第10話 偽りの恋人
その夜、零は病院からの帰り道を一人で歩いていた。
千秋は今日も笑ってくれた。明日も会いに行くと約束した。それなのに、日奈の提案が頭から離れなかった。
翌日、零は日奈に連絡を入れた。
「話を聞かせてください。条件によっては、協力できるかもしれません」
日奈はすぐに返事をした。
二人は再び会い、交際の期間や人前での振る舞いについて話し合った。日奈は、周囲に恋人として紹介する必要があること、仕事の事情が落ち着くまで協力してほしいことを説明した。
「期間が終わったら、きちんと関係を終わらせます。それ以上のことは求めません」
日奈はそう約束した。
零は最後まで迷っていた。千秋に知られたら、どう思われるだろう。記憶を失った彼女に、自分が別の女性と付き合っていると伝わったら。
それでも、日奈が抱えている事情を聞き、期限を決めたうえで協力することにした。
「……分かりました。ただし、これはあくまで契約です。俺の気持ちは変わりません」
日奈は悲しそうに微笑んだ。
「ええ。それでも、ありがとう」
その日から二人は、人前では恋人として振る舞うことになった。
並んで歩き、写真を撮り、知人の前では自然に会話をする。外から見れば、仲のいい恋人同士に見えた。
しかし、二人の間には埋められない距離があった。
帰り際、日奈は零に尋ねた。
「いつか、私のことを好きになってくれる可能性はある?」
零は少し黙ったあと、はっきりと答えた。
「……分かりません。でも、今は千秋が大切です」
日奈はうつむき、それから笑顔を作った。
「そう。なら、今はそれでいいわ」
零は胸に小さな痛みを感じながら、その場を離れた。
彼はまだ知らなかった。この秘密が、千秋との関係にどんな影響を与えるのかを。
そして日奈もまた、契約の終わりに自分の気持ちと向き合うことになるとは、想像していなかった。




