第十三章 挟撃の影
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ伯爵家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父。
マノン・デュラン
フォンテーヌ家の諜報員。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
エレオノールがサヴォイアへ発ってから、幾つの月が満ち欠けを繰り返しただろうか。
国境の見張り塔から見下ろす街道には、もう霜が降り始めていた。街道を行き交う商人の数も、季節と共に目に見えて減っていた。
それでも検問の仕事だけは、季節を問わず続いていく。荷を検め、通行証を照合し、時に不審な旅人を足止めする。単調な繰り返しの中にこそ見逃してはならない綻びが潜んでいることを、この数か月で私は嫌というほど学んでいた。
婚約破棄の首謀者という肩書きは、思っていた以上に重く私の肩にのしかかっていた。夜会に招かれることもなくなり、社交界での居場所は静かに失われていった。以前ならば当然のように届いていた縁談の打診も、今ではぱたりと途絶えている。
だが、それを惜しいと思うことはなかった。むしろ、余計な誘いが絶えたことで、検問と諜報の任にだけ没頭できる。今の私にはそれで十分だった。
彼女とは、直接文を交わすことができない。破談の当事者同士が親しく手紙を送り合っていると知れれば、これまでの筋書きすべてが崩れてしまう。
だからこそ、フィリップ閣下を通した回りくどい遣り取りだけが、彼女の無事を知る唯一の手立てだった。月に一度か二度、閣下の印章が押された封書が届くたびに、私は執務の手を止め、誰よりも先にその文面へ目を通した。
――
「ルシアン、閣下から書状が届いている。」
書斎に呼ばれ、父の手から一通の封書を受け取った。フィリップ閣下の印章が押されたそれを開くと、几帳面な文字が並んでいた。
『――サン・ジェルヴェ方面にも、不審な動きあり。かの地の関所にて、聞き慣れぬ訛りの商人が頻繁に出入りしているとのこと。エレオノールより、注意を促す一文あり。』
文面を読み終え、私はしばらく紙面から目を離せなかった。フランシュ・コンテだけではない。もう一方の道からも、この国の内側へ手が伸びていた。窓の外では、冷たい風が枯れ枝を揺らしている。その音さえも、どこか不吉な予兆のように耳に響いた。
「サン・ジェルヴェ……。フランシュ・コンテに気を取られている間に、もう一つの道が空いていたということか。」
「エレオノールが、あちらの宮廷で何を耳にしたのかまでは、閣下も詳しくは書いておられない。だが、確かな筋からの話だとある。あの子は、ただの飾り物として嫁いだわけではないということだろう。」
父の声には、隠しきれない緊張と、それを上回るほどの感嘆の色があった。私は地図を広げ、フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェ、二つの街道に指を這わせた。どちらも我が領内へ入り込むには、格好の道だ。片方だけを見張っていたのでは、意味がない。
「挟み撃ちにされていたということか。」
「そういうことになる。……ルシアン、お前の判断で動け。私はこれより、閣下への返書と、周辺諸侯への根回しに当たる。」
父の言葉に頷き、私はすぐに身支度を整えた。もう、悠長にしている時間はなかった。
――
その夜、私は宿場町の裏手でマノンと落ち合った。冷え込んだ空気の中、彼女は前置きもなく口を開いた。
「サン・ジェルヴェの関所を預かる警備隊長――ルグランという男、近頃妙に羽振りが良くなっているという噂だよ。天秤の紋章を掲げた商人の荷を、検めもせず通しているとかね。」
「天秤の紋章……メルシエ家か。」
「ああ。あの家は、荷だけじゃない。人まで、運んでいるという噂もある。」
商人の顔をした家が、実のところ密偵の運び屋を担っている。にわかには信じがたいが、フランシュ・コンテの一件でも同じ名を耳にしていた。もはや偶然ではあり得ない。
「引き続き、ルグランとメルシエ家の周辺を探ってくれ。深追いはするな。」
「分かってるよ、いつも通りにね。」
それだけを交わし、私たちはすぐに別れた。長居は互いにとって危険でしかない。彼女の役目も、私の役目も、それ以上の言葉を必要としなかった。宿場町を後にしながら、私は懐に仕舞った覚書をそっと握りしめ、来た道を戻った。
――
私はすぐさま諜報部に命じ、ルグランが見逃しているというメルシエ家の荷の行き先を追わせた。命じてから数日、屋敷の書斎で報告を待つ間、私は幾度となく地図を睨み続けた。
フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェ。もしこの二つの流れがどこかで交わっているのなら、この国を内側から崩そうという企みは、思っていた以上に大きい。
そして数日のうちに、一報が届いた。
「サン・ジェルヴェでルグラン殿が検めずに通した荷は、いずれもマコン方面へと運ばれているようです。かの地には、王権に反発する貴族の一派が拠点を構えているとの噂もございます。また、フランシュ・コンテの荷はスロンジェ方面へ。こちらも同じように、反発する貴族がいるという噂が。」
マコンとスロンジェ。地図の上でその地名を探し当てた時、私は静かに息を吐いた。フランシュ・コンテの反勢力貴族と繋がる、二つの巣が見つかったということだった。フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェから運ばれた密書と密偵は、この二つの地に集まっている。
「その屋敷の主を、洗い出せ。」
「既に。かの地の貴族は、以前より王家への不満を公然と口にしていた家柄です。今になって、その動きが妙に静かなのが、かえって不自然かと。表向きは領地の経営に専念していると触れ回っているようですが。」
沈黙こそが、何よりも雄弁に語ることがある。声高に不満を叫んでいた者が、急に口を噤む。それは、隠すべきものを得たか、あるいは、それだけの利益を掴んだかのどちらかだった。
「屋敷を張り込め。私は情報統制に努める。現場はお前たちに任せる。」
私は部下たちにスロンジェとマコンの屋敷を張り込むよう命じた。屋敷に近づくのは、私自身ではない。諜報部の者たちに任せ、私はここで報告を待つ役目に徹した。事を急いて表沙汰にすれば、サヴォイアとの和平そのものが揺らぎかねない。あくまで内々に、静かに事を収める必要があった。
――
張り込みから数日後、深夜に一報が届いた。スロンジェの屋敷に出入りする荷を検めたところ、隠し戸の奥から複数の密書が発見されたという。差出人の名は伏せられていたが、封蝋には見紛うことのないサヴォイアの意匠が刻まれていた。天秤の紋章――メルシエ家の手を経て届けられたものに違いなかった。
それに続き、マコンの屋敷でも同様の密書が発見された。
押収された密書の束が、報告書と共に私の手元に届けられる。灯りを近づけ、封を切らぬまま一通ずつ検めていく。フランシュ・コンテとサン・ジェルヴェ、二つの道から流れ込んだ書状が、最終的に繋がっていたことが、これで証明されたに等しかった。
「……ようやく……ここまで辿り着いた。」
私は燭台に照らされた密書に目を通しながら、静かにそう呟いた。
屋敷の主と、その周辺で不穏な動きを見せていた者たちの身柄は、全てではないが、既に諜報部の手によって密かに拘束されていた。表向きは、脱税と密輸の疑いという名目にした。真の理由を公にすれば、あちらとの和平が崩れる恐れがある。密偵たちの身柄も、しかるべき牢へと移された。
「よくやった。……ひとまずこちらの根は、ある程度絶てたか。」
報告に来た部下の言葉に、私は小さく頷くにとどめた。だが、これで安堵はできない。エレオノールからの手紙で出てきた、宰相――サヴォイア側の黒幕がどこまで関わっているのか、その全貌は依然として闇の中にあった。
――
押収した密書を前に、私はしばらく思案を巡らせた。この証を、このまま国内だけに留めておくのは惜しい気がした。
「父上、この密書のうち一通を、サヴォイア側へお送りしたいと思います。」
「公世子殿下へ、ということか。」
「はい。……いずれ殿下ご自身が、あちらの内側に潜む真の黒幕を暴かれる時が来るはずです。その時、この一通が、殿下の後押しとなれば。」
父はしばらく私を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「閣下を通じて、あちらに潜む我らの人脈へ託そう。……ルシアン、お前も少しは、先を読めるようになったな。」
その言葉に、私は小さく頭を下げるだけにとどめた。密書は、その日のうちにフィリップ閣下のもとへ送られ、そこからサヴォイアの宮廷へと、静かに手渡されることになった。
あちらでこの一通がどのように使われるのか、今の私に知る術はない。ただ、いつか彼女が戻る日のために、この国境の内側だけは、必ず清めておかねばならないという思いだけが、胸の中で確かな輪郭を持ち始めていた。
――
数日後、私はこの一連の結果を、簡潔にまとめた報告書として父に渡した。父はそれを一読すると、深く頷いた。
「これを、閣下へお送りする。エレオノールにも、必ず伝わるはずだ。」
「……彼女は、あちらでどれほどの重責を背負っているのでしょうか。」
思わず漏れた問いに、父はしばらく答えなかった。
「お前が案じたところで、今は何もできん。……お前にできるのは、こちら側の道を、一つでも多く塞いでおくことだけだ。」
父の言葉に、私は黙って頷くほかなかった。分かっているつもりでも、遠く離れた地で危うい橋を渡っているであろう彼女のことを思うと、胸の奥がひどく落ち着かなくなる夜が幾度もあった。
――
その夜、私は再び庭のベンチに腰を下ろした。冬の澄んだ空気の中、国境の見張り塔の灯りが、いつものように小さく瞬いている。かつてここで、彼女と他愛のない話を交わした時間が、今となっては遠い夢のように感じられた。
懐に忍ばせていた小さな紙片――彼女に指輪を贈った日に添えた意匠の写しを取り出す。
アメジストの輝きを思い出しながら、私は静かに誓いを新たにした。この道を塞ぎ切った先に、彼女が笑って戻ってくる日が待っている。そう信じることだけが、今の私を支える、唯一のよすがだった。
夜空を見上げながら、私はしばらくの間、動かずにそこに座り続けていた。彼女が今この瞬間、何を思っているのか。答えの出ない問いを胸に抱えたまま、冷たい夜気だけが静かに私の周りを満たしていた。
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