串焼き、蜂蜜を塗った林檎が売られ、炭火と砂糖の甘い匂いが風に乗っていた。


 アイリスは収穫祭用の深紅のドレスを身につけていた。胸元と袖には金糸で小麦の穂が刺繍され、銀灰色の髪には小さな赤い木の実が飾られている。豪華に見えるが、ドレスの内側には薄い防護服を着込み、腰には緊急通信の魔道具が隠されていた。


「王妃様。苦しくありませんか?」


 控え室で、エマがドレスの背中を確認した。彼女も祭りに合わせた若草色のワンピースを着ており、三つ編みには黄色いリボンを結んでいる。手には編みかけの鍋敷きではなく、短い護身用の杖を握っていた。


「コルセットを締めすぎましたか?」


「そちらではありません。胸の辺りが苦しくないかと伺ったのです」


「少しだけ」


「やはり、お祭りを中止した方がよかったのではありませんか?」


「今ごろ言っても、屋台の腸詰めは全部焼き始めていますよ」


「腸詰めより、王妃様のお命の方が大切です」


「終わったら、一緒に食べましょう」


「二本いただきます」


「三本でも構いません」


 控え室の外では、行列へ参加する子どもたちが衣装を整えていた。白いシャツと赤いスカートを着た少女が、靴の片方を見つけられず泣きそうな顔で椅子の下を探している。エマは自分の不安を隠すように少女を手伝い、幕の裏へ転がっていた靴を見つけた。


「ありがとうございます、エマお姉ちゃん」


「行列では、前の人との間を空けすぎないでくださいね」


「王妃様の馬車の前で踊るの!」


「上手に踊ってください。でも、転ばないことが一番です」


 少女が仲間のもとへ走っていくと、ミハイルが控え室へ入ってきた。今日は軍装ではなく、収穫祭の警備役に見せかけた茶色い仕事着を着ている。肩には粉袋を担ぎ、腰の長剣も穀物を束ねた布で隠していた。


「配置が完了しました。製粉所二階に二名、屋根の上に三名、通りの両端に各六名です」


「王都の監査局は?」


「伯爵邸と商会の前で待機しております。こちらの合図と同時に入ります」


「密告してくれた料理人の保護は?」


「妻子とともに別の町へ移しました。祭りが終わるまで騎士がついています」


「結構です」


「王妃殿下。今からでも、私が投影魔道具を身につけて馬車へ乗ります」


「体格が違いすぎます。どれほど優れた魔道具でも、私が突然あなたの肩幅になれば気づかれますよ」


「笑い事ではありません」


「分かっています。だからこそ、準備したとおりに動きます」


 正午の鐘が鳴ると、収穫祭の行列が動き始めた。先頭では子どもたちが太鼓を叩き、その後ろを花で飾った荷車や、収穫物を載せた農家の馬車が続く。沿道の領民たちは小さな旗を振り、アイリスの姿が映し出された白い馬車へ歓声を送った。


 実際のアイリスは、行列の最後尾近くにある薬草店の荷車へ隠れていた。深紅のドレスの上から灰色の外套を羽織り、乾燥させたカミツレの袋に囲まれている。青林檎に似た香りが鼻をくすぐり、少し動くたびに乾いた花が外套へついた。


「くしゃみをなさらないでください」


 向かいに座るエマが、小声で注意した。彼女の鼻にも花粉が入ったらしく、目元が赤くなっている。アイリスは唇を押さえ、何度か鼻から短く息を吐いた。


「あなたの方が、くしゃみをしそうですよ」


「わたくしは我慢できます」


「先ほどから鼻が動いています」


「王妃様ほどではありません」


「静かに」


 御者台に座るミハイルが低い声を出した。荷車は間もなく、暗殺が予定されている製粉所前へ入る。歓声に混じり、風で回る水車の軋みと、製粉所の中で石臼が回る低い音が聞こえてきた。


 先頭の王妃馬車が、製粉所の窓の前を通過した。その瞬間、二階の鎧戸が指一本分だけ開く。暗い室内から、魔導弓の青い光がのぞいた。


「確認しました」


 ミハイルが通信魔道具へ告げた。次の瞬間、製粉所の屋根から騎士たちが飛び降り、二階の窓を外側から破った。通りの両端では祭りの法被を着た騎士が縄を張り、逃げ道を塞いだ。


 魔導弓から青白い矢が放たれた。矢は王妃馬車の窓を貫いたが、中にあった投影魔道具へ刺さり、アイリスの姿が光の粒となって消える。沿道で歓声を上げていた領民たちは、何が起きたか分からず、目の前の馬車を見つめた。


「収穫祭の演出です! そのまま広場へお進みください!」


 祭りの司会役へ扮していた騎士が、大きな拡声魔道具で呼びかけた。太鼓隊は事前に教えられた合図に従い、急に音量を上げる。子どもたちは事情を知らないまま元気よく踊り、行列は止まらずに広場へ向かった。


 製粉所の二階では、暗殺者三名が取り押さえられていた。一人は窓から逃げようとして屋根の騎士に捕まり、もう一人は魔導弓を投げ捨てて粉袋の陰へ隠れた。最後の一人は短剣を抜こうとしたが、ミハイルが階段を駆け上がり、その腕をひねって床へ押さえつけた。


「離せ! 俺たちは命令されただけだ!」


「誰に命令された?」


「知らない。酒場で金を渡されただけだ」


「ならば、裁判で同じことを話せ」


 床へ落ちた魔導弓には、ハリントン伯爵家と取引のある工房の製造印が残っていた。暗殺者の一人が持っていた革袋からは、前金として渡された金貨と、残金の受取場所を記した紙も見つかる。ミハイルが王都へ合図を送ると、待機していた文官監査局が伯爵邸と仲買商会へ一斉に入った。


 王都のハリントン伯爵邸では、昼食の最中だった。伯爵は濃緑色の上着を着て、仔牛肉の葡萄酒煮込みへパンを浸していた。食堂の扉が開き、監査官と騎士が入ってくると、彼はパンを皿へ落とした。


「何の騒ぎだ! 食事中だぞ!」


「国王陛下の命令により、暗殺計画に関する家宅捜索を行います」


「証拠もなく、伯爵家を調べるつもりか?」


「証拠は、これから確認します」


「執務室へ入ることは許さん!」


 伯爵が椅子から立ち上がるより先に、監査官たちは屋敷の各所へ散った。執務室の暖炉では、従者が何冊もの帳簿を燃やそうとしている。騎士が水差しを暖炉へ投げ込み、濡れた灰の中から焦げかけた帳簿を引き出した。


「旦那様に命じられただけです!」


 従者はその場へ膝をつき、暗殺者へ前金を渡したことを認めた。帳簿には、仲買商会から伯爵家へ流れた金だけでなく、暗殺者の雇用費まで「害獣駆除代」として記録されている。別の部屋からは、農民から不当に取り上げた土地の証書や、御者たちへ支払わなかった賃金の記録も見つかった。


 収穫祭の広場では、何も知らされていなかった領民たちが、収穫物の品評会を始めていた。巨大な南瓜の重さを量り、形の曲がった人参を見て子どもたちが笑っている。アイリスは荷車の中で外套を脱ぎ、深紅のドレスについたカミツレの花をエマに払ってもらった。


「もう広場へ出てもよろしいのですか?」


「安全を確認しました。暗殺者三名を拘束し、王都でも捜索が始まっています」


 戻ってきたミハイルは、仕事着の肩についた小麦粉を払った。右の袖が少し裂け、肘には擦り傷ができている。エマは荷車に積まれていた応急手当用の布を取り出し、彼の腕へ巻いた。


「団長様も、ご自分を大切になさってください」


「これくらいは傷のうちに入らない」


「そう言って放置する方が一番困ります」


「ずいぶん強く巻くな」


「逃げないようにしております」


 アイリスが広場へ姿を現すと、領民たちは大きな歓声を上げた。囮の馬車で起きた出来事を演出だと思っている者もいれば、騎士の動きから何かを察した者もいる。それでも大きな混乱はなく、太鼓の音と子どもたちの笑い声が広場に戻っていた。


 午後三時を過ぎた頃、レナードが転移陣を使って領主館へ到着した。黒い軍装の上へ外套を羽織り、腰には国王の剣を下げている。出迎えた侍従へアイリスの無事She…我の有無


」をしてかと尋ね、答えを最後まで聞かないまま広場へ向かった。


「アイリス!」


 レナードは品評会の壇上まで来ると、領民たちが見ていることも忘れ、アイリスの両肩をつかんだ。彼女の顔、腕、ドレスの胸元まで確かめ、傷がないと分かっても手を離さない。アイリスは彼の外套から馬の汗と冷たい風の匂いを感じた。


「ご心配をおかけしました。私は無事です」


「祭りを中止しろと言ったはずだ」


「その命令は受け取っておりません」


「送った。三通もだ」


「私が読めば中止を命じられると思い、エマが保留箱へ入れました」


「エマ!」


「申し訳ございません、陛下。しかし、王妃様から通信は緊急連絡だけ渡すよう命じられておりました」


「王妃の暗殺777

我弥密造殺立池つ


でしょう」


「暗殺計画があることは、すでに存じておりましたので」


 レナードは言葉を失い、片手で額を押さえた。そこへミハイルが暗殺者の拘束と、伯爵邸から発見された証拠を報告する。首謀者がハリントン伯爵である可能性が高いと聞いた瞬間、レナードの金の瞳が細くなった。


「伯爵をここへ連行しろ。その場で処刑する」


「陛下」


「王妃を殺そうとした者を生かしておく理由はない」


「命令を撤回してください」


「証拠はそろっているのだろう?」


「証拠があるからこそ、公開裁判を行います」


「奴が何をしたかは明らかだ!」


 レナードの声に、近くにいた領民たちが振り返った。アイリスは彼の腕へ手を添え、品評会の壇上から少し離れた天幕へ連れていく。天幕の中には、審査の合間に食べる予定だった南瓜のパイと、冷えた香草茶が置かれていた。


「アイリス。なぜ止める」


「怒りで裁けば、次の王も怒りで人を裁けます」


「君は殺されかけたのだぞ」


「だからといって、法を曲げる理由にはなりません」


「私は、君を失うところだった」


 レナードは卓上へ拳を置いた。殴りつけはしなかったが、指の関節が白くなるほど強く握っている。アイリスは冷えた香草茶を一杯注ぎ、彼の前へ置いた。


「私はここにおります」


「結果の話をしているのではない」


「分かっています。ですが、陛下が私のために法を破れば、私はその罪まで背負わなければなりません」


「伯爵を許せと言うのか?」


「いいえ。法の下で、逃げられないように裁きます」


 アイリスは南瓜のパイを半分に切り、レナードの皿へ載せた。香辛料を加えて焼いた南瓜は甘く、表面には砕いた木の実が散e

える乗こんいった菓子を食べる気分ではないと言いかけたが、朝から何も食べていない腹が小さく鳴った。


「聞かなかったことにします」


「聞こえたのだろう」


「そのようなこともあります。まず、召し上がってください」


「暗殺されかけた日に、なぜ君は食事の心配をしているのだ」


「空腹の国王に処刑命令を出されては困るからです」


 レナードは苦い顔をしながら、南瓜のパイを一口食べた。焼きたてではなかったが、生地にはまだ香ばしさが残り、南瓜の甘みが舌へ広がる。二口目を食べる頃には、握り締めていた左手が少しずつ開いていた。


 数週間後、ハリントン伯爵らの公開裁判が王都で始まった。法廷には暗殺者へ支払った金の記録、焦げかけた帳簿、従者の証言、製造番号の一致した魔導弓が提出された。農民や御者たちも証言台へ立ち、長年にわたり不当な手数料を取られ、賃金を支払われなかった事実を語った。


「私は暗殺など命じていない!」


 ハリントン伯爵は被告席から立ち上がった。上等な礼服を着ることは許されず、灰色の囚人服の襟元には洗っても落ちなかった茶色い染みが残っている。以前は香油で整えられていた髪も、今は額へ乱れていた。


「帳簿にある害獣駆除代とは何ですか?」


 監査官が尋ねると、伯爵は唇を噛んだ。暗殺者へ渡された金貨と、帳簿に記された金額は一致している。さらに従者が、伯爵本人から王妃を祭りの途中で消せと命じられたことを証言した。


「王妃は我々の商いを奪った。領地を守ろうとしただけだ!」


「領地を守るために、農民の収入を奪ったのですか?」


「平民へ多額の金を持たせれば、秩序が乱れる!」


「その金で建てた別荘は、秩序を守るために必要だったのでしょうか」


 傍聴席では、被害を受けた農民たちが黙って伯爵を見ていた。土仕事で節の太くなった手、荷車の手綱で皮が硬くなった指、何度も繕われた上着が並んでいる。彼らから集められた金は、伯爵の別荘や宝石だけでなく、アイリスを殺すためにも使われていた。


 裁判の結果、ハリントン伯爵ら三名には爵位剥奪と終身刑が言い渡された。伯爵家と関係商会の財産は差し押さえられ、未払い賃金と不当な手数料の返還へ充てられることになった。残った資金は、農道の修繕と共同倉庫の増設に使われる。


 判決の報告がルヴェリア領へ届いた日の夕方、アイリスは領主館の執務室で最後の書類へ署名していた。濃紺の実務用ドレスの袖口にはインクがつき、机の隅には昼食に食べ損ねた林檎が一つ残っている。窓の外では、収穫祭から戻された旗を侍女たちが洗い、中庭の物干し綱へ一枚ずつ掛けていた。


「王妃殿下。裁判後の財産返還計画について、新しい報告書が届きました」


 アルバートが分厚い書類を差し出した。彼は銀縁眼鏡をかけ、灰色の文官服の上へ薄手の外套を羽織っている。以前ほど顔色は悪くなかったが、急いで階段を上ってきたため、髪が少し乱れていた。


 そのとき、夕方五時を知らせる鐘が鳴った。アイリスは魔導ペンを机へ置き、書類を受け取らずに立ち上がる。アルバートは手を伸ばしたまま、目を瞬いた。


「王妃殿下?」


「続きは明日です」


「ですが、被害者への返還に関する報告です」


「明日の朝、最初に確認します」


「五分もあれば、概要だけでも」


「その五分を認め続けた結果が、三年分の未消化休暇です」


 アイリスは机の抽斗を閉め、鍵をかけた。エマは物干し場から戻ると、椅子の背へ掛けていた生成り色の外套を主人の肩へかける。外套からは、秋の日に干した布の温かな匂いがした。


「これから、陛下と焼き芋を召し上がるご予定です」


「焼き芋でございますか?」


 アルバートは抱えた報告書と、壁の予定表を見比べた。午後五時三十分からの欄には、確かに『東広場・焼き芋、私用』と記されている。さらに赤い文字で『仕事の話は禁止』と注意書きまであった。


「暗殺事件に関する書類より、焼き芋を優先なさるのですか?」


「暗殺犯は捕まり、裁判も終わりました。被害者への返還が一晩で遅れることはありません」


「陛下がお待ちですので、急いでください」


 エマはアイリスの髪についた小さな糸くずを取り、外套の襟を整えた。アイリスは机の上に残っていた林檎をアルバートへ渡し、報告書を明日の箱へ入れるよう告げた。受け取った林檎には小さな傷があったが、甘い香りは十分に残っている。


「アルバートも定時です。帰りに召し上がってください」


「しかし、まだ未処理の書類が」


「明日でも国が滅びない書類は、明日で構いません」


「承知しました」


 アルバートは報告書を明日の箱へ入れ、机の上へ積まれていた自分の書類も抱え直した。以前ならそのまま執務室へ戻ったところだが、今日は途中で足を止め、半分を翌日用の棚へ収める。残り一冊だけを鞄へ入れようとしてエマに見つかり、結局それも棚へ戻した。


「持ち帰って読むつもりでしたね」


「見るだけです」


「王妃様。筆頭文官が規則違反をしようとしています」


「明日の朝、業務分担表を十回書き写していただきましょう」


「十回で済むのですか?」


「初犯ですから」


「王妃殿下。聞こえております」


 三人は執務室の灯りを消し、そろって廊下へ出た。窓の外には洗い終えた収穫祭の旗が風に揺れ、その向こうでは畑仕事を終えた人々が家路についている。暗殺事件が起きた日も、その後の裁判が終わった日も、夕方の鐘は同じ時刻に鳴った。


 領主館の玄関では、灰色の外套を着たレナードが待っていた。手には正式な面会許可書があり、目的欄には『妻と焼き芋を食べる』と書かれている。アイリスは終了予定時刻が午後七時になっていることを確かめると、彼の隣へ並んだ。


「今日は、時間どおりに来た」


「私も時間どおりに仕事を終えました」


「暗殺事件の処理が残っていると聞いたが」


「続きは明日です」


「それでよいのか?」


「よいのです。私が定時に帰れない制度なら、改革はまだ終わっていませんから」


 レナードは何かを言おうとしたが、仕事の話は禁止という条件を思い出して口を閉じた。代わりにアイリスの手を取ろうとし、触れる直前で一度止める。アイリスが自分からその手へ指を重ねると、二人は焼き芋の屋台が出ている東広場へ歩き始めた。


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