第15話 陛下、恋愛にも予約が必要です
第15話 陛下、恋愛にも予約が必要です
王宮改革に反対していた重臣たちが業務分担表を使い始めてから、レナードの執務時間も少しずつ短くなった。以前は深夜まで机へ向かっていたが、今では午後七時を過ぎるとアルバートが書類を取り上げ、残りを翌日の箱へ移してしまう。自由になった時間をどう使えばよいのか分からないレナードは、その夜も黒い執務服のまま、王妃の執務室へ向かった。
扉の前には、ルヴェリア領から届いた木箱が三つ積まれていた。箱の隙間から乾いた藁がはみ出し、赤い林檎と土のついた蕪がのぞいている。レナードは近くを通った侍女へ木箱を片づけるよう言いかけたが、アイリスが領地会議で使う見本かもしれないと思い直し、自分で壁際へ寄せた。
「アイリス。今夜、時間はあるか?」
レナードは返事を待たず、執務室の扉を開けた。部屋の中央では、アイリスと領地の役人たちが大きな地図を囲んでいる。アイリスは灰青色の実務用ドレスの袖を肘までまくり、魔導ペンで新しい輸送路を書き込んでいた。
「陛下。会議中でございます」
「見れば分かる」
「では、なぜお入りになったのです?」
「夕食へ誘おうと思った」
長机を囲んでいた役人たちが一斉に地図へ顔を伏せた。初老の農政官は、持参した固いビスケットを紅茶へ浸したまま動35分、予定表へ書
です5分になった会議中に入ってきたレナードを見上げた。ビスケットは水分を吸いすぎ、彼の指から落ちて茶の中へ沈んだ。
「申し訳ございません。午後七時までに終わる予定でした」
農政官は匙で崩れたビスケットをすくいながら頭を下げた。アイリスは壁の時計を確認し、予定より十五分延びていることに気づいた。彼女は会議資料を閉じたが、レナードと夕食へ行くためではなかった。
「続きは明日の午前中にいたしましょう。皆様、延長させてしまい申し訳ありませんでした」
「いいえ。王妃殿下に急なご予定がお入りになったのでしたら」
「入っておりません」
アイリスは立ち上がり、レナードへ向き直った。腰には魔導ペンケースがあり、髪も仕事用に固く結い上げられている。今から食事へ誘っても、着替えだけで三十分は必要だった。
「本日の夕食は、エマと取る約束があります」
「エマと?」
「はい。西通りに新しい煮込み料理の店が開きましたので、仕事帰りに寄る予定です」
「私も同行しよう」
「女同士で食べたいのです」
「夫より侍女を優先するのか?」
「先に約束した方を優先します」
扉の近くに立っていたエマが、気まずそうに旅行用の外套を抱き直した。彼女はいつもの侍女服ではなく、臙脂色のワンピースを着ていた。細い三つ編みの先には、休日に市場で買ったという青い硝子玉が結ばれている。
「王妃様。わたくしは別の日でも構いませんが」
「構います。三週間前から予約した店でしょう」
「ですが、陛下がお誘いです」
「陛下も、三週間前にお誘いくださればよかったのです」
「夕食へ誘うだけで三週間も待つのか?」
「人気の店ですから」
レナードは納得できない顔をしたが、領地の役人たちが耳を澄ませていることに気づき、それ以上は言わなかった。アイリスとエマは外套を羽織り、二人で執務室を出ていく。残されたレナードは、机の上で茶に沈んだビスケットを見下ろした。
「陛下。こちらを召し上がりますか?」
「いや、遠慮しておく」
「そうですか。ふやけていますが、味は悪くありません」
農政官は匙ですくったビスケットを食べ、残りの紅茶を飲み干した。レナードは夕食の相手を失ったまま、自分の執務室へ戻った。その晩の食卓には仔羊の香草焼きと豆のスープが並んだが、一人で食べる料理からは、香草の匂いしか感じられなかった。
二日後、レナードは午後の会議が早く終わると、再びアイリスを訪ねた。今度は執務室ではなく、王妃の私室である。午後六時なら仕事を終えていると考えたのだが、扉の前にいたエマは、申し訳なさそうに首を横へ振った。
「王妃様は入浴中でございます」
「では、終わるまで待つ」
「そのあとは夕食と、読書のお時間です」
「読書なら、私がいてもできるだろう」
「本日は、領地から届いた果樹栽培の本を読まれる予定です」
「本より私の方が重要ではないのか?」
「そのご質問には、わたくしからお答えできません」
エマは廊下の小机で、洗濯物を畳んでいた。籠にはアイリスの寝間着、靴下、薄手の肌着が重なり、乾燥させたラベンダーの香りがする。レナードは王妃の靴下が一足だけ左右で違う色になっていることに気づいた。
「なぜ、片方は灰色で片方は白い?」
「片方ずつ行方不明になったため、王妃様が組み合わせて履いておられます」
「新しいものを用意すればよいだろう」
「まだ履けるものを捨てるのは、もったいないと」
「王妃が左右の違う靴下を履くのか?」
「ドレスの下ですから、誰にも見えません」
寝室の扉が開き、湯上がりのアイリスが現れた。銀灰色の髪はまだ湿り、普段より色が濃く見える。薄紫色の部屋着の裾から、灰色と白の靴下が片方ずつのぞいていた。
「陛下。何か緊急のご用でしょうか?」
「緊急でなければ、妻を訪ねてはいけないのか?」
「いけないとは申し上げておりません。ただ、今日はもう休むところです」
「まだ六時だぞ」
「明日は四時半に起きて、共同倉庫の早朝輸送を視察します」
「少しくらい話す時間はあるだろう」
「話し始めれば、少しでは終わりません」
「私は夫だぞ」
「ですから、予定を確認してくださいと申し上げています」
アイリスは濡れた髪を布で拭きながら、寝室の扉を半分閉めた。部屋の奥では、丸机に湯気の立つ牛乳と、小さく切った林檎が用意されている。寝台の上には厚い果樹栽培の本が伏せて置かれ、その横では湯たんぽが毛布を温めていた。
「明後日の夜はどうだ?」
「セシリアの職業訓練所について、建築業者と面談します」
「その翌日は?」
「エマの休暇ですので、自分で髪を結う練習をします」
「それは予定に入れるほどのことなのか?」
「私にとっては必要です。これまで髪留めを三本折りました」
「では、その次の日は?」
「今、確認できません。予定表は執務室です」
「私は、いつなら君と話せる?」
「面会申請を出してください」
アイリスはそう言い残し、扉を閉めた。鍵はかけなかったが、レナードは取っ手へ手を伸ばさなかった。廊下には、アイリスが使った石鹸の柔らかな花の香りが残っていた。
「エマ。夫が妻へ会うのに、面会申請が必要なのか?」
「王妃様は、陛下へ会うために何度も申請書を出しておられました」
「いつの話だ?」
「王妃様が公爵領へお戻りになる前です。ご相談があると、毎週のように」
「私は受け取っていない」
「侍従長から、陛下は軍議でお忙しいため後日にするようにと返されておりました」
エマは畳み終えた洗濯物を籠へ戻した。左右の色が違う靴下も、折り重ねて一足として入れる。レナードはしばらく閉じた扉を見つめたあと、何も言わず廊下を戻った。
翌朝、国王執務室では、レナードが一枚の面会申請書を前に腕を組んでいた。机には朝食の丸パンと半熟卵が置かれ、珈琲からは香ばしい湯気が上がっている。しかし、目的欄を何と書くべきか分からず、卵の殻ばかり細かく砕いていた。
「会談、では堅すぎるか」
レナードが独り言をこぼすと、向かいで書類を整理していたアルバートが銀縁眼鏡を押し上げた。彼は黒い文官服の上へ灰色の外套を羽織り、朝食代わりの干し葡萄を一粒ずつ口へ入れている。休暇明けから、机の抽斗へ菓子や乾燥果物を常備するようになっていた。
「何の申請書でございますか?」
「王妃との面会だ」
「でしたら、目的をそのままお書きください」
「夫婦の時間を持ちたい、と書くのか?」
「王妃殿下は、曖昧な申請を最も嫌われます」
「夕食へ行きたいだけなのだが」
「では、そのように」
レナードは魔導ペンを握り、目的欄へ文字を書いた。途中で一度手を止めたが、言い換えるほど余計に不自然になる気がして、そのまま最後まで書き切る。完成した申請書を読んだアルバートは、干し葡萄を喉へ詰まらせて咳き込んだ。
「何がおかしい?」
「失礼いたしました。国王陛下が提出なさったとは思えないほど、正直な申請書でしたので」
「返せ」
「いいえ。直ちに王妃執務室へ届けます」
申請書の目的欄には、飾り気のない文字で『妻と夕食を食べたい』と書かれていた。希望日は三つ記入され、開始時刻も午後七時、終了時刻は未記入になっている。アルバートは書類を専用の青い封筒へ入れ、自分で王妃執務室へ運んだ。
アイリスは朝の会議を終え、遅い朝食を取っているところだった。机の端には小麦粥と焼いた林檎が置かれ、湯気の薄くなった粥へ蜂蜜を少しずつ加えている。隣ではエマが、前日に余った毛糸で小さな鍋敷きを編んでいた。
「国王陛下から、面会申請書でございます」
「陛下が、ご自分でお書きになったのですか?」
「はい。私が代筆しても、この文面にはならないかと存じます」
アイリスは匙を置き、申請書を開いた。目的欄を読むと、青紫色の瞳がわずかに丸くなる。エマが横からのぞこうとしたため、アイリスは書類を裏返した。
「エマ」
「見ておりません」
「まだ何も言っていません」
「ですが、陛下のお顔を思い浮かべて笑ったりもしておりません」
「すべて言っていますよ」
アイリスは壁に掛けられた予定表を確認した。レナードが希望した三日はいずれも埋まっていたが、その翌週の木曜日には一時間だけ空きがある。彼女はそこへ夕食と書き込み、申請書へ許可の印を押した。
「条件をつけます。時間は一時間、護衛は店の外、仕事の話は禁止です」
「一時間だけでございますか?」
「最初から長時間を予定して、何も話せなければ苦痛でしょう」
「陛下に聞こえたら、膝をつかれそうなお言葉です」
「申請書を届けてください」
許可された申請書を受け取ったレナードは、条件を三度読み直した。国王として会うときよりも細かな規定が並び、遅刻した場合も終了時刻は延長しないと書かれている。だが一番下には、アイリスの字で店の名前と待ち合わせ場所が記されていた。
一週間後の木曜日、レナードは午後六時四十分に王城の裏門へ着いた。黒い上着から金の肩章を外し、装飾のない灰色の外套を羽織っている。護衛を務めるミハイルは、平民の旅人に見える茶色い上着を着ていたが、背が高く姿勢もよいため、どう見てもただの旅人には見えなかった。
「陛下。もう少し肩の力を抜いてください」
「抜いている」
「これ以上ないほど、戦場へ向かう顔をしておられます」
「妻と食事へ行くのは、戦場より難しい」
「戦場では、剣を振ればよいですからね」
「お前は経験があるように言うな」
「ございません。ですから、店の外で静かに待ちます」
待ち合わせ時刻の五分前、アイリスがエマとともに現れた。深緑色のワンピースに短い生成り色の外套を合わせ、銀灰色の髪は低い位置で一つに結んでいる。王妃の宝石は身につ碟つけてde訳 れず、耳元には小さな青い硝子玉が揺れていた。
「お待たせしましたか?」
「いや。私が早く来ただけだ」
「時間を守っていただけて何よりです」
「申請条件は覚えている。一時間、護衛は外、仕事の話は禁止だ」
「よくできました」
「子ども扱いしていないか?」
「できたことを褒めるのは、人材育成の基本です」
「それは仕事の話ではないのか?」
「まだ開始時刻前です」
アイリスはエマへ手を振り、レナードと並んで王都の西通りへ歩き出した。夕暮れの通りには、仕事を終えた職人や買い物籠を持つ主婦が行き交っている。石畳の隅には洗濯物から落ちたらしい片方の靴下があり、パン屋の窓からは焦がしバターの匂いが流れてきた。
二人が入ったのは、緑色の扉がある小さな食堂だった。店内には丸い木の卓が六つ並び、壁には店主の子どもが描いた牛や鶏の絵が貼られている。奥の厨房では肉を焼く音が響き、香草と炭火の匂いが空腹を刺激した。
「王妃……ではなく、アイリス様。いつもの席を空而か?
」
店主の女が声をかけ几 け122
差し入れの焼き菓子を渡していた。
「今日は二人なのですね。こちらは、ご親戚の方ですか?」
「夫です」
アイリスが答えると、店主はレナードの顔を見たまま固まった。国王の肖像画は硬貨や役所にも使われているため、装いを変えても分からないはずがない。レナードが口元へ人差し指を当てると、店主は何度もうなずいた。
「お、夫の方ですね。ただの夫の方として、お席へご案内します」
「ずいぶん不自然ですね」
「努力は認めてやってくれ」
二人は窓際の小さな卓へ向かい合って座った。椅子は王城のものより硬く、レナードが動くたびに脚が少し軋む。卓上には塩壺と乾燥香草が置かれ、木の器には食べ放題の細いパンが入っていた。
「ここへは、よく来るのか?」
「三度目です。先週、エマと食べた牛肉の赤葡萄酒煮込みが美味しかったので、陛下にもよいかと思いました」
「私のために選んだのか?」
「候補の一つとしては」
「そうか」
レナードは小さくうなずき、木の杯へ注がれた水を飲んだ。アイリスは献立表を開き、焼いた塗料の匂いがまだ残っている文字を指で追った。二人は牛肉の香草焼き、豆と蕪のスープ、焼いた玉葱を注文した。
料理が届くまで、二人の間に会話がなかった。隣の席では職人らしい男たちが仕事仲間の失敗を笑い、奥の席では幼い兄弟が最後のパンを取り合っている。食堂全体が話し声と食器の音で満ちているのに、二人の卓だけが妙に静かだった。
「今日は、よい天気だったな」
レナードがようやく口を開いた。窓の外では細い雨が降り始め、通行人が外套を頭へかぶって走っている。アイリスは窓を見てから、もう一度レナードへ視線を戻した。
「昼過ぎから曇っていました」
「そうだったか」
「陛下は、執務室から空をご覧にならないのですね」
「窓はあるが、外を見る習慣がない」
「私も以前はそうでした」
豆と蕪のスープが運ばれてきた。湯気には月桂樹の香りが混じり、匙を入れると柔らかく煮えた蕪が崩れた。レナードは口へ運んだが、何を話すべきか考える方へ意識が向き、味がよく分からない。
「王宮の予算についてだが……」
「仕事の話は禁止です」
「まだ、予算という言葉しか言っていない」
「その先も仕事でしょう」
「では、領地の林檎は……」
「それも仕事につながります」
「天気もだめで、林檎もだめなら、何を話せばよいのだ」
「何でもよいのです。陛下ご自身のことを話してください」
レナードは匙を置いた。目の前には、肉汁を吸った焼き玉葱と、表面を香ばしく焼かれた牛肉が運ばれている。料理は湯気を立て、切ると内側から透明な肉汁が流れたが、彼はナイフを握ったまま動かなかった。
「陛下は、仕事以外では何がお好きなのですか?」
「好きなもの?」
「食べ物でも、音楽でも、休日の過ごし方でも構いません」
「食事に好き嫌いはない。音楽は夜会で聞く。休日は……書類を読む」
「それは休日ではありません」
「では、剣の稽古だ」
「軍務ですね」
「馬に乗る」
「視察でしょうか」
「視察ではなくても乗ることはある」
「どちらへ行くのです?」
「決めていない」
レナードの声は次第に小さくなった。国王としてなら、軍備、外交、税制について何時間でも話せる。だが国王ではない自分が何を好み、何を見たいのか問われると、何も浮かばなかった。
彼は焼きたての牛肉を一切れ口へ入れた。胡椒と肉汁の味が広がるはずなのに、顎を動かすことだけに集中していた。アイリスは問いを重ねず、自分の皿から焼き玉葱を切り分けた。
「私は、昼寝が好きだと分かりました」
「昼寝?」
「公爵領で初めて木陰に寝転んだときは、三時間も眠ってしまいました。目を覚ましたら、髪に蟻が入っていました」
「それで、どうした」
「エマが一匹ずつ取ってくれました。二度目からは、敷物を使っています」
レナードは、木陰で髪を乱して眠るアイリスを想像した。王宮で見る彼女はいつも髪を整え、背筋を伸ばし、間違いのない王妃として座っていた。蟻が髪へ入って慌てる姿など、見たことがない。
「ほかには?」
「市場を歩くことも好きです。買わなくても、季節の果物や布を見るだけで楽しめます。料理は上手ではありませんが、野菜を切るのも嫌いではありません」
「私が切った人参よりは上手だ」
「あれより下手に切る方が難しいでしょう」
「その話は忘れてくれ」
「人参を見るたびに思い出します」
アイリスが笑うと、レナードはようやく牛肉の味を感じた。表面の塩は少し強かったが、焼いた玉葱と一緒に食べると甘みが加わる。彼は二切れ目をゆっくり噛み、幼い頃に食べたものを思い出した。
「焼いた芋が好きだった」
「過去形なのですか?」
「王子だった頃、騎士見習いたちと訓練場の焚き火へ芋を入れて焼いた。厨房で作ったものより焦げていたが、うまかった」
「今は召し上がらないのです?」
「国王の食卓には出ない」
「頼めば出るでしょう」
「焼いた芋を頼む国王など、聞いたことがない」
「左右の違う靴下を履く王妃も、あまり聞きませんよ」
レナードは口元を緩めた。アイリスは食後に注文した林檎の焼き菓子を半分に切り、大きい方を彼の皿へ載せた。薄い生地の中には煮た林檎と胡桃が入り、湯気とともに甘酸っぱい香りが立ち上る。
「では、次は焼いた芋を食べに行きましょう」
「次があるのか?」
「陛下が面会申請を出せば」
「また申請書が必要なのか」
「恋愛にも予約が必要です。相手の時間を勝手に使うことはできません」
「今日のように、一時間だけか?」
「次の申請内容を見て決めます」
壁の時計を見ると、約束の終了時刻まで残り五分だった。レナードは林檎の焼き菓子を急いで食べようとし、熱い中身で舌を焼いた。水を飲んで眉間へ皺を寄せる彼へ、アイリスは声を立てて笑った。
「そこまで時間どおりに食べ終えなくても構いません」
「遅れれば、次の申請が不利になるかと思った」
「五分の延長を認めます」
「寛大な処置に感謝する」
「ただし、残業代は焼いた芋でお願いします」
店を出る頃には、雨がやんでいた。濡れた石畳には魔導灯の光が映り、パン屋の裏口から焼き上がったばかりの黒パンの匂いが流れてくる。店の外で待っていたミハイルは、隣の屋台で買った焼き栗の袋を抱えていた。
「陛下、お帰りになりますか?」
「ああ。だが、その前に尋ねたい。この近くで焼いた芋を売る店を知っているか?」
「冬になれば東広場へ屋台が出ます。まだ一月ほど先ですが」
「分かった。一月後の予定を空けておけ」
「わたくしではなく、王妃殿下のご予定を先に確認なさった方がよろしいかと」
レナードは反論しかけたが、隣にいるアイリスを見て口を閉じた。王城へ戻ったら、まず予定表を確認し、今度は希望日時と場所まで書いた申請書を提出する必要がある。面倒に思うはずの手順が、今夜は次の約束へ続く道のように感じられた。
「アイリス。焼いた芋以外にも、好きだったものを思い出しておく」
「楽しみにしています」
「君も、次までに一つ教えてくれ」
「何をです?」
「私の知らない、君の好きなものを」
アイリスはすぐには答えず、濡れた石畳を避けて一歩横へ動いた。その拍子に二人の肩が触れたが、どちらも離れなかった。少し先では、雨宿りしていた野良猫が軒下から出て、魚屋の裏へ素早く走っていった。
「では、次の予約が取れたらお教えします」
「明日の朝、一番に申請する」
「執務時間内に書いてくださいね」
「恋愛は仕事ではないのだろう?」
「ようやくお分かりになりましたか」
レナードは答えず、アイリスの歩幅に合わせてゆっくり歩いた。王城までは十五分ほどかかるが、今度はその時間を無駄だとは思わなかった。国王ではない自分に何が残っているのか、すぐに答えは出なくても、まずは焦げた焼き芋の味から思い出せばよいのだと考えていた。




