第12話 愛妾も退職いたします
第12話 愛妾も退職いたします
王城の西側に建つ愛妾宮には、朝から甘い焼き菓子の匂いが漂っていた。白い壁と桃色のカーテンに囲まれた居間では、銀の菓子皿に苺の砂糖漬けと蜂蜜入りの焼き菓子が並べられている。どれもセシリアの好物だったが、彼女は一つも口にせず、ぬるくなった紅茶を銀の匙で何度もかき回していた。
セシリアが身につけているのは、淡い桃色のドレスだった。胸元には朝摘みの白薔薇が飾られ、蜂蜜色の巻き髪には真珠の髪飾りが輝いている。王の愛妾にふさわしい装いだったが、椅子の横には革製の旅行鞄が三つ並び、長椅子には畳みかけの普段着と厚手の靴下が積まれていた。
「本当にお出になるのですか?」
年配の侍女マルタは、焼き菓子の皿をセシリアの近くへ押した。十四歳で王宮へ入ったセシリアへ、歩き方から食事の作法まで教えてきた女性である。マルタの目は赤くなっていたが、いつもの習慣どおり、テーブルへ落ちた砂糖の粒を布巾で一つずつ拭き取っていた。
「ええ。今日、陛下と王妃様へ正式に申し上げます」
「愛妾宮で何かご不満がございましたか? 食事でしょうか。それとも、昨日のお風呂が少しぬるかったことでしょうか」
「お風呂は関係ないわ。それに、あれくらいの温度の方が長く入れて好きよ」
「では、寝台の羽毛を新しくいたしましょう。近頃、眠りが浅いとおっしゃっていたではありませんか」
「寝台のせいでもないの」
セシリアは匙を置き、冷めた紅茶を一口飲んだ。蜂蜜を入れすぎた紅茶は舌へまとわりつくほど甘く、喉を通ったあとにも重い香りが残る。以前なら好んで飲んでいたはずなのに、王妃代理として徹夜を繰り返した頃から、甘すぎるものを口へ入れると胃が縮むようになっていた。
あの三日間、セシリアは王妃の椅子へ座った。最初の朝には、薄青色の正装へ着替え、アイリスの代わりを立派に務めてみせると張り切っていた。しかし昼までに四件の会議が重なり、夕方には訪問中の大使夫人の名前を間違え、深夜には未処理書類の山を前にして声も出なくなった。
机の下へ落としたペンを拾う力さえ残っていなかった。朝食に出されたパンは机の隅で乾き、昼食のスープには薄い脂の膜が張り、夕食は蓋を開けることすらできなかった。それでも次の朝になると侍女たちは髪を巻き、頬へ紅を塗り、笑顔で大使を迎えるよう彼女へ求めた。
「王妃様は毎日なさっていました」
失敗するたびに、誰かがそう言った。その言葉は励ましではなく、何もできない者へ突きつける細い針のようだった。三日目の夜、セシリアは書類へ頬をつけたまま動けなくなり、迎えに来たマルタの腕へしがみついた。
「王妃様って、こんな人生だったの……?」
あのとき自分がこぼした言葉を、セシリアは今も覚えていた。けれど、もっと覚えているのは、その翌日に見たアイリスの執務机である。抽斗には頭痛薬と胃薬が何本も入り、破れた手袋は自分で繕われ、予定表の端には小さな文字で「昼食を取る」と書かれていた。
「マルタ。私、王妃様の仕事について、何も知らなかったわ」
「セシリア様がお知りになる必要のないことでございました」
「だから知らなかったのよ。私は知らなくていい、考えなくていい、笑っていればいいと言われて、それを幸せだと思っていたの」
「陛下から寵愛を受けることは、多くの女性が望んでも得られない幸運でございます」
「ええ。だから、これ以上を望んだら罰が当たると思っていたわ」
セシリアは膝の上で両手を握った。爪には薄桃色の染料が塗られ、家事をしたことのない指先には傷一つない。だがその手では、自分の着ているドレスがいくらするのかも、目の前の焼き菓子を作るのに小麦がどれほど必要なのかも分からなかった。
「陛下に愛されていれば、それで幸せなのだと思っていました。でも、愛されなくなったら何も残らない人生は怖いのです」
「陛下はセシリア様をお見捨てにはなりません」
「では、陛下が先に亡くなられたら? 国が変わったら? 私が年を取り、髪も頬も今のようではなくなったら?」
マルタは答えられず、布巾を四角く畳み直した。セシリアは鏡台の前へ立ち、真珠の髪飾りを外した。髪の間に差していた細い金具が引っかかり、二本ほど抜けた蜂蜜色の髪が鏡台へ落ちた。
「この部屋にあるものは、どれも私のものではないの。寝台も、食器も、ドレスも、陛下の寵愛がある間だけ貸されているものよ」
「それでも、わたくしはセシリア様のおそばにおります」
「ありがとう。でも、あなたにも退職後の生活があるでしょう。私だけを支えるために、いつまでも働かせるわけにはいかないわ」
「王妃殿下のようなことをおっしゃいますね」
「三日間だけでも、あの方の椅子に座ったからかしら」
セシリアはようやく焼き菓子を一つ取り、半分に割ってマルタへ渡した。外側はさくりと崩れ、中から杏のジャムが現れた。二人はしばらく黙って菓子を食べ、床へ落ちた欠片をどちらが拾うかで、初めて小さく笑った。
午前十時、セシリアは王妃執務室を訪れた。部屋の中央では、アイリスとレナードが長机を挟んで、王宮職員の休暇取得状況を確認していた。アイリスは濃紺の実務用ドレスを着ていたが、以前とは違い、腰に下げた魔導ペンは一本だけだった。
「南棟の侍女たちは、先月も取得率が低いですね」
「女官長は、人員が足りないと報告している」
「足りないのではなく、伯爵家出身の侍女へ仕事を割り振っていません。身分を理由に免除するから、平民出身者へ集中するのです」
「女官長を呼ぼう」
「午後の面談時間へ入れてください。私の昼休みを削らないように」
アイリスが書類へ印を押したところで、レナードがセシリアに気づいた。以前なら、その金色の瞳はわずかに和らぎ、彼女の装いや髪飾りを褒めていた。しかし今は、王妃と仕事をする国王の顔のまま、椅子を勧める。
「どうした、セシリア。何か必要なものがあるのか?」
「はい。退職許可をいただきに参りました」
「退職?」
「愛妾を辞め、愛妾宮を出たいと存じます」
レナードの手からペンが落ち、机の上を転がった。アイリスは驚いて目を上げたが、すぐに書類を端へ寄せ、セシリアへ向き直った。部屋の隅では、エマが昼食用の籠から焼きたてのパンと保温瓶を取り出しており、気まずそうに手を止めている。
「セシリア。誰かに何か言われたのか?」
「誰にも言われておりません。私が自分で決めました」
「生活に不満があるのなら改善させる。愛妾宮の予算が減らされたことか?」
「王妃様が、花だけで月に金貨百枚も使うのは多すぎるとおっしゃった件でしたら、私も正しいと思います」
「では、なぜだ?」
「何もできないまま、誰かに養われ続けるのをやめたいのです」
セシリアは自分で作った計画書を机へ置いた。淡い黄色の表紙には、何度も書き直した跡が残り、表題の文字も少し右へ傾いている。アイリスが開くと、一枚目には「女性職業訓練所設立計画」と大きく記されていた。
「貴族令嬢へ礼儀作法を教える学校か?」
レナードが尋ねると、セシリアは首を横へ振った。緊張で指先が冷え、ドレスの裾を握りそうになったが、皺をつけないよう両手を膝へ戻した。計画書の中には、彼女がこの数か月で調べた教師の賃金や建物の賃借料まで記されている。
「礼儀作法だけではありません。読み書き、計算、薬草栽培、魔道具の扱いを教えます。身分や年齢に関係なく、働く力を身につけたい女性を受け入れたいのです」
「なぜ薬草栽培なのですか?」
アイリスが尋ねると、セシリアは用意してきた小さな布袋を机へ載せた。中には乾燥させたカミツレの花が入り、袋を開くと青林檎に似た香りが広がった。愛妾宮の花壇で、庭師から教わりながら彼女が育てたものだった。
「愛妾宮の庭で初めて自分で育てました。花を飾ることしか知らなかった私にも、薬草なら育てられました。乾燥させて薬師へ売れば、少額ですが収入にもなります」
「計算を間違えていますね」
「やはり、どこか間違っていますか?」
「教師五人分の食費が入っていません。それから、魔道具の保守費用も必要です」
アイリスが指摘すると、セシリアは鞄から鉛筆を取り出し、余白へ急いで書き込んだ。削り方が悪いのか、鉛筆の芯はすぐに折れ、机へ黒い粉が落ちた。エマが小さな削り器を貸すと、セシリアは礼を言い、慣れない手つきで芯を整えた。
「王妃様は、反対なさらないのですか?」
「なぜ反対すると思ったのです?」
「私は陛下の愛妾です。それに、王妃様が働いていらした間、何も知らずに贅沢をしていました」
「あなたを好きになる必要も、過去をなかったことにする必要もありません。ただ、自分の人生を変えようとする者の邪魔をするつもりはないのです」
「責めては、くださらないのですね」
「責められた方が楽ですか?」
セシリアは唇を開いたまま、しばらく動かなかった。怒鳴られれば謝ることができる。罰を与えられれば、それを受けることで過去を清算した気にもなれる。しかし、自分で選び、自分で働き続けることは、一度頭を下げるよりはるかに長い責任だった。
「いいえ。楽な方へ逃げないことにします」
「それなら、この計画書を完成させましょう。開設予定地は決まっていますか?」
「王都南区に、閉鎖された女子寄宿学校があります。屋根は傷んでいますが、教室と畑が残っています」
「土地の所有者へ確認は?」
「昨日、会ってまいりました。最初は愛妾の道楽だと言われましたが、三年間の賃貸契約なら結んでもよいそうです」
「よく、そこまで準備したな」
レナードは計画書を最初から読み直した。セシリアは褒められると反射的に微笑みかけたが、すぐに王の顔色をうかがう癖へ気づき、膝の上で手を握った。レナードもまた、その作られた笑顔へ気づいたのか、引き止める言葉を口にしなかった。
「愛妾を辞めれば、これまでと同じ生活はできない。王家からの手当も、退職時に支払う分で終了する」
「承知しております。その手当を訓練所の元手にしたいのです」
「失敗するかもしれないぞ」
「はい。そのときは、薬草園で働きます。少なくともカミツレの育て方なら覚えました」
「そうか。ならば、許可しよう」
レナードは愛妾契約終了の書類を取り寄せ、その場で署名した。ペン先が羊皮紙を擦る乾いた音を聞きながら、セシリアは胸元の白薔薇へ指を触れた。王のそばで美しく咲き続けることだけを求められた日々が、一本の署名によって終わった。
「ありがとうございます、陛下」
「私が礼を言われることではない。今まで、君へ生き方を選ばせなかった」
「陛下も、選び方を知らなかったのでしょう?」
「アイリスといい、君といい、近頃は私に容赦がないな」
「改革の成果でございます」
セシリアが少し笑うと、アイリスも口元を緩めた。エマは話がまとまったと判断し、保温瓶から豆と鶏肉のスープを三つの椀へ注いだ。セシリアは食事を断ろうとしたが、香草の効いた湯気が鼻先へ届くと、朝から焼き菓子半分しか食べていなかった腹が小さく鳴った。
「聞こえなかったことにいたします」
アイリスがパンを一つ差し出した。セシリアは頬を赤くし、それを受け取ってスープへ浸した。豆のほくほくした食感と鶏肉の塩気が、甘い紅茶で重くなっていた口の中を整えていく。
「王妃様。訓練所で出す昼食も、温かいものにしたいと思っています」
「食費の計算を忘れていた方が言う台詞ではありませんね」
「ですから、今、書き加えました」
「では、調理担当者の賃金も加えてください。無償の善意を前提にすれば、王宮と同じものが出来上がります」
「はい。必ずお給金を払います」
昼食を終えると、アイリスは計画書の改善点を別紙へまとめた。融資ではなく補助金を希望するなら、入学予定者と卒業後の就職先を示す必要がある。セシリアは一つずつ質問し、鉛筆で余白を埋めていった。
「最後に、愛妾宮の備品を確認します」
アイリスの言葉で、セシリアの鉛筆が止まった。彼女が持参した宝飾品目録には、首飾り、腕輪、耳飾り、髪飾りを合わせて四十七点が並んでいる。これまで王から贈られたものは、すべて自分の財産になるのだとセシリアは思っていた。
「私がいただいた宝石も、返すのでしょうか?」
「王家の私費で購入された品は、退職手当の一部として譲渡できます。しかし戴冠式用の紅玉、南方使節団から贈られた真珠、建国祭で使用した金剛石の首飾りは国有財産です」
「この真珠は、陛下が私に似合うとおっしゃったものです」
「外交上、王家へ献上された品です。これは慰謝料ではなく、国有財産です」
「そこは容赦してくださらないのですね」
「独立とは、自分の足で立つことですから」
「宝石を抱えて立つことではない、と?」
「それほど抱えていては重くて歩けませんよ」
セシリアは目録を見下ろしたあと、声を立てて笑った。真珠への未練が消えたわけではないが、訓練所へつけていく場所もない。王家から買い与えられた豪華な首飾りより、自分で育てたカミツレの袋の方が、今は役に立つように思えた。
五日後、愛妾宮の玄関には荷馬車が一台止まっていた。セシリアは装飾の少ない若草色のワンピースと茶色の編み上げ靴を身につけ、袖を汚さないよう腕まくりをしている。持ち出す荷物は旅行鞄三つ、衣装箱一つ、薬草の種を詰めた木箱、それからマルタが焼いた固い保存用ビスケットだった。
「セシリア様。やはり、わたくしもご一緒いたします」
「マルタには、退職後の家を用意したでしょう」
「用意された家で何をしろとおっしゃるのです。朝から晩まで、誰の世話もせずに壁を見て暮らせと?」
「ゆっくり休めばいいのよ」
「十五年ほど休めと言われ続けた王妃殿下が、どうなったかご存じでしょう」
「それを言われると、反論できないわね」
マルタは愛妾宮の侍女服ではなく、茶色い質素なドレスを着ていた。手には料理道具を詰めた籠を持ち、その上には昨夜洗って乾かした布巾が何枚も載っている。訓練所の食堂を担当する代わりに、正式な賃金を受け取る契約書もすでに作ってあった。
「賃金は毎月支払います。私がお金に困っても、待ってもらいませんからね」
「承知しております。食材の買い付けでは、銅貨一枚まで帳面につけます」
「私より厳しい会計係になりそうだわ」
「まずは、朝食を焼き菓子だけで済ませる癖を直していただきます」
玄関前には、レナードとアイリスも見送りに来ていた。レナードは濃紺の上着に金糸の肩章をつけた国王の正装で、アイリスは灰青色の外出用ドレスを着ている。セシリアは二人の前へ進み、宮廷作法どおり深く膝を折ろうとした。
「その礼は必要ない」
レナードが止めると、セシリアは曲げかけた膝を戻した。長年繰り返してきた動作を途中でやめたため、体が少し揺れる。アイリスが腕を支えると、セシリアは自分の両足で姿勢を整えた。
「陛下。今までお世話になりました」
「ああ。困ったことがあれば、王宮へ知らせろ」
「訓練所の運営については、まず担当部署へ相談します。陛下へ直接お願いすると、業務分担表を百回書かされるそうですから」
「よく理解していますね」
アイリスが答えると、レナードは眉間を指で押さえた。荷馬車の御者が笑いをこらえ、馬の首を撫でるふりをして顔を背けている。セシリアも口元を押さえたが、やがて隠すのをやめて笑った。
「王妃様。学校が開いたら、見に来てくださいますか?」
「監査が必要なら参ります」
「監査ではなく、お客様としてです」
「では、焼き菓子と温かい紅茶を用意してください」
「蜂蜜は少なめにいたします」
「よく覚えていましたね」
セシリアは荷馬車へ乗り込み、マルタの隣へ座った。車輪が石畳の上で音を立て、白い愛妾宮が少しずつ遠ざかっていく。膝の上には王家の宝石ではなく、鉛筆の跡で汚れた訓練所の計画書が置かれていた。
王城の門を抜けると、朝市から焼いた腸詰めと林檎の匂いが流れてきた。通りには洗濯物が窓から窓へ渡され、パンを抱えた子どもが荷馬車の脇を走っている。セシリアは愛妾宮では見られなかった町の暮らしを窓から眺め、計画書が風で飛ばないよう両手で押さえた。
「マルタ。私、これからは何と呼ばれるのかしら」
「セシリア様でよろしいのではありませんか?」
「愛妾のセシリアではなく?」
「訓練所長のセシリア様になる予定でしょう」
「まだ、建物の屋根も直していないのに?」
「では、屋根を直している途中のセシリア様でございます」
セシリアは荷台の木箱へ背中を預けた。車輪が小石を踏むたびに尻が跳ね、王家の馬車とは比べものにならないほど乗り心地が悪い。それでも彼女は引き返したいとは言わず、遠ざかる白い城から、これから自分が働く南区の町並みへ顔を向けた。




