第六章 綻び
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。婚約者ルシアンから突然の婚約破棄を告げられ、隣国サヴォイア公国への輿入れを決意する。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
エレオノールの元婚約者。代々ブルゴーニュの国境警備を担うフォンテーヌ家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父、ブルゴーニュ公爵。
マリー
エレオノール付きの侍女。幼い頃からそばに仕えている。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。エレオノールに求婚し、隣国へと迎え入れる。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父、フォンテーヌ伯爵。
セシリア・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。
婚礼の日取りが正式に決まってから、屋敷の空気はどこか浮ついていた。仕立屋の出入りが増え、廊下には反物の匂いが漂い、侍女たちの声にも普段より張りがある。花嫁衣装の型紙が幾度も引き直され、そのたびに母の遺した宝飾箱が開けられては閉じられた。私はその只中で、変わらぬ日常を送っているつもりだった。
けれど、変わったことが一つだけあった。
ルシアンが、以前より来なくなったのだ。
いや、正確には来ないわけではない。三日に一度は来ていたのが、週に一度になった程度である。庭のベンチに座り、他愛のない話をし、帰り際には以前と同じように手の甲へ口づけて去っていく。傍から見れば、何一つ変わらぬ婚約者同士の姿だっただろう。
だが、その頻度は明らかに減っていた。使者だけが先触れとして訪れ、「フォンテーヌ様は所用にて」という決まり文句を残していくことも増えた。
「フォンテーヌ卿は、近頃お忙しいのですね。」
侍女の一人が、悪気もなくそう漏らしたことがあった。私は針を持つ手を止めぬまま、「そのようね」とだけ答えた。刺繍の糸が、思ったより強く指に食い込んだ。針先が布を突き抜け、指先にわずかな痛みが走ったが、それを気に留めるふりさえしなかった。
――
ある日の午後、ルシアンが久しぶりに屋敷を訪れた。庭の東屋で向かい合い、いつものように珈琲が運ばれてくる。湯気が二人の間でゆっくりと立ち上り、風に流されて消えていった。焙煎豆の香ばしい匂いが、冷えた秋の空気の中にふわりと広がる。
「最近、フランシュ・コンテの方で何かあったのですか。」
「……ああ、少し。国境沿いの検問が厳しくなっていてね。父の代理で、あちこち顔を出さなければならない。」
「大変ですね。」
「君に心配をかけるようなことじゃない。」
その言葉に、私は微笑んで頷いた。だが、カップを口元へ運ぶルシアンの視線が、一瞬だけ庭の向こう――屋敷の門の方角へ流れたのを、見逃さなかった。まるで、誰かが来るのを待つような、あるいは誰かが来ないことを確かめるような、そんな短い視線だった。
「あちらに何かあるのですか?」
「いや。……何でもない。」
風が庭木を揺らし、東屋の屋根から乾いた葉が一枚、テーブルの上に落ちてきた。ルシアンはそれを指先で払い、何事もなかったように話題を変えた。
婚礼の招待客の話、教会の司祭の話、来年新調する馬車の色の話――他愛のない言葉が並べられ、会話は途切れることなく続いた。だが、その日の珈琲は、いつもよりわずかに冷めるのが早かった気がした。
東屋を出る間際、ルシアンの上着の袖口に、見慣れない香りが移っているのに気づいた。花のような、それでいて甘さを抑えたような、屋敷では嗅いだことのない匂いだった。指摘しようとして、しかし言葉にならず、私はただ小さく袖に触れただけで手を引っ込めた。
――
秋の終わり、私は父の使いで、隣町の教会へ寄進の手続きに出向くことになった。侍女を二人だけ連れた、目立たない外出だった。騒々しい馬車の中で、寄進帳に記す文言をぶつぶつと確認しながら、窓の外を流れる収穫後の畑を眺めていた。刈り取られた麦の株が、整然と並んだまま冬を待っている。
用事を済ませた帰り道、馬車の窓から見えた宿場町の通りに、見覚えのある背中があった。
ルシアンだった。
「あら、フォンテーヌ様では。」
侍女のマリーが声を弾ませたが、嫌な予感がした私はとっさに、その言葉に応えなかった。馬車を停めるよう御者に言いかけて、しかし口をつぐんだ。理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、あの場所に――辻馬車と荷馬車ばかりが行き交う、貴族の子息が用もなく立ち寄るはずのない裏通りの宿屋の前に、ルシアンが立っていたことに、妙な違和感を覚えたのだ。
宿屋は決して立派な建物ではなかった。看板の文字は色褪せ、軒先に吊るされたランタンも煤で曇っている。貴族の子息が馬を繋ぐような場所ではなく、行商人や旅の商人が一夜の宿を求めて出入りする、そういう類の建物だった。
宿屋の扉が開き、中から一人の女が出てきた。年の頃は二十歳前後だろうか、簡素な木綿の服を着た、街の宿屋で働く女らしい身なりだった。女はルシアンに向かって何か言葉をかけ、ルシアンはそれに短く頷いている。
女がルシアンの上着の襟元に軽く手を伸ばし、乱れた布地を直すような仕草をした。ほんの一瞬のことだったが、その手つきには迷いがなかった。何度も繰り返してきた動作だけが持つ、自然な滑らかさがあった。
馬車はすでに通りを過ぎていた。窓の外の光景は、あっという間に後ろへ流れて消えていった。
「お嬢様、フォンテーヌ様にお声掛けしなくてよろしかったのですか。」
「……馬車を停めるようなことでもないでしょ。それに、お忙しそうだったし。」
馬車の中は暖かかったはずなのに、私は膝の上で重ねた両手が、いやに冷たく感じられた。窓の外を流れる景色を眺めながら、先ほどの光景を何度も頭の中で反芻する。何でもないことかもしれない。宿の女と客の会話、ただそれだけのことかもしれない。そう自分に言い聞かせるほどに、心のどこかで、それを信じきれない自分がいた。
隣に座るマリーはすでに窓の外へ視線を戻し、何事もなかったように景色の話をし始めている。その呑気な声が、やけに遠くから聞こえるようだった。
――
屋敷に戻ってからも、その光景は頭を離れなかった。
夕食の席で、父はいつも通り書類に目を通しながら食事をしていた。給仕が皿を下げる音、燭台の蝋が静かに燃える音、それだけが食堂を満たしている。私は何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。何を尋ねればいいのか、自分でも分からなかったからだ。「フォンテーヌ卿が宿屋の女性と親しげにしていました」――そう告げたところで、それが何だというのか。婚約者とはいえ、私の知らない付き合いがあっても不思議ではない。友人がいて、知人がいて、それだけのことかもしれない。
「エレオノール。食が進んでいないようだが。」
父の声に、はっと我に返った。
「……いえ、少し考え事をしていただけです。婚礼の支度のことで。」
「そうか。分からないことがあれば、いつでも侍女長に聞くといい。」
「はい、お父様。」
それだけの会話で、父は再び書類へ視線を戻した。私は目の前の皿に手をつけたが、味はほとんど感じられなかった。
夜になり自室の窓辺に立った時、視線は自然と、遠く街道の方角へ向いていた。国境の見張り塔の灯りが、いつものように小さく瞬いている。あの灯りの下で、彼は今日何をしていたのだろう。誕生日に贈られた指輪を、無意識のうちに指先でなぞっていた。アメジストの輝きは、燭台の光の中で変わらず美しかったが、それを見つめる自分の胸の内は、以前とは違う色をしていた。
答えの出ない問いを抱えたまま、その夜はなかなか寝つけなかった。何度か寝返りを打つうちに、遠くで犬の遠吠えが聞こえ、それもやがて静寂に飲まれていった。
――
数日後、ルシアンが屋敷を訪れた。庭のベンチに並んで座り、以前と変わらぬ調子で言葉を交わす。だが、その横顔をこれまでとは違う目で見ている自分に気づいていた。整った横顔、穏やかな声、変わらぬ仕草――そのどれもが、以前と寸分違わぬはずなのに、以前と同じようには映らなかった。
「先日、隣町へ寄進の用事で出かけたのです。」
「そうか。教会の方は変わりないか。」
「ええ。……その帰りに、宿場町を通りました。」
わずかな沈黙があった。本当にわずかな、瞬きの間ほどの間だったが、エレオノールはそれを見逃さなかった。ルシアンの指先が、膝の上で軽く握られたのを。
「賑わっていたか。あの辺りは、行商人がよく立ち寄る場所だから。」
「……そうですね。人が多くて息苦しかったです。」
それ以上、何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいのかもしれない。ルシアンは何事もなかったように話を続け、庭の花壇の手入れの話や、来月の親戚の集まりの話へと、会話は流れていった。だが、その滑らかさが、かえって胸に小さな棘を残した。
まるで、あらかじめ用意されていた答えを、淀みなく並べられているような――そんな感触だった。
庭のベンチの脇では、冬の訪れを前にした最後の紅葉が、風に吹かれて一枚、また一枚と舞い落ちていた。彼がくれた温もりは、今も確かにここにあるはずなのに、なぜか手のひらからこぼれ落ちていくような感覚だけが残った。
――
その日の別れ際、門まで見送りに出た私に、ルシアンはいつものように手を取り、指先に軽く口づけた。
「また来る。」
「……信じてます。」
馬に乗り、遠ざかっていく背中を見送りながら、ふと初夏の川沿いで交わした約束を思い出していた。「いつか、その川の向こうまで一緒に行ってみたいものだな」あの時の声と、今しがた告げられた「また来る」という声が、頭の中でうまく重ならなかった。
同じ人の、同じ声のはずなのに。
冬の気配を含んだ風が、門の脇に植えられた木々の枝を鳴らした。私はしばらくその場に立ち尽くし、遠ざかる馬蹄の音が完全に聞こえなくなるまで、視線を街道の先から外さなかった。
やがて踵を返し、屋敷の中へ戻った。
廊下には、いつもと変わらぬ肖像画の列が続いていた。歴代の当主たちの静かな眼差しが、今夜だけは目を逸らしてくれないように感じた。
自室に戻り、鏡台の前に腰を下ろす。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらぬ穏やかな表情をしていた。侍女に手伝われながら髪を解かれる間、窓の外では、一雫、音もなく庭石の上に落ちるのが見えた。
その夜、私は日記帳を開き、ペンを取った。だが、何を記せばいいのか分からず、白紙のページを見つめたまま、しばらく手を止めていた。結局その日は、何も書かないまま帳面を閉じた。次に開く時には、この余白に何かを書き記すことになるのだろうか――そんな予感だけが、静かに胸の奥に沈んでいった。
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