第五章 思い出の日々
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。婚約者ルシアンから突然の婚約破棄を告げられ、隣国サヴォイア公国への輿入れを決意する。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
エレオノールの元婚約者。代々ブルゴーニュの国境警備を担うフォンテーヌ家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父、ブルゴーニュ公爵。
マリー
エレオノール付きの侍女。幼い頃からそばに仕えている。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。エレオノールに求婚し、隣国へと迎え入れる。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父、フォンテーヌ伯爵。
セシリア・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。
まだ何も知らなかった頃の話をしましょう。
あの人と出会ったのは、婚約という言葉さえ、遠い他人事のように感じていた頃のことだった。今思えば、あの頃の自分はどこまでも脆く、無防備だった。それでも私は、あの穏やかな日々をなかったことにはしたくなかった。
――
「エレオノール。」
父の声に、開きかけた本を閉じる。父のフィリップは執務机の向こうから娘を見据えていた。窓の外に広がる庭の向こう、遠くには国境沿いの丘陵地帯が霞んでいる。フランス東部、ブルゴーニュ公爵領。冬の終わりの薄日が、机の上の書類の束を白く照らしていた。
「今度の夜会、フォンテーヌ伯爵家の子息が来る。挨拶を交わしておきなさい。」
「はい、お父様。」
父はすぐに視線を書類へ戻した。ペン先が紙を掻く音だけが部屋に残り、私は一礼して静かに扉を閉めた。廊下の窓から差し込む光の中を、埃がゆっくりと舞っていた。
自室に戻る道すがら、廊下に並んだ歴代当主の肖像画が、いつもと変わらぬ表情でこちらを見下ろしていた。生まれた時からずっと見てきた顔ぶれのはずなのに、その日はなぜか一枚一枚が微笑んでいるように見えた。この家に生まれた者は、いつかこうして誰かの隣に立つ絵姿になるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、階段を上がっていった。
私は回廊から見える景色が好きだった。ここには何千何万という人たちが生を受けている。その上辺に私がいるというだけで、気持ちが落ち着くような気がしていた。
――
夜会の当日、支度部屋では侍女たちが忙しなく動き回っていた。
「今宵はいつにも増して念入りね。」
「お嬢様、フォンテーヌ家の御子息がいらっしゃるとお聞きしましたので。」
「そこまでするような方なの?」
鏡の中の整えられた自分を見つめながら小さく苦笑した。噂の伝わる速さには、いつも驚かされる。髪を結い上げる指の感触、香油の匂い、絹の衣擦れ――支度の一つ一つが、いつもより少しだけ丁寧に感じられた。
夜会の広間は、蝋燭の灯りと絹擦れの音で満ちていた。着飾った令嬢たちの視線が、扉から入ってきた青年に一斉に集まる。私は扇の陰でそれを一瞥しながら、輪の外へ一歩退いていた。
「無理をして笑わなくてもいい場所も、たまには必要でしょう。」
突然声をかけられて振り返ると、その青年――ルシアン・ド・フォンテーヌが、壁際の暗がりに立っていた。誰かと踊る気配もなく、ただ静かにこちらを見ている。
「あら……失礼しました。顔に出ていましたか。」
「いえ。そちらを見ていたわけではありません。ただ、僕もこの場所が少し得意ではないので。」
それきり、私と彼は並んで壁に背をつけたまま広間を眺めていた。楽団の音色が美しく、しかし遠くで聞こえる合間でも、会話らしい会話もなく時間だけが流れていく。シャンデリアの光を受けて、床に敷かれた大理石が淡く光っていた。
「そちらのフォンテーヌ家は、確か東の街道沿いに。」
「よくご存じで。国境の警備で、こちらのお家には昔からお世話になっていると聞いています。」
「私も、詳しくは存じ上げませんが……父から少しだけ。」
「公爵閣下が。それは光栄です。」
窓の外では、庭の松明が風に揺れていた。遠くから届く楽団の旋律が、私達の間の沈黙を柔らかく埋めていた。
私の少し嘲るような話し方にも、彼は丁寧に答えている。整った顔が私の顔を覗き込むようにしてくる。
「エレオノール様はお美しいですね。」
私が…美しい?そんなことは言われ慣れている。しかし彼から言われると、得も言われぬ満足感に支配された。
――
婚約が調ったのは、それから半年後のことだった。両家の使者が幾度となく行き来し、書斎の扉が閉ざされる時間が増えたことにも、私は特に不安を覚えなかった。決まった日の朝、庭の薔薇が例年より早く咲いていたのを、なぜかよく覚えている。
「今日は何を読んでいたんだ。」
庭園のベンチで、ルシアンが本を覗き込む。
「父に渡されたブルゴーニュ家の記録です。……興味を持てと言われても、正直、退屈で欠伸が出ますわ。」
「君らしいな。」
「どういう意味です?嫌味ですか?」
「いや、退屈だと言いながら、もう半分読み終えているじゃないか。」
指摘されて、私は頬を膨らませた。ルシアンはそれを見て小さく笑う。ベンチの脇では、風が赤い薔薇を揺らしている。
午後の光が木漏れ日となって二人の間に落ち、ページをめくる音と、遠くで鳴く小鳥の声だけが庭を満たしていた。指輪の贈り物、雨の日に黙って肩へ掛けられた上着、夜会の帰りに交わした短い言葉――そうしたものが、季節の移ろいと一緒に、静かに積もっていった。
――
「フォンテーヌ卿は、我が家に何度も足を運んでくれているそうだね。」
庭で開かれた身内だけの集まりの夜、父がグラスを片手に、離れたところからルシアンを一瞥した。
「エレオノールを大切にしてくれているようで、私も安心している。」
「……お父様がそう仰るなら、そうなのでしょう。」
恥ずかしさを隠すように私は言葉を返した。
それ以上、父は何も言わなかった。グラスの中の酒を静かに揺らしながら、しばらくルシアンの立ち姿を眺めていた。庭の灯りが、父の横顔に濃い陰影を落としていた。楽団の演奏はいつの間にか静かな曲へと移り、庭木の影が長く伸びていた。
――
夜会の後、庭の隅でルシアンと二人きりになった。灯りの届かない場所で、彼はふと足を止めた。
「エレオノール。」
「はい?」
「――いや、何でもない。少し夜風にあたりたくなっただけだ。」
「それなら、もう少しここにいて酔いを覚ましましょうか。戻されても困りますし。」
二人はしばらく黙って、夜空を見上げていた。雲の切れ間から星がいくつも覗き、遠く、国境の方角に小さな灯りがいくつも瞬いている。
「あの灯りは?」
「街道の見張り塔だろう。フォンテーヌ家の兵が詰めているはずだ。」
「あなたのお家が、この土地を守ってくれているんですね。なんと頼もしい。」
「……そうだといいんだが。」
夜風が、二人の間をゆっくりと通り抜けていった。遠くで梟の鳴く声がしたのち、静寂が戻ってきた。
――
初夏のある日、ルシアンに誘われて城下の市を訪れた。公爵令嬢が供も連れずに出歩くことは滅多になく、それだけで胸が高鳴った。石畳の道には人々の話し声と、焼きたてのパンの匂い、家畜の鳴き声が入り混じっていた。
露店には、東の山向こうから運ばれてきたという珍しい織物や香辛料が並んでいた。商人の一人が、訛りのある言葉で声をかけてくる。
「お嬢さん、これはサヴォイア渡りの上等な品でございますよ。」
「サヴォイア……。あの荒々しい隣国の?」
地図の上でしか知らない、山を隔てた向こうの国の名前が、色とりどりの布地の間からふわりと立ち上ってきた。異国の染料の匂いが、少しだけ鼻をくすぐった。
「隣国とはいえ、なかなか行き来のある土地ではないんですね。それに、あまり得意ではない香り。」
「そうだな、私も少し香りは……。サヴォイア公国とは昔はもっと交流があったらしい。今は、色々と……まあ、政治的な事情があってね。」
ルシアンは笑ってそれ以上は語らず、隣の露店へと歩き出した。人混みの中、はぐれないようにと差し出された手を、私は自然に握っていた。
市を出て、二人で川沿いの道をゆっくりと歩く。ブルゴーニュの土地を流れるソーヌ川は、遥か南でさらに大きな流れと合わさっていくのだと、以前父から聞いたことがあった。水面には、夕暮れ前の柔らかな光が私たちを照らしていた。
「いつか、その川の向こうまで一緒に行ってみたいものだな。」
「本当に?私、約束は忘れませんよ。」
「ああ、もちろん。約束だ。」
夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしていく。遠くで教会の鐘が鳴り始め、その音が水音に溶けて消えていった。
――
誕生日、ルシアンから贈られたのは、小さな宝石細工の施された指輪だった。
「気に入ってもらえるといいんだが。」
「……とても、綺麗。吸い込まれそう。」
窓辺の光にかざすと、指輪に施されたアメジストの宝石細工が淡く輝いた。指輪から目を離せない私を、ルシアンはどこか安堵したような目で見守っていた。
「私、ずっと大切にします。」
「ああ。……ずっと。」
その「ずっと」という言葉の重みを、私はその時、深く考えることもなく、ただ温かく胸に受け止めていた。窓の外では、庭の木々が夕風にざわめき、遠くから微かに、鳥の帰る声が聞こえていた。
――
夏の暑さが程よく残る秋口、ルシアンは以前にも増して忙しくしているようだった。それでも二人で過ごす時間は変わらず持たれていて、庭のベンチや図書室での穏やかなひとときは、何一つ欠けることなく続いていた。
「もうすぐ、婚礼の日ですね。嬉しいです。」
「……ああ、そうだな。」
庭のベンチに並んで座り、遠くの空を眺めながら交わす会話は、いつもと変わらない調子だった。秋風が木々の葉を揺らし、時折吹く風が、木陰に涼を運んでくる。
「思ったより緊張してますか?」
「君は?」
「い、いえ、少しも。……でも、それ以上に、楽しみです。」
その言葉に、ルシアンは目を細めて微笑んだ。木漏れ日が二人の間で揺れ、ベンチの木肌に落ちる光の模様が、風に合わせて絶えず形を変えていた。
この先も、こうして季節が巡るたびに、隣に同じ人がいるのだと――そう信じて疑わない、穏やかな午後だった。
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