第三章 初めての邂逅
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。婚約者ルシアンから突然の婚約破棄を告げられ、隣国サヴォイア公国への輿入れを決意する。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
エレオノールの元婚約者。代々ブルゴーニュの国境警備を担うフォンテーヌ家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父、ブルゴーニュ公爵。
マリー
エレオノール付きの侍女。幼い頃からそばに仕えている。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。エレオノールに求婚し、隣国へと迎え入れる。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父、フォンテーヌ伯爵。
セシリア・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。
サヴォイア公世子殿下の来訪を控え、屋敷は久方ぶりに慌ただしさを取り戻していた。だが、それは以前の婚礼準備の時とは、どこか違う種類の慌ただしさだった。使用人たちの声には張りがあったが、私自身の胸の内は、期待よりも緊張の方がずっと大きかった。
「お嬢様、殿下は明日の午後、こちらにお着きになるそうです。」
「……そう。分かったわ。漏れのないようにね。」
侍女のマリーがそう告げた時、私は思わず鏡台の前で手を止めた。肖像画を思い出す。荒々しい隣国の王太子とは思えないほどの物憂げな瞳の青年だった。その方が明日にはこの屋敷に本当にやって来る。そう思うと、これまで感じたことのない種類の落ち着かなさが、胸の奥に広がった。
その夜は、なかなか寝付けなかった。何を話せばいいのか、どんな顔で迎えればいいのか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくばかりだった。婚約破棄からまだ半年も経っていないというのに、新たな婚約者を迎える立場になっている自分を、どこか他人事のように感じている瞬間もあった。
枕元の燭台を見つめながら、私はふと、ルシアンとの初めての夜会を思い出していた。あの時もこうして眠れぬ夜を過ごしていた。だが、あの頃の落ち着かなさと、今この胸にある落ち着かなさとは明らかに種類が違っていた。あの頃は、まだ見ぬ相手への漠然とした期待だけがあった。今は、期待の中に、拭いきれない不安が入り混じっている。
結局、うとうとと浅い眠りに落ちたのは、夜明けが近づいてからのことだった。
朝、身支度を整える間もマリーは何度も励ますように声をかけてくれた。
「お嬢様なら、きっと大丈夫です。殿下も、きっとお嬢様の良さに気づいてくださいます。」
「……ありがとう、マリー。お世辞でも嬉しいわ。」
その言葉に背中を押されるようにして、私は鏡の中の自分に、精一杯の笑みを作ってみせた。侍女たちの手によって髪が結い上げられ、淡い青色のドレスに袖を通す。鏡の中の自分は、思っていたよりも落ち着いた表情をしていたが、それが本心からのものなのか、単なる作り物なのか、自分でもよく分からなかった。
――
玄関の前に整列した使用人たちの後ろで、私は父と共に馬車の到着を待っていた。冬の冷たい風が頬を撫でる中、遠くから馬車の車輪の音が近づいてくる。父は隣で、珍しく落ち着かない様子で何度も襟元を正していた。
「お父様も、緊張しておいでですか?珍しい。」
「……当然だろう。一国の公世子殿下をお迎えするのだ。それにあの一件もある…」
その言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。娘の縁談に関わることで、これほど動揺する父の姿を見るのは、久しぶりのことだった。その様子が、張り詰めていた自分の心を、少しだけ和らげてくれた。
やがて、サヴォイア公国の紋章の入った馬車が屋敷の前に停まり、扉が開いた。
降り立った青年は、肖像画で見た通りの柔らかな金髪をしていた。だが、彼の瞳の奥は、絵の中の穏やかさよりも、どこか生き生きとした印象を纏っていた。歩みを進めながら、こちらへ向ける眼差しには、隠しきれない好奇心のようなものが浮かんでいる。
「初めまして、エレオノール嬢。ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイアと申します。」
差し出された手に私は戸惑いながらも、自分の手を重ねた。彼の手は、思っていたよりも温かかった。
「エレオノール・ド・ブルゴーニュでございます。殿下にお目にかかれて光栄です。」
定型通りの挨拶を交わしながらも、私は自分の声が、思いのほか震えていないことに、少しだけ安堵していた。
ヴィットーリオ殿下は、私の顔をしばらく見つめた後、ふと目元を和らげた。
「……肖像画よりも、ずっと生き生きとしたお顔をされている。安心しました。」
その一言に、私は思わず戸惑った。肖像画の自分は、絵師の手によって、いくらか作り物めいた微笑みを湛えていたはずだった。それを見抜かれていたことに、少し気恥ずかしさを覚えながらも、同時に、この人は物事の表面だけを見る人ではないのかもしれない、という予感が芽生えた。
「お恥ずかしながら、あの絵は少々、良く描かれすぎているかと。」
「いや、今の方が、よほど魅力的です。」
率直な言葉に、周囲の使用人たちからも、控えめな笑い声が漏れた。張り詰めていた玄関先の空気が、その一言で、少しだけ和らいだのを感じた。
――
その日の晩餐は、父の主導で和やかに進められた。ヴィットーリオ殿下は、想像していたよりもずっと気さくな人柄で、食事の合間には、サヴォイアの山岳地帯の景色や、幼い頃に飼っていた犬の話など、他愛のない話題を次々と口にした。
「エレオノール嬢は、乗馬はなさりますか?」
「たしなむ程度ですが……。」
「それは良かった。あちらの領地には、素晴らしい乗馬道があるのです。いつか、共に駆けてみたいものですね。」
その屈託のない笑顔に、私は思わず頬が緩むのを感じた。誰かと言葉を交わすことに、これほど自然な心地よさを覚えたのは、いつ以来だろうか。
父も、殿下の気さくな人柄には、すっかり警戒を解いた様子だった。
「殿下は、思っていたよりもずっと率直な方でいらっしゃる。」
「畏れながら、外交の場では失言も多くあまり歓迎されない性分でして。この性格はなかなか治せるものではありませんね。」
「いや、それが良いのです。娘には、飾らぬ言葉の方が伝わる。」
父のその言葉に、私は少し驚いた。フォンテーヌ家との縁談の折には、これほど打ち解けた様子を見せたことはなかったように思う。晩餐の席は終始和やかな空気に包まれ、久しぶりに、屋敷の中に笑い声が響いていた。
晩餐の後、庭を案内することになった。夜の庭園は冷え込んでいたが、ヴィットーリオ殿下は寒さを厭う様子もなく、興味深そうに枯れた薔薇の枝を眺めていた。
「夏には、さぞ美しく咲くのでしょうね。」
「ええ。……いつか、その頃にまたお越しいただければ。」
「楽しみにしています。」
その言葉に、他意のない純粋な期待が込められているのが伝わってきて、私は静かに胸を温められる思いがした。
――
滞在の三日間、ヴィットーリオ殿下は毎日のように、私に会いに来た。図書室で共に本を読んだり、庭を散策したり、時には他愛のない冗談を交わしたりと、その時間はどれも穏やかで、飾らないものだった。
「エレオノール嬢は、あまり自分のことを語られませんね。」
ある日の午後、図書室でそう指摘され、私は思わず手にしていた本を閉じた。
「……何を、お話しすればいいのか、分からなくて。」
「それなら、何でもいい。好きな花でも、苦手な食べ物でも。関心があるものなら何でも。」
その言葉に促されるまま、私はぽつぽつと、自分のことを話し始めた。幼い頃に好きだった庭の薔薇のこと、刺繍は好きだが得意ではないこと、雨の日の匂いが好きなこと――取り留めのない話ばかりだったが、殿下は一つ一つに真剣に耳を傾けてくれた。
「刺繍が苦手とは、意外です。淑女の嗜みとして、皆が得意とするものと思っていました。」
「お恥ずかしい話ですが、針を持つと、決まって指を刺してしまうのです。」
「それは、なかなか難儀なことですね。……しかし、正直に打ち明けてくださること自体が、私には嬉しいのです。取り繕われた言葉より、よほど信頼できる。」
その言葉に、私は少し驚いた。これまで社交の場で交わしてきた会話は、たいてい相手を持ち上げるための美辞麗句か、当たり障りのない世間話ばかりだった。欠点をそのまま口にして、それを喜ばれるという経験は、初めてのことだった。
「私と同じく、意外と、話し出すと止まらない方なのですね。」
「……失礼しました、つい。」
「いや、嬉しいのです。おしゃべり同士だと分かったら、もっとあなたのことを知りたいと思いました。」
その率直な言葉に、私は思わず目を伏せた。頬が熱くなるのを感じながら、自分の胸が高鳴る鼓動を感じていた。
「殿下は、いかがですか。おしゃべりという割に、ご自身のことをあまりお話しになりませんが。」
「私ですか……そうですね。故郷の雄大な山々を眺めるのが好きです。それから、意外に思われるかもしれませんが、静かに本を読む時間も。忙しい公務の合間には、なかなか得難い時間ですが。」
「やはりお忙しい中、私の所に来てくださったのですね。嬉しいです。そうですね……
私は殿下とは逆で、高い山から下を見下ろすのが好きです。ですが、静かな時間は殿下と同じく好きです。」
「では、これから先も、時折こうして、共に静かな時間を過ごせたら嬉しいのですが。」
その言葉に、私は素直に頷いた。窓から差し込む午後の光が、図書室の埃をきらきらと照らしている。誰かとこうして言葉を交わす時間が、こんなにも心地よいものだったのかと、改めて思い知らされる午後だった。
――
滞在最終日の夜、庭園の東屋で二人きりになった。冬の澄んだ夜空には、いつもより多くの星が瞬いているように見えた。
「明日には、一度サヴォイアへ戻らねばなりません。ですが、婚約の準備が整い次第、必ずまた迎えに参ります。」
「お待ちしております。」
「エレオノール嬢。……一つ、伺ってもよろしいか。」
「何でしょう。」
「この縁談は、あなたにとって、心からの望みでしたか。それとも、致し方なく受け入れられたものですか。」
思いがけない問いに、私はしばらく言葉に詰まった。正直に言えば、初めは後者に近い気持ちで、この縁談を受け入れたはずだった。だが、この三日間を経て、その気持ちには確かな変化が生まれていた。
「……最初は、もちろん迷いがありました。婚約破棄された私が受けていいものなのか。こんな私で殿下と釣り合うのだろうかと。しかし今は、殿下とお話しできる時間を、心待ちにしている自分がおります。」
その言葉に、ヴィットーリオ殿下は目を細め、柔らかく微笑んだ。
「それを聞いて、安心しました。……あなたには少しでも早く、笑顔でいてほしいのです。」
星明かりの下、その言葉は木々に静かに木霊した。婚約破棄によって生まれた寂しさが、そう簡単に癒える訳ではない。それでも、殿下の優しさが確かに私の中に響いた瞬間だった。
「エレオノール嬢は、これから先の暮らしに、何か不安はありますか。」
「……正直に申し上げれば、あります。見知らぬ土地で、見知らぬ言葉に囲まれて暮らすことに、不安がないと言えば嘘になります。」
「それは、当然のことでしょう。……ですが、あなたが安心して暮らせるよう、私も力を尽くすと約束します。何か困ったことがあれば、遠慮なく私に言ってください。」
その言葉に嘘偽りは感じられなかった。少なくとも、この東屋で交わされた約束は、これまでのどんな社交辞令よりも、まっすぐに私の心へ届いた。
「ありがとうございます、殿下。」
「ヴィットーリオと、呼んでいただけると嬉しいのですが。」
「……では、ヴィットーリオ様。」
その呼びかけに、殿下は柔らかく目を細めた。冬の夜風が二人の間を通り抜けていったが、東屋の中には、不思議な温かさが満ちているように感じられた。
――
翌朝、殿下を見送るために玄関へ出た。馬車に乗り込む直前、ヴィットーリオ殿下は振り返り、もう一度だけ私の手を取った。
「必ず、また会いに来ます。」
「はい。……お気をつけて。」
馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、私は不思議と、寂しさよりも穏やかな気持ちの方が勝っているのを感じていた。冬の朝日が、掘り返されたままだった花壇にも、久しぶりに柔らかな光を落としている。
「お嬢様、少し顔色がよろしいようで。」
マリーが微笑みながらそう声をかけてくれた。私は小さく頷き、屋敷の中へと足を向けた。廊下に並ぶ肖像画の列も、今日はなぜか、以前ほど重苦しく感じられなかった。
自室に戻り、鏡台の前に座る。鏡に映る自分の顔には、この数日で確かに、以前とは違う色が戻ってきているように見えた。ふと、引き出しの中に仕舞い込んだままの指輪のことが頭をよぎった。あの約束は今は違う意味を持っている。そのアメジストの輝きは、朝日を含んだ温もりのように感じた。
日記帳を開き、この三日間の出来事を丁寧に綴った。ペンを走らせながら、これから始まる新しい日々への期待と、張り詰めた緊張とが、胸の中で入り混じっているのを感じていた。
窓の外では、冬の陽射しが、屋敷の庭を静かに照らしていた。これから始まる物語に、私はまだ完全な確信を持てていたわけではない。それでも、久しぶりに、明日を迎えることが怖くないと思えた朝だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
物語はまだ序盤ですが、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
この作品では、登場する花や宝石にもすこーしだけ意味を込めています。気になった方は、調べてみると面白いかもしれません……?
感想や応援、とても励みになります。よろしければ気軽にコメントいただけると嬉しいです!
この先の展開も、楽しみにしていただけますように。
引き続き、よろしくお願いいたします!




