第十五章 約束の果てに
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ伯爵家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父。
セシリア・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
馬車が国境を越えた頃には、日はすっかり傾いていた。膝の上で組んだ両手を、私はしばらくの間、意味もなくきつく握り直していた。指輪の代わりに嵌めていた何の変哲もない指輪を、右手の親指でなぞる癖が、いつの間にか身についていた。座席の上で幾度も座り直し、旅の埃で汚れた袖口を、私は指先で何度も払った。
「お嬢様、もうすぐ屋敷でございます。」
マリーの声に、私は小さく頷いた。頷くだけで、言葉は出てこなかった。窓枠に置いた指先が、微かに震えているのに、自分でもようやく気づいた。
マリーがその手に、そっと自分の手を重ねてくれた。何も言わず、ただ握るだけの仕草に、私は俯いたまま、小さく息を吐いた。指先の震えは、それでもすぐには収まらず、私はもう一方の手を重ねて、包み込むように押さえつけた。
屋敷が見えてくると、私は座席の背もたれから身を起こし、窓に額を寄せた。見慣れた煙突の形、庭木の連なり――一つ一つを目で追ううちに、胸の奥がじわりと熱くなっていくのを感じた。
屋敷の門をくぐると、父が一人で玄関先に立っていた。馬車が止まりきる前から、こちらへ歩み寄ってくる足取りが、いつもよりずっと速かった。
「……よく、戻った。」
それだけを言うと、父は私を強く抱き寄せた。厳格な公爵としての手つきではなく、ただの父親の手つきだった。私はその胸に額を押しつけ、しばらく動くことができなかった。
「無茶をさせた。すまなかったな。」
背中を撫でるその手の動きに、私は小さく首を振ることしかできなかった。指先で、父の上着の生地をきつく握りしめる。腕の中でひとしきり息を整えてから、ようやく身を離す。
父は私の顔を両手で挟むようにして、旅の跡がないかを確かめるように、じっと見つめた。頬を、額を、そして目元を、確かめるように指先でなぞる。それから、安堵したように目元を緩め、大きく息を吐き出すと、庭の方角へと視線を向けた。マリーが少し離れた場所で控えていたが、その目にもうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。
「疲れているだろうが……ルシアンが、庭で待っている。行ってやりなさい。」
その一言に、私は思わず父の顔を見返した。父は答える代わりに、静かに肩を押した。
背を押されるまま歩き出すと、途中、庭の片隅にある花壇が目に留まった。私は思わず足を止め、そこへ近づいた。掘り返されたまま長らく放置されていたはずのその土に、小さな緑がいくつも顔を覗かせている。膝を折り、指先でそっと土に触れると、湿った冷たさが伝わってきた。誰かが、ずっと世話を続けてくれていたのだと、その感触だけで分かった。私は立ち上がり、スカートについた土を軽く払い落としてから、再び庭の奥へと歩き出した。
――
庭へ続く小道を歩く足取りは、自分でも驚くほど速くなっていた。ドレスの裾を軽く持ち上げ、半ば駆けるようにして角を曲がると、見慣れたベンチに、一人の人影があった。歩幅を緩めることも忘れ、砂利を踏みしめる音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
振り返ったルシアンが、弾かれたように立ち上がる。その顔を見た瞬間、私は自分でも制御できないまま、彼のもとへ駆け寄っていた。持ち上げていたはずの裾を放してしまい、裾を踏みそうになりながらも、足を止めることができなかった。
「エレオノール……!」
差し伸べられた腕の中に、私はほとんど飛び込むようにして身を投げた。彼の上着を両手できつく握りしめ、顔を胸元に押しつける。抑えていたはずのものが、その瞬間に一気に決壊した。
声を殺すこともできず、私は肩を震わせて泣いた。彼の腕が、戸惑うように、それでも確かに私の背中を包み込む。厚手の上着越しに伝わってくる鼓動の速さが、彼もまた、平静ではいられなかったことを物語っていた。片手が私の後頭部に回され、まるで壊れ物を扱うように、そっと髪を撫でる。
「……エレオノール、無事で――」
「今更…そんな顔をしないでよ。…バカ。」
涙で掠れた声のまま、私は彼の胸元を軽く叩いた。強く睨みつけようとしたはずが、目元はもうぐしゃぐしゃで、まるで様にならなかった。手のひらで拭っても拭っても、次から次へと涙は溢れてくる。
「あなたのせいで、私がどれほど惨めな思いをしたか。夜会で憐みの目を向けられて、寝台で声を殺して泣いた夜が、何度あったか。」
叩く手に、力はほとんど込もっていなかった。ただ、触れていたかっただけなのかもしれない。拳を握ったり開いたりを繰り返しながら、私は彼の胸に額を押しつけ続けた。ルシアンは何も言わず、ただ私の背をゆっくりと撫で続けた。その掌の温もりに、私はますます涙が止まらなくなった。
「泣いているのか?」
「泣いてなんかいないわ。貴方こそ、目頭に何かあるんじゃない?」
鼻を啜りながらそう言い張ると、ルシアンは私の背中を撫でていた手を止め、そっと顔を覗き込んだ。目が合った瞬間、彼の口元が、堪えきれないというようにわずかに緩む。指先が、私の頬に伝う涙を、そっと拭った。
「泣いていないにしては、私の上着が、随分と濡れているようだが。」
指摘され、私は慌てて顔を上げ、彼の上着から距離を取ろうとした。だが、腰に回された腕はそれを許さず、かえって強く抱き寄せられる。
「離れなくていい。……このまま、少しだけ。」
その一言に、私は抵抗をやめ、再び彼の胸に額を預けた。冬の名残の冷たい空気の中、互いの体温だけが、確かな輪郭を持って伝わってくる。しばらくの間、私たちはただそうして、言葉もなく寄り添っていた。彼の心臓の音を耳元に聞きながら、私は目を閉じ、その鼓動の速さに、自分の呼吸をゆっくりと合わせていった。
ようやく涙が落ち着いた頃、私は身を離し、乱れた前髪を指先で整えた。頬に貼りついた髪を、ルシアンがそっと払ってくれる。その仕草に、私はまた小さく喉を詰まらせた。彼の袖口が、私の涙で色を変えているのに気づき、慌てて指先でそこを拭ったが、かえって余計にしわを寄せてしまい、結局二人で顔を見合わせて小さく笑った。
ルシアンは懐に手を入れ、小さな箱を取り出す。開けて差し出されたそこには、アメジストがあしらわれた首飾りが輝いていた。
「今度は、これを受け取ってもらえるだろうか。」
「……当然でしょう。」
私がそう答えると、ルシアンはゆっくりと確かめるようにそれを首に回した。胸元に彩られた紫色の石を、私はもう一方の手でそっと覆うように包み込んだ。
ルシアンは、宝石を抱いた私の手をとり、甲にそっと唇を寄せた。その仕草に、私はまた喉の奥が熱くなるのを感じた。私は、空いている方の手で、彼の頬にそっと触れる。指先に伝わる体温が、これが確かな現実なのだと、静かに教えてくれた。
――
婚礼は、その春に、静かに執り行われた。
礼拝堂の長い通路を、私は父の腕に手を添えて歩いた。祭壇の前に立つルシアンの姿が、進むごとに、少しずつ近づいてくる。父の腕にかけた手に、無意識に力がこもるのを感じた。裾を踏まないよう気をつけながら一歩一歩進む間、私は幾度も深呼吸を繰り返した。祭壇の手前で父が足を止め、私の手をルシアンの手へとそっと渡す。その一瞬、父の指先が、名残惜しそうに私の手を離れていくのが分かった。
誓いの言葉を交わす段になると、彼の手が私の手をしっかりと握った。握られた手の震えが、これまで歩んできた道の重さを物語っていた。
ヴェールが上げられ、視界が開けた瞬間、ルシアンの瞳が、僅かに潤んでいるのが見えた。彼は指輪を私の薬指へと通し、私を包み込むように優しい口づけを交わした。
「エレオノール様!」
式が終わると、セシリア様が真っ先に駆け寄ってきた。肩を震わせ、目には涙が浮かんでいた。けれど、彼女は多くを語ろうとはせず、ただ深く頷いてみせるだけだった。少し離れた場所では、ロベール様が何度もハンカチを目元に押し当てている。父は、そんな様子を眺めながら、これまで見たことのないほど、晴れやかに笑っていた。
――
婚礼から数か月後、私達は、ソーヌ川を南へ下り、リヨンを経て、カマルグへと足を運んだ。「いつか、その川の向こうまで一緒に行ってみたい。」あのときは、遠い未来の話だと思っていた。けれど今、目の前にはどこまでも続く水面と、その先に広がる地中海があった。
「約束を果たすまで、長かったな…。」
「そう?私は短く感じました。色々ありましたから。でも…楽しかったわ。」
私は思い返すように、青く澄み渡る地中海を見ていた。
――
カマルグから戻った数日後、サヴォイアから一通の手紙が届いた。庭のベンチで刺繍をしていた私のもとへ、使用人が盆に載せてそれを運んでくる。差出人の名を見た瞬間、懐かしさに気を取られ、手にしていた針を取り落とした。震える手で拾った針を布に刺し直すことも忘れ、私はしばらくその場に座り込んだまま、封書を見つめ続けた。
開いた便箋には、以前より幾分か乾いた筆致で、こう記されていた。
『エレオノールへ
私は公世子、そして一人の人間として、君を本当に愛していた。しかし、君は私のもとを去っていった。
私は今度、スペインの王女マリア・アントニアと結婚することとなった。公爵令嬢ではなく、王女。私にとっては、願ってもない相手だ。
私の愛を裏切ってくれたエレオノール。君も、どうか幸せになってくれ。
サヴォイアから甘い毒を込めて
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア』
私は便箋を胸元に押し当て、しばらく目を閉じていた。乗馬の朝の冷たい風、図書室の埃っぽい光、東屋で見上げた星空――それらが一つ、また一つと、瞼の裏に浮かんでは消えていく。押し当てた便箋越しに、自分の鼓動だけが、いやに大きく響いていた。
隣に座っていたルシアンが、そっと私の肩に手を置いた。私は手紙を握りしめたまま、彼の肩に頭を預けた。二人とも、しばらく何も言わなかった。ルシアンの手が、私の肩から二の腕へと、ゆっくり撫で下ろされる。その動きだけが、静かにそこにある時間を刻んでいた。
部屋に戻った私は日記帳を取り出し、かつて白薔薇の一輪を挟んだのと同じページの隣に、その手紙を差し込んだ。指先で表紙を撫でてから、私は静かに日記帳を引き出しへ戻した。窓の外に目をやると、赤い夕暮れがラナンキュラスのように輝いていた。
その光は、私の人生を映したかけがえの無い色彩だった。
終
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
少しでも楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
この作品では、登場する花や宝石にも意味を込めています。気になった方は、調べてみると面白いかもしれません。
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