第四章 贈られた花
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。婚約者ルシアンから突然の婚約破棄を告げられ、隣国サヴォイア公国への輿入れを決意する。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
エレオノールの元婚約者。代々ブルゴーニュの国境警備を担うフォンテーヌ家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父、ブルゴーニュ公爵。
マリー
エレオノール付きの侍女。幼い頃からそばに仕えている。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。エレオノールに求婚し、隣国へと迎え入れる。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父、フォンテーヌ伯爵。
セシリア・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。
サヴォイア公世子殿下との婚約が正式に公表されると、社交界の空気は目に見えて変わった。
「エレオノール様、この度はおめでとうございます。まさか、隣国の公世子殿下に見初められるとは……!」
顔を合わせる令嬢たちは、こぞって祝いの言葉を口にした。以前は遠巻きにこちらを窺うばかりだった者たちが、今では扇の陰から羨ましそうな視線を投げかけてくる。私は努めて上品な微笑みだけを返し続けた。
「殿下は、大層お優しい方だと伺っております。羨ましい限りです。」
「エレオノール様には、やはり相応しい方が現れるべくして現れたのですね。」
かつて憐みの視線を向けてきた同じ口から、今度は羨望の言葉が紡がれる。人の噂とは、これほどまでに軽やかに姿を変えるものなのかと、私は内心で小さく苦笑した。だが、その変化を責める気にもなれなかった。むしろ、こうした周囲の反応の移ろいを、どこか他人事のように、冷静に眺めている自分がいた。
――
婚約披露を兼ねた夜会が、父の主催で屋敷の大広間にて開かれることになった。招待客の名簿には、フォンテーヌ家の名も当然のように連なっていた。婚約破棄の当事者であっても、両家の関係が完全に絶たれたわけではない――少なくとも、表向きはそういうことになっている。
「フォンテーヌ卿がいらっしゃると聞いて、驚かれましたか。」
支度を手伝いながら、マリーが探るように尋ねてきた。
「……いいえ、驚いてはいないわ。ただの社交上の付き合いよ。マリーこそ驚いているんじゃない?」
「はい、まさかいらっしゃるとは思いませんでした。」
マリーの返答を聞きながら、鏡の中の自分を見つめる。赤色のダリアをあしらったドレスに身を包んだその姿は、婚約破棄されたばかりの頃の、あの色を失った顔とはもう違っていた。頬にはほんのりと血色が戻り、瞳にも以前のような生気が宿っている。
「お嬢様、本当にお美しくなられました。」
「マリーったら、もっと褒めなさい。なんてね。」
「ふふっ。あの頃のお嬢様を思うと、今夜のお姿を見られて、私も嬉しく思います。」
その言葉に、私は思わず目を細めた。この数か月、誰よりも近くで自分の変化を見守ってくれていたのは、他でもないマリーだった。彼女の言葉には、世辞では片付けられない、確かな温かさがあった。
ハナズオウをあしらった髪飾りを最後に整えてもらい、私は鏡の前で一つ、深く息を吸った。今夜、あの人と顔を合わせることになったとしても、もう心が乱されることはない――そう自分に言い聞かせながら、私は部屋を後にした。
――
大広間は、シャンデリアの光と、着飾った招待客たちの談笑で満ちていた。私が姿を現すと、その場の視線が一斉に集まるのを感じた。以前のように、憐みを含んだ視線ではない。むしろ、誰もがこちらの一挙一動を見逃すまいとするような、そんな熱を帯びた視線だった。
「エレオノール嬢、此度はおめでとうございます。サヴォイアの公世子殿下とは、さぞ素晴らしいご縁で。」
次々と挨拶を受けながら、私は一人一人に丁寧に礼を返していった。かつては、こうした社交の場に立つことすら億劫に感じていた時期があったというのに、今の自分は、驚くほど落ち着いてその場に立っていられた。
挨拶の合間、ふと見覚えのある顔が目に留まった。フォンテーヌ本家である公爵家の姪、セシリアだった。彼女とは、以前ルシアンを介して何度か言葉を交わしたことがある。
ルシアンのフォンテーヌ伯爵家は、公爵家から分かれた一族であり、東方の国境沿いを守っている。そのため、セシリアとは親戚ではあるものの、普段から顔を合わせるほど近しい間柄ではなかったが、私と気が合うのか、会えばよく他愛もない話をしていた。
「エレオノール様、お久しぶりです。……此度は、おめでとうございます。」
どこか気まずそうな表情で挨拶をするセシリアに、私は努めて穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、セシリア様。ブルゴーニュ家として、分家の方々には、色々とご迷惑をおかけしたのではと、案じておりました。」
「いいえ……。むしろ、こちらこそ、ルシアン兄様の件では、何と申し上げればよいか。」
セシリアはそこで一度言葉を切り、周囲を気にするように声を落とした。
「実を言うと、私ども本家の方でも、この一件を巡って、色々とやりにくくなっているのです。フォンテーヌ家全体の評判にも、少なからず影響が出ておりまして……。」
その言葉に、私は曖昧に頷くだけにとどめた。フォンテーヌ本家までもが、この一件で肩身の狭い思いをしているという話は初耳だった。分家の後継ぎ一人の行いが、これほどまでに一族全体に波及するものかと内心で驚きを覚えながらも、それを表情に出すことはしなかった。
セシリアと別れた後、給仕の合間に父が近づいてきた。
「フォンテーヌ家の様子はどうだ。」
「……セシリア様から少し伺いました。分家の評判が、あまり思わしくないようです。その件で、本家の方にも少なからず影響があるようです。」
「そうか。……まあ仕方ないが、貴族というものはそういうものだろう。お前が気に病む必要はない。」
父の声には、以前のような激しい怒りはもうなかった。ただ、淡々とした事実として、フォンテーヌ家の凋落を語るその口調に、私はかえって、時の流れの確かさを感じていた。あれほど大きな出来事だったはずのものが、今ではもう、こうして落ち着いた会話の中で語られるだけの、過去の一幕になりつつあった。
――
人混みの向こう側でルシアンの姿を見つけたのは、夜会が半ばを過ぎた頃だった。彼は壁際に控えめに立ち、こちらを窺うような視線を向けている。以前とは違い、その周りに人の輪はできていなかった。
噂というものは、婚約破棄の理由についても容赦なく広まっていたらしい。「フォンテーヌ卿は、心変わりで清らかな令嬢を捨てた」――そういう筋書きが、社交界の中で既にすっかり定着してしまっているようだった。彼を取り巻いていたはずの令嬢たちの姿も、今夜はどこにも見当たらなかった。
近くを通りかかった夫人が二人、小声で言葉を交わしているのが、偶然耳に入ってきた。
「フォンテーヌ卿も、お気の毒に。あれほどの家格でありながら、今では見向きもされないとは。」
「自業自得というものでしょう。エレオノール様のような素晴らしい方を、あんな形で手放すなんて。」
悪意のない、むしろ私への同情から出た言葉なのだろう。だが、その会話が図らずも耳に入ったことで、私は改めてこの社交界という場所の残酷さを思い知らされた気がした。持ち上げるのも、突き落とすのも、いずれも同じ口からいとも容易く発せられる。
しばらくして、ルシアンがこちらへ歩み寄ってきた。
「エレオノール。……此度は、おめでとう。」
「ありがとうございます、フォンテーヌ卿。」
あえて他人行儀な呼び方を選んだ。その一言だけで、ルシアンの表情がわずかに強張るのが分かった。
「……元気そうで、何よりだ。」
「ええ、殿下のおかげで。とても、大切にしていただいております。」
その言葉にルシアンは何かを言いかけて、結局それを飲み込んだ。しかし、彼の唇が震えているのが見て取れた。かつて誰よりも滑らかに言葉を紡いでいた口が、今はこんなにも言葉を探しあぐねている。その様子を眺めながら、私は自分でも意外なほど、心が凪いでいるのを感じていた。
「フォンテーヌ卿は、近頃はいかがお過ごしですか。」
あえて世間話のような口調で尋ねると、ルシアンは僅かに視線を伏せた。
「……相変わらずだ。国境沿いの検問の仕事に、追われている。」
「そうですか。お忙しいのは、良いことです。」
当たり障りのない返答をしながらも、その実、私はある噂を耳にしていた。フォンテーヌ家の跡取りとしての彼の評判がこの一件以来、貴族社会の中でひどく傷ついているという噂だった。以前であれば、彼と縁を結びたいと望む家は数え切れないほどあったはずだった。だが今では、「婚約者を裏切った男」という色眼鏡で見られているとの便りを聞いていた。
「……新しい縁談の話は、進んでいらっしゃるのですか。」
あえて尋ねると、ルシアンの表情が僅かに曇り、拳をわなわなと握りしめて答えた。
「……いや。今は、それどころではない。」
「そうですか。……お早めに、良いご縁が見つかると良いですね。」
社交辞令のような言葉を並べながらも、その裏にどんな感情が滲んでいたか、自分でもうまく言葉にできなかった。しかし、少なくともこの瞬間、彼の困惑した表情を目の当たりにして心が痛むことはなかった。
「……くっ、エレオノール。君はいつまで経っても変わらないな。」
ふいにルシアンがそう呟いた。責める色ではないむしろ、驚きに近い響きだった。
「そうでしょうか。私自身はあまり自覚がありませんが。」
「以前の君は、もっと……何と言えばいいか。危うげな笑い方をしていた。今の君は、その笑顔が自分の足で立っているように見える。」
思いがけない言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。かつて誰よりも近くで自分を見てきたはずの人が、今こうして口にする感想に、妙な感慨を覚えないと言えば嘘になる。だが、それを表に出すことはしなかった。
「……それは、殿下のおかげかもしれません。」
「……そうか。」
ルシアンはそれだけ答えると、静かに視線を伏せた。
「……君に、詫びなければならないことが、山ほどある。……そして本当は……行かないでほしいと思っている。」
「もう、済んだことです。それに私は今、とても幸せにしております。」
その一言に、ルシアンの喉が僅かに動くのが見えた。
「……そう、だな。私が、こんな選択をしたせいで……。」
彼の口から出た言葉には、後悔が滲んでいた。彼がどんな思いでこの夜会に立っているのか、あえて詮索するつもりはなかった。ただ、これから始まっていく私の未来を冷静に俯瞰している自分がいた。
――
その時、広間の入り口が僅かにざわめいた。振り返ると、サヴォイアの紋章を掲げた使者が、恭しく歩み入ってくるところだった。招待客たちの視線が一斉にそちらへ集まる。
「エレオノール嬢に、殿下より贈り物がございます。」
差し出された箱を開けるとそこには、見事な白薔薇の花束と、一通の手紙が収められていた。花束は真冬のこの季節には珍しく、遠路はるばる特別に取り寄せられたものだと、使者が付け加えた。手紙には、流麗な文字でこう記されていた。
『貴女の婚約披露の夜会に立ち会えぬことを、心よりお詫び申し上げる。せめてこの花束が、貴女の傍らを彩ってくれることを願って。――ヴィットーリオ』
広間に居合わせた招待客たちから、感嘆のどよめきが上がった。海を越えて届けられた贈り物という事実そのものが、殿下の想いの深さを物語っているようだった。父も、誇らしげにこちらを見つめている。
「なんと心の込もったお心遣いでしょう。エレオノール様は本当に幸せ者ですわね。」
近くにいた令嬢の一人が、感じ入ったようにそう漏らした。私は薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、静かに笑みをこぼした。
視界の端で、ルシアンが目を伏せるのが見えた。それ以上彼は何も言わなかった。ただ、一礼を残して、人混みの中へと静かに姿を消していった。その背中を見送りながら、私は不思議なほど穏やかな気持ちで、この瞬間を胸に刻んでいた。
――
夜会がお開きになった後、自室に戻った私は、贈られた白薔薇を花瓶に生けた。燭台の光に照らされたその花びらは、透き通るように机を彩っていた。
「お嬢様、今夜は本当に、輝いておいででした。」
髪を解きながら、マリーがそう声をかけてくれた。
「ありがとう、マリー。……今夜は、不思議な気分だったわ。」
「不思議、とは?」
「まるで、私という別の人間が出てきたような…。」
その言葉に、マリーは何も言わず、ただ静かに頷いた。
「お嬢様は、フォンテーヌ様のことを、まだ気にかけていらっしゃいますか。」
思いがけない問いに、私は少し考え込んだ。
「……分からないわ。憎んでいるわけではないの。ただ、あの人の境遇を思っても、以前ほど私の心を動かさなくなった、それだけ。」
「それは、お嬢様が前へ進まれた証なのだと思います。」
マリーの言葉に、私は小さく頷いた。
鏡台の前に座り、贈られた花を見つめながら、私は今日という日を静かに振り返っていた。あの人が抱えることになった惨めさを目の当たりにしても、心が乱れることはなかった。
机の引き出しから、あの指輪をそっと取り出してみる。アメジストは、夜明けを待ちわびるかのように輝いていた。もう痛みだけを伴う品ではなく、私を彩る季節の一つの証として、静かに眺められるようになっている自分に気づいた。指輪をそっと箱に戻し、代わりに白薔薇の一輪を、日記帳の間に挟んだ。
ペンを取り、今夜の出来事を丁寧に綴っていく。ルシアンの変わりよう、セシリアから聞いた話、そして遠い異国から届けられた花束のこと――どの出来事も、これまでの自分であれば、もっと激しく心を揺さぶられていたはずだった。だが今夜は、そのすべてを、不思議なほど静かな、しかし晴れやかな気持ちで受け止めることができた。
窓の外では、冬の澄んだ夜空に、いくつもの星が瞬いていた。国境の見張り塔の灯りも、今夜は心なしか、いつもより穏やかに見える。これから始まる新しい人生の中で、私はもう未来を見据えているのだと、初めて心の底から思えた夜だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
物語はまだ序盤ですが、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
この作品では、登場する花や宝石にもすこーしだけ意味を込めています。気になった方は、調べてみると面白いかもしれません……?
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