第9話 秘密の提案
日奈との約束の日、零は人目につきにくい喫茶店を訪れた。
窓際の席に座っていた日奈は、零を見つけると立ち上がった。
「来てくれてありがとう」
「それで、話って何ですか?」
零が席に着くと、日奈は真剣な表情になった。
「私、あなたのことが気になっているの」
予想していなかった言葉に、零は黙り込んだ。
「初めて会ったときから、あなたのことをもっと知りたいと思っていたわ」
「……すみません。俺には、大切な人がいます」
零は迷わず答えた。
日奈は一瞬だけ視線を落とした。しかし、すぐに顔を上げた。
「千秋さんのことね」
「どうして……」
「病院で会ったから。あなたがどれだけ彼女を大切にしているか、少し分かった気がする」
日奈は指先を握りしめた。
「それでも、あなたのそばにいたいの。お願いがあるわ」
零は警戒しながら彼女を見た。
「私と恋人のふりをしてくれない?」
「……は?」
「期間限定でいいの。私には、どうしても恋人がいるように見せなければならない事情があるの」
日奈は詳しい事情をすぐには話さなかった。ただ、仕事上の立場や周囲からの期待が重なり、恋愛についても注目される状況に困っているのだという。
「もちろん、あなたが嫌なら断ってくれていいわ」
零は首を横に振った。
「俺は誰かの恋人のふりをするつもりはありません」
「分かってる。でも、あなたにしか頼めないの」
日奈の声は震えていた。
零は病院で眠る千秋を思い浮かべた。今は千秋の回復を支えることだけに集中したい。誰かと偽りの交際を始めるなど、考えられなかった。
「少しだけ、考えさせてください」
そう答えて、零は席を立った。
日奈は引き止めなかった。
ただ、彼が店を出ていく背中を見つめながら、静かにつぶやいた。
「……それでも、諦めたくない」




