第十四章 打算の始まり
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ伯爵家の嫡男。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
執務室の窓から見下ろす山々には、まだ雪が深く残っていた。サヴォイアという小国を背負う身にとって、平穏な日々というものがどれほど貴重であるか、私は幼い頃から嫌というほど教え込まれてきた。オーストリアとイギリス、双方と和平を保ちながら、この山あいの国を守り続けること。それが、いずれ公位を継ぐ者としての、私に課せられた務めだった。
その平穏に、初めて亀裂が入ったのは、フランス側から一通の密書が届いた日のことだった。
――
「殿下、フランス、ブルゴーニュ地方のフォンテーヌ伯爵家より、内密の使者が参っております。」
侍従の言葉に、私は僅かに眉をひそめた。フォンテーヌ伯爵家――ブルゴーニュ公爵家に仕える、国境守備の家柄だったはずだ。表立った国交のない一貴族の使者が、なぜこうも内密に、私に直接目通りを願うのか。
「通せ。ただし、宰相にも同席させよ。」
程なくして現れたのは、旅装のまま埃を落とす間もなく駆けつけたと思しき、初老の男だった。深々と一礼した後、彼は懐から一通の封書を取り出した。
「殿下に、火急の御用向きがございます。……オーストリアが、貴国との和平を反故にする動きを見せております。」
その一言に、部屋の空気が凍りついた。宰相の表情も、僅かに強張るのが見えた。
「詳しく話せ。」
「オーストリアは、アルプスを越える兵站と拠点を得るため、まずサヴォイア公国を手中に収めようと画策しております。」
「我が国を取ったあとは?」
「アルプスの道を確保した後、その先へ目を向ける可能性がございます。フランスだけではない。イギリスとの対立を見据えているとも。」
男が差し出した書状には、詳細な情報が記されていた。オーストリア国内の軍の動き、集められている物資の量、そして密かに交わされているという密約の断片。にわかには信じがたい話だったが、書状に記された数字の細かさが、これが単なる脅しではないことを物語っていた。
「……これほどの情報を、なぜフォンテーヌ伯爵家が。そして、なぜそれを、我が国に。」
「我が主は、ブルゴーニュの守り手として、長年国境の動きを見張っております。……ですが、この情報をお渡しするには、一つ、条件がございます。」
その言葉に、私は静かに息を吸った。ただの善意でないことは、初めから分かっていた。
「聞こう。」
「――ブルゴーニュ公爵家の御令嬢、エレオノール様を、殿下の妃として迎えていただきたい。それと合わせて、サヴォイアとブルゴーニュ、両国の和平をお約束いただきたく存じます。」
――
男が辞去した後、部屋には長い沈黙が満ちた。私は書状を机に置き、しばらくの間、指先でその端を撫で続けていた。
「殿下、如何なさいますか。」
沈黙を破ったのは、宰相だった。柔和な物腰と、老獪な目を持つこの男の意見は、これまで幾度となく私を助けてきた。
「率直に申し上げれば、私はこの縁談、お勧めできません。」
「理由は。」
「一つには、御令嬢はつい先頃、婚約破棄されたばかりと噂されるお方。その真意が測りかねます。……もう一つには、この情報自体が、我が国を縁談へと誘い込むための、作り話である可能性も捨てきれません。」
宰相の言葉には、一理あった。だが、私の中には、それ以上に見過ごせない懸念があった。
「作り話にしては、あまりに詳細が過ぎる。……それに、オーストリアの不穏な動きについては、我が国側でも、幾つかの兆候を耳にしていたはずだ。」
その一言に、宰相は僅かに目を伏せた。
「……仰る通りです。国境警備隊からも、類する報告が上がっております。」
「ならば、この情報を退ける余地は、我が国にはない。」
小国であるサヴォイアにとって、大国オーストリアの動きを事前に察知できるかどうかは、国の存亡そのものに関わる。私は、机の上の書状を、もう一度見つめた。
「……この縁談、受けよう。」
「殿下、しかし――」
「宰相。そなたの懸念はもっともだ。だからこそ、私自身の目で、確かめてくる。」
その言葉に、宰相はしばらく私を見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました。殿下の御判断に従います。」
その横顔に、僅かな翳りが差したように見えたのは、気のせいだったのだろうか。今にして思えば、あの時の宰相の表情の意味を、私はまだ知る由もなかった。
――
ブルゴーニュへ向かう道中、私は幾度となく自分に問いかけていた。この縁談の裏に、何が隠されているのか。ブルゴーニュ公爵家は、本当にオーストリアの脅威だけを理由に、娘を差し出そうとしているのか。それとも、婚約破棄という醜聞を、他国への輿入れによって覆い隠そうとしているだけなのか。
真意を測るには、当人と直に言葉を交わすほかない。そう思い定めて、私はブルゴーニュ公爵家の門をくぐった。
初めて対面したエレオノール嬢は、肖像画で見た通りの繊細な顔立ちをしていたが、その瞳には、こちらが想定していたような怯えや媚びの色は見えなかった。むしろ、僅かな緊張の奥に、静かな芯の強さを感じさせる眼差しだった。
滞在の三日間、私は努めて彼女との会話を重ねた。他愛のない話題を装いながら、その受け答えの端々に、何か企みめいたものが潜んでいないか、注意深く探っていた。だが、刺繍が苦手だと打ち明けた時の、少し気恥ずかしそうな笑み。庭の薔薇について語る時の、飾らない瞳の輝き。そのどれもが、私が警戒していたような計算とは、あまりにもかけ離れているように見えた。
東屋で交わした言葉も、今にして思えば、私自身の下心が滲んでいた。この縁談が彼女にとって心からの望みかと尋ねたのは、彼女の本心を探るためだったはずだ。だが、迷いを正直に打ち明けてくれた彼女の言葉に、私は自分でも意外なほど、安堵している自分に気づいていた。
――
帰国した後、私は彼女に、婚礼を待たずに一足先にサヴォイアへ来てほしいと申し出た。表向きは、両国の縁を早くに深めたいという理由をつけたが、本当のところは、もっと近くで彼女を見極めたいという思いがあった。宮殿という、私の目の届く場所であれば、彼女の本当の姿を、もっと確かに知ることができるはずだと。
我ながら、浅ましい計算だったと思う。だが、そうまでして確かめずにはいられないほど、この縁談には不自然な速さと、拭いきれない違和感がつきまとっていた。
宮殿での日々が始まってからも、私は当初、彼女の一挙一動に目を凝らし続けていた。誰と、どのような言葉を交わすのか。西棟に近づく素振りはないか。だが、日々が重なるにつれ、その観察の意味合いは、私自身の中で静かに変わっていった。
図書室で本を読む彼女の横顔に、いつしか見入るようになっていた。乗馬の朝、風に頬を染める彼女の笑顔に、政務の疲れが解けていくのを感じるようになっていた。監視のつもりで重ねていたはずの時間が、いつの間にか、私にとってかけがえのないものへと変わっていた。
――
「殿下は、いかがですか。おしゃべりという割に、ご自身のことをあまりお話しになりませんが。」
図書室でそう尋ねられた時、私は束の間、言葉に詰まった。故郷の山々の話も、静かな時間が好きだという話も、偽りではなかった。だが、彼女に向けていたはずの疑いの目のことだけは、口にすることができなかった。
もはや、私は彼女を、探るべき相手としてではなく、一人の人間として見つめていた。そのことに気づいた時、私は自分の中の打算がすっかり形を失っていることに、遅まきながら気づかされた。
与えられた条件のために迎えた妃候補。それが、いつしか、私自身が心から望む相手になっていた。この感情に名をつけるのは、もはや容易いことだった。だが、その芽生えた想いの裏に、まだ私の知らない真実がどれほど眠っているのか、この時の私には、知る由もなかった。
窓の外には、雪を頂いた山々が、変わらぬ静けさで連なっていた。あの日抱いた疑いが、いつか自分自身の胸を刺す刃になろうとは、私はまだ、微塵も想像していなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
次で物語は終わりを迎えます。あと少しですが、楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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