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第11話 王妃様、本日は公休日です

第11話 王妃様、本日は公休日です


 午前六時、王城の東塔にある王妃の寝室は、厚い紺色のカーテンに朝日を遮られていた。暖炉には昨夜の薪が一本だけ残り、赤い熾火がときおり小さく爆ぜている。寝台脇の丸机には、半分ほど残った白湯と、読みかけの領地報告書、それから昨夜アイリスが外した銀の髪留めが置かれていた。


 アイリスは薄紫色の寝間着の上から毛布を顎まで引き上げ、銀灰色の髪を枕へ広げて眠っていた。以前は、どれほど遅く寝ても午前五時には目を覚まし、濃紺の実務用ドレスへ着替えていた。しかし今日は、一年かけて王宮に定着させた月二回の完全公休日であり、目覚まし用の魔道具も止めてある。


 その静かな部屋へ続く廊下を、慌ただしい足音が近づいてきた。磨き上げられた床を靴底で鳴らし、若い文官が赤い革表紙の書類を抱えて駆けてくる。寝室の扉の前では、栗色の髪を三つ編みにしたエマが、灰色の侍女服に白い前掛けをつけ、朝の洗濯物を籠へ畳んでいた。


「エマ殿、王妃殿下へ緊急の決裁をお願いいたします。北部三州の冬季予算に関わる案件です」


 文官は息を切らし、眼鏡の曇りを袖で拭った。急いで来たらしく、上着のボタンは一つ掛け違え、右肩には朝食でこぼしたらしい珈琲の染みがついている。エマは畳みかけていたアイリスの白い靴下を籠へ入れると、扉の前から一歩も動かず、両手を腹の前でそろえた。


「王妃様は本日、公休日です」


「それは承知しております。しかし、これは緊急なのです」


「王宮で働く方は、休んでいる人を起こしたいとき、必ずそうおっしゃいます」


「本当に緊急です。財務局では判断できず、筆頭文官も王妃殿下へお持ちしろと」


 文官が書類を差し出すと、エマは表紙に貼られた担当札だけを確認した。そこには確かに赤い文字で「至急」と記されていたが、緊急時に使用する金色の封印はない。アイリスが倒れる前の王宮では、書類を早く処理してもらいたい者が、何にでも赤い札を貼る習慣があった。


「王妃様がお作りになった規定では、休暇中の呼び出しが認められるのは、戦争、災害、国王陛下の崩御、または国庫が本日中に空になる場合だけです。どれに当たりますか?」


「国庫は空になりませんが、北部の鉱山労働者へ支払う冬季手当の額を、本日中に決めなければなりません」


「それは一昨日、財務局長へ決裁権が移された案件です」


「ですが、局長が王妃殿下のご意見を聞きたいと申しておりまして」


「意見を聞くことと、判断を押しつけることは違います」


 エマは扉の取っ手を背中で隠した。小柄な体で立ちはだかる姿に迫力はなかったが、彼女の後ろには、休日を守れなかった部署の責任者は翌月の休暇申請を再審査する、というアイリスの規則がある。文官は書類を抱え直し、赤い表紙と閉ざされた扉を交互に見た。


「せめて、王妃殿下がお目覚めかどうかだけでも確認していただけませんか?」


「確認するために起こしたら、確認の意味がありません」


「では、何時にお目覚めになりますか?」


「分かりません。公休日ですから」


 エマがきっぱり答えた直後、扉の向こうで小さな金属音がした。寝台脇に置かれた通信魔道具が、書類に埋め込まれた識別術式へ反応したのである。毛布の中から白い手が伸び、アイリスは目を閉じたまま小型魔道具をつかんだ。


「……エマ」


「申し訳ございません、王妃様。起こしてしまいましたか?」


「夢の中で、赤い札を百枚貼られていました。あまり質のよい夢ではありませんね」


 アイリスは枕へ頬を押しつけたまま、魔道具の表示を片目で読んだ。北部三州冬季予算、鉱山労働者特別手当、提出元は財務局、決裁責任者は財務局長と表示されている。寝室には昨夜エマが焚いたラベンダーの香油が残っていたが、扉の隙間から文官の珈琲の匂いまで入り込んできた。


「その案件は、財務局長の決裁です。昨年度の暖房費と食料価格を基準にし、物価上昇分を加算するよう計算式も渡してあります」


「局長は、金額が大きいため不安だと申しております」


「決裁権と責任は一組です。権限だけ受け取り、責任だけ私へ戻すことは認めません」


「しかし、もし誤りがあれば……」


「誤りがあれば修正します。何も決めなければ、冬季手当を待っている鉱山労働者が困ります」


 扉の外で、文官が息をのみ込む音がした。以前のアイリスなら、寝台から起き上がり、着替える時間さえ惜しんで寝間着の上に上着を羽織り、その場で計算を始めていただろう。その姿を忠勤と褒める者は多かったが、代わりに仕事を覚えようとする者はいなかった。


「それから、この書類を私へ回すよう命じた者の名前を記録してください」


「財務局長でございます」


「では局長に、業務分担表を百回書き写していただきましょう。担当者の欄は、特に丁寧な字で」


「百回でございますか?」


「多すぎると思いますか?」


「い、いいえ。大変教育的な回数かと存じます」


「結構です。お戻りなさい」


 アイリスは通信魔道具を切り、丸机へ戻そうとした。しかし眠気で距離を誤り、魔道具は卓上ではなく、絨毯の上へぽすりと落ちた。拾おうと伸ばした手も途中で止まり、彼女は毛布を頭まで引き上げた。


「エマ」


「はい、王妃様」


「次に誰か来ても、国が燃えていなければ起こさないでください」


「煙が出ているだけでしたら?」


「消防局へ回してください」


「かしこまりました。おやすみなさいませ」


 廊下では、文官が赤い書類を抱えて立ち尽くしていた。エマは洗濯籠を持ち上げ、彼の掛け違えたボタンを指さした。文官は耳を赤くしながら留め直し、財務局長へ百回の書き写しを伝える役目を思って肩を落とした。


「エマ殿。局長は怒るでしょうか」


「怒る元気があるなら、決裁もできるでしょう」


「それもそうですね」


「戻る前に、食堂で何か召し上がってください。珈琲だけでは昼までもちませんよ」


 文官は自分の肩についた染みを見て、力なく笑った。それから一礼し、来たときよりも静かな足取りで廊下を戻っていく。エマはその背中を見送ると、洗濯籠の中で片方だけになっていた靴下を探しながら、今度こそ王妃の眠りを守るために扉の前へ椅子を置いた。


 アイリスが次に目を覚ましたとき、寝室にはカーテンの隙間から白い光が差し込んでいた。時計の長針と短針が重なりかけ、すでに正午が近い。彼女はしばらく天井の花模様を見つめたあと、遅刻する会議がないことを確かめるように、枕の下や丸机の上を見回した。


「……十一時四十分」


 声に出しても、誰も叱りに来なかった。急いでドレスへ着替える必要もなく、冷めた朝食を資料の横で流し込む必要もない。アイリスは寝台の端へ座ると、毛足の長い室内履きを探し、片方が寝台の下へ入り込んでいるのを見つけて足先で引き寄せた。


 衣装部屋では、エマが休日用の服を三着並べて待っていた。濃紺の実務用ドレス、深緑色の外出着、そして柔らかな生成り色のワンピースである。アイリスが迷わず生成り色へ手を伸ばすと、エマは満足そうにうなずいた。


「王妃様、今日は腰の魔導ペンケースもお休みです」


「一本くらい持っていてもよいでしょう。突然、よい考えを思いつくかもしれません」


「その場合は、忘れてください」


「ずいぶん厳しい侍女ですね」


「王妃様に甘くした結果、三年分の休暇がたまったのです。もう反省いたしました」


 生成り色のワンピースは、胸元に小さな青い花の刺繍があり、コルセットを締めなくても着られるよう仕立てられていた。エマが銀灰色の髪を緩く編む間、アイリスは鏡の前で何度もあくびをかみ殺した。頬には枕の縫い目が赤く残り、いつも青紫の瞳を縁取っていた化粧もない。


「この顔で食堂へ行ってもよいでしょうか」


「公休日ですから」


「便利な言葉ですね」


「王妃様が作った制度でございます」


「では、責任をもって利用しましょう」


 食堂へ近づくと、焼いた肉と温め直したパンの匂いが漂ってきた。扉を開けたアイリスは、長い食卓の端に一人で座るレナードを見つけて足を止めた。黒い軍服ではなく、襟元の緩い白いシャツと黒いズボンを身につけた国王は、冷えた卵料理を前に、外交文書より扱いに困るものを見る顔をしていた。


「陛下。なぜこちらに?」


「公休日の妻と、朝食を取ろうと思った」


「もう昼食の時間ですが」


「それについては、先ほど時計を見て気づいた」


 食卓には二人分の朝食が並んでいた。茸入りの卵焼き、薄切りの燻製肉、蜂蜜を添えた丸パン、林檎と胡桃のサラダまで用意されている。しかし卵焼きの表面は乾き、パンは指で押しても戻らないほど固くなっていた。


「何時から待っていたのですか?」


「七時だ」


「三時間四十分も?」


「途中で二度、温め直させた。三度目は料理長に、これ以上温めれば卵ではなく革になると言われた」


「正しい判断です」


 アイリスは向かいの椅子へ座り、冷えた卵焼きをフォークで切った。茸の香りは残っているが、口へ入れると弾力がありすぎて、確かに革へ近づいている。レナードも一口食べ、しばらく噛んでから水で流し込んだ。


「エマへ起床時刻を聞いたのだが、分からないと言われた」


「私にも分かりませんでした。目覚ましを使わずに眠ったのは、王宮へ来て初めてです」


「公爵領では昼まで寝ていたこともあるのか?」


「最初の休暇では、二日ほど」


「二日間、眠り続けたのか」


「目を覚まして食事をし、また眠りました。当時の私は、それを怠惰だと思っていました」


 レナードの指が、固いパンの表面をゆっくりなぞった。アイリスが公爵領へ去るまで、彼は彼女が何時に眠り、何時に起きていたのか知らなかった。ただ朝の会議には必ず資料がそろい、夜会では最後まで微笑んでいたため、問題などないと思っていた。


「私は、君の休日の過ごし方さえ知らなかった」


「私自身も知りませんでした。休日がありませんでしたから」


「……すまない」


「謝罪は受け取ります。ただし、この卵焼きが柔らかくなるわけではありません」


 アイリスが皿を見下ろすと、レナードは呼び鈴へ手を伸ばした。だが鳴らす直前で動きを止め、朝から三度も料理を作り直した者たちのことを考えたらしい。彼は呼び鈴から手を離し、革のような卵焼きをもう一切れ口へ運んだ。


「陛下、無理に食べなくてもよろしいのですよ」


「待たせたのは私だ。これ以上、厨房へ作り直させるわけにはいかない」


「国王らしい責任感ですが、食事に対する罰のようになっています」


「では、どうすればよい?」


「厨房へ行って、残っている材料を尋ねましょう。簡単な昼食なら、私たちで作れます」


「私たちで?」


 レナードは国境紛争を報告されたときよりも険しい顔をした。アイリスは思わず口元を緩め、固くなった丸パンを布へ包む。あとでスープへ入れれば食べられるため、捨てる必要はない。


 厨房へ入ると、昼食の仕込みをしていた料理人たちが一斉に背筋を伸ばした。大鍋では鶏の骨と香草を煮込んだスープが湯気を上げ、作業台には皮をむいた根菜が山積みになっている。料理長は小麦粉のついた手を前掛けで拭き、国王と王妃を交互に見た。


「陛下、王妃殿下。何か不都合がございましたでしょうか」


「冷えた朝食を、昼食へ作り替えたいのです。余った野菜を少し分けてもらえますか?」


「すぐに新しいものをご用意いたします」


「今日は公休日です。あなた方にも余計な仕事を増やしたくありません」


 料理長は戸惑ったあと、籠に残っていた玉葱と人参、小ぶりな芋を差し出した。アイリスは袖を肘までまくり、前掛けを借りて玉葱の皮をむき始める。レナードも隣へ立ったが、渡された人参と小刀を見比べたまま動かなかった。


「陛下、人参は敵兵ではありません。半分に切ってから薄く刻んでください」


「分かっている」


「先ほどから、一本も切れていませんが」


「どの程度を薄いと言うのか確認していた」


「その人参を見つめても、答えは返ってきませんよ」


 レナードはようやく小刀を動かした。一枚目は紙のように薄く、二枚目は親指ほどの厚さになり、三枚目は斜めに裂けた。近くで芋を洗っていた下働きの少年が吹き出し、料理長に肩を小突かれて口を押さえた。


「笑ってよい。私もひどいと思っている」


「も、申し訳ございません、陛下」


「ただし、笑った責任として切り方を教えてくれ」


「はい。左手の指を、このように丸めてください」


 国王は少年から人参の切り方を習い、王妃は固くなったパンを小さくちぎった。玉葱を炒める香ばしい匂いが広がり、鍋へ野菜とスープを入れると、窓ガラスが白く曇った。アイリスは木匙で鍋を混ぜながら、形のそろわない人参が浮かぶたびに肩を揺らした。


「何がおかしい?」


「一つの鍋に、春から冬までの人参が入っています」


「味は同じだ」


「火の通り方が違います」


「次はそろえる」


「次も作るおつもりですか?」


「君の次の公休日が空いているなら」


 アイリスは木匙を止め、鍋の湯気越しにレナードを見た。以前なら、彼が口にする予定とは会議や夜会のことであり、二人で食事を作る時間など存在しなかった。今の申し出も上手ではなかったが、命令ではなく、断られる可能性を残した言葉だった。


「次の公休日は、十二日後です」


「朝食か?」


「いいえ。昼食にしましょう」


「起床時刻が分からないからか」


「陛下を四時間近く待たせるわけにはいきませんので」


 完成した野菜スープへ固いパンを入れると、パンは琥珀色の汁を吸って柔らかくなった。形の不ぞろいな人参も、長く煮たおかげで問題なく食べられる。二人は厨房の隅にある小さな木の卓を借り、料理人たちが忙しく行き交う中で、湯気の立つ椀を囲んだ。


「朝食より、こちらの方が温かいな」


「作りたてですから」


「君は公爵領で、こうして料理もしていたのか?」


「最初は卵を焦がしました。領主館の料理長には、王妃殿下にも不得意なことがあるのですね、と笑われました」


「私も見たかった」


「焦げた卵をですか?」


「それを見て笑われている君をだ」


 アイリスは返事をせず、スープに沈んだパンを匙ですくった。玉葱の甘みと香草の匂いが口の中へ広がり、冷えた体が内側から温まっていく。向かいでは、レナードが大きすぎる人参を何度も匙から落とし、そのたびに無言で拾い直していた。


「陛下」


「何だ?」


「今日は、午後も仕事をなさらないのですか?」


「そのつもりだ。私も公休日を取得した」


「国王陛下が?」


「私が休めない制度なら、誰も安心して休めないとアルバートに言われた」


「彼も成長しましたね」


 レナードは最後のパンを食べ終え、空になった椀を見下ろした。食事のあとの予定は決めていないらしく、机の上に書類もなければ、廊下で待つ従者もいない。アイリスも午後に何をするか考えていなかったが、それを不安に思わなくなった自分へ気づき、椅子の背にもたれた。


「庭を歩きませんか。温室で冬薔薇が咲いたと聞きました」


「それは王妃としての提案か?」


「いいえ。公休日の妻としての提案です」


「では、国王ではなく夫として同行しよう」


「ただし、途中で仕事の話をしたら帰ります」


「努力する」


「努力ではなく、守ってください」


 厨房の時計が正午を告げた。料理人たちは昼食の皿を運び始め、洗い場では重ねた鍋が賑やかな音を立てている。アイリスは前掛けを外し、レナードの袖に飛んだ人参の欠片を指先で取ると、十二日後の昼食には何を作ろうかと、仕事ではない予定を一つだけ考えた。


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