第十二章 父として、公爵として
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ伯爵家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父。
マノン・デュラン
フォンテーヌ家の諜報員。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
婚約破棄から数日が経っても、屋敷の中の空気は変わらず重かった。
書斎の窓辺に立ち、掘り返されたままの花壇を見下ろす。庭師には、しばらくそのままにしておくよう命じてあった。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、あの土をならしてしまえば、娘の傷までも土の下に埋めてしまうような、そんな気がしたからだった。
エレオノールは、あれから食が細くなった。マリーからそう聞かされるたびに、私は胸の奥が締めつけられる思いがした。
あの子が幼い頃、熱を出して寝込んだ夜、枕元に付き添っていたのは私自身だった。あの頃と同じ弱々しさを、もう一度この目で見ることになるとは思っていなかった。
「閣下。フォンテーヌ伯爵がお見えです。折り入って、二人だけでお話ししたいとのことで。」
執事の声に、私は思わず眉をひそめた。ロベール・ド・フォンテーヌ。あの男の息子が、我が娘にしたことを思えば、今すぐにでも門前払いを命じたいところだった。だが、長年の付き合いのある男が、わざわざこうして頭を下げに来た以上、無下に追い返すわけにもいかない。
「……通せ。」
書斎に現れたロベールは、いつもの落ち着いた物腰とは違い、どこか思い詰めた表情をしていた。椅子を勧める前に、彼は深々と頭を下げた。
「フィリップ殿。此度の一件、まずは私からお詫び申し上げる。息子が、貴殿の御令嬢に、あまりにも無礼な仕打ちをした。」
「詫びで済む話ではない。エレオノールがどれほど傷ついたか、貴殿には分かるまい。」
「……分かっている、つもりだ。だからこそ、今日は詫びだけでなく、もう一つ、話さねばならないことがあって参った。」
ロベールは懐から一枚の書状を取り出し、机の上に広げた。几帳面な字で、いくつもの地名と人名が書き込まれている。フランシュ・コンテ、聞き覚えのない商人の名、そして不自然なまでの取引の増加を示す数字。
「これは……。」
「フランシュ・コンテ周辺で、この半年ほど、不審な動きが続いている。これまで縁のなかった商人が、急に貴族や小役人に近づき、金をばら撒いている。誰の差し金かまでは、まだ突き止められていない。だが、これが単なる商売でないことだけは、確かだ。」
私は書状を睨みながら、次の言葉を待った。ロベールの声には、これまで聞いたことのない硬さがあった。
「フランシュ・コンテを経由し、我が国の内側から防衛を崩そうとする動きがある……諜報を通じてルシアンは、そう見ている。」
「それが事実だとして、なぜそれが、娘の婚約破棄に繋がる。」
私の声は、自分でも驚くほど低く沈んでいた。ロベールは、一度目を伏せてから、静かに続けた。
「証拠を固めるには、相手の懐深くに入り込める者が要る。疑われることなく、あちら側の内情を探れる立場の者が。……ルシアンが思い至ったのは、御令嬢だった。」
その一言に、私は思わず立ち上がっていた。
「娘を、道具として使うと言うのか!」
「フィリップ殿、どうか最後まで聞いていただきたい。」
ロベールの声は揺るがなかった。私はしばらく彼を睨みつけていたが、やがて、崩れるように椅子に腰を落とした。
「……続けろ。」
「オーストリアの背信情報が上がっている。オーストリアがサヴォイアを手中に収めれば、アルプスを越えるための兵站と軍事拠点を手にすることになる。それを放置すれば、次に狙われるのはブルゴーニュ、そしてフランス全体が脅威に晒される。そこでサヴォイア公国に、オーストリア背信の情報を交渉材料にして御令嬢を嫁がせることで、あちらの内側に確かな目を置ける。それだけではない。婚姻による和平が成れば、両国の緊張そのものを和らげることができる。勿論、御令嬢の意思が一番ですが、ルシアンは、そこまで見越していた。」
「だが、婚約を白紙に戻す必要が、どこにあった。」
「ルシアンは、婚約が生きたままでは、閣下も、そして貴殿の御令嬢も、話に頷いてはくださらないと踏んだ。破談という既成事実があってこそ、他国への輿入れは、傷ついた家名を立て直す縁談として、自然に運べる。サヴォイア側も、背信の情報と破談の事実があれば話に乗ってくる。私たちはそう踏んでいる。」
ロベールは眉をしかめ、一息大きく吐いたあとに続けた。
「……浅ましい計算だと、私も思った。だが、あれは間違いなくルシアン自身が、ブルゴーニュを、ひいては国を守るため苦渋の末に選んだ道だ。そしてこの話を聞けば、聡明な御令嬢は必ず受けてくれると、ルシアンは確信しているようだった。」
しばらく、書斎には沈黙だけが満ちていた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いていた。
「……あの子が、どれほどの涙を流したか。貴殿の息子は、それを承知の上で、あの茶番を演じたということか。」
「承知の上だ。それも、なるべく深く、貴殿の御令嬢を傷つける形でなければ、周囲を欺けないと分かっていた。」
ロベールの声が、僅かに震えた。
「フィリップ殿。……これを、御覧いただきたい。」
差し出されたのは、小さな箱だった。開けると、中には見覚えのある指輪の意匠が描かれた紙片が収められていた。エレオノールに贈られたという、あのアメジストの指輪だ。
「アメジストの石言葉は、『真実の愛』。ルシアンが、誕生日の贈り物に、あの意匠を選んだ時のことを、私はよく覚えている。あれは、演技などではなかった。息子が御令嬢に向けた想いは、今も何一つ変わっていない。」
私は、しばらく言葉を発せなかった。娘を傷つけた男の父親が、こうして息子の想いを弁護する姿に、怒りとも呆れともつかない感情が込み上げてくる。
「それが本当だとして、私に何の慰めになる。」
「フィリップ殿。これは、頼みの一つに過ぎない。……もう一つ、条件をお約束したい。任務が成った暁には、必ずルシアンと御令嬢を正式に結婚させる。フォンテーヌの家名にかけて、それだけは違えない。」
その言葉に、私は初めて、ロベールの目をまっすぐに見返した。老獪な外交手腕で知られる男の目には、偽りの色は見えなかった。あるのは、息子の未来と、我が家の信義を賭けた、ただの父親の顔だった。
「……娘に、危険が及ぶことは。」
「万に一つもないとは、言えない。だが、私自身、この国境を守るために生涯を捧げてきた身だ。御令嬢を、無防備なまま送り出すような真似は決してしない。」
ロベールは多くの書類を私に見せてきた。それは、サヴォイア公国側にいるフランスの情報屋と、万一の時、すぐに動ける者たちの名が記されていた。
私は目を閉じ、長く息を吐いた。国を守るという大義と、娘を政治の駒として差し出すという現実。その狭間で、どれだけ考えても、答えなど出るはずもなかった。それでも、フランシュ・コンテの書状に記された数字の並びが、悠長な迷いを許さないことも、また事実だった。
「……分かった。全ては娘次第だが、この話、受けよう。」
ロベールは、深く頭を下げた。
「ただし、成功の暁には必ず、エレオノールとルシアン殿の婚姻を。それが違えられることがあれば、フォンテーヌ家とは金輪際、縁を切る。」
「誓おう。」
その一言を最後に、ロベールは静かに書斎を辞していった。一人残された私は、しばらく机に広げられた書状を見つめ続けていた。娘に何を告げるべきか、どう告げるべきか。答えの出ないまま、窓の外はいつしか夕闇に沈んでいた。
――
後日、サヴォイアからの正式な縁談が持ち上がった。私はエレオノールを再び書斎に呼んだ。あの日と同じ椅子に、あの日よりも幾分か血色の戻った顔で、娘は静かに腰を下ろした。
「……サヴォイア公国から、話が来ている。」
「サヴォイア……。」
「あちらの公世子殿下が、お前を妃にと望んでおられる。正式な縁談だ。」
おそらく娘の返事を受ける前から、フォンテーヌ家が手引きをして、サヴォイア公国側にこちらの縁談を勧めたのだろう。
それにしても、話が来るのがあまりにも早く、疑問が残る縁談だった。
「……なぜ、私なのですか。他にも、縁組を望まれる令嬢は大勢いるでしょうに。」
「表向きは、ブルゴーニュ公爵家との縁組が、両国の和平に資すると判断されたことになっている。また、フランシュ・コンテに接するブルゴーニュ公爵家との縁を作れば、両国の関係も安定するだろうというのが、公式の理由だ。」
私はエレオノールを諭すように続けた。
「正直に言えば、悪い話ではない。フォンテーヌ家との一件で、我が家の体面は少なからず傷ついた。だが、隣国の公世子妃として迎えられるとなれば、周囲の見る目も変わるだろう。それに……。」
私は、ロベールから聞いた話を、包み隠さず伝えた。フランシュ・コンテの不審な動き、ルシアンが仕組んだ婚約破棄、指輪に込められた本当の意味、そして――任務が成った暁には、再びルシアンのもとへ嫁ぐという約束のことも。
話し終える間、エレオノールは一言も発しなかった。ただ、膝の上で重ねた両手が、僅かに震えているのが見えた。
「……そう、だったのですね。」
やがて、娘はそれだけを呟いた。声には、怒りとも安堵ともつかない、複雑な響きがあった。
「怒って、当然だ。お前は、何も知らされないまま、あれほどの仕打ちを受けた。」
「怒りが、ないと言えば嘘になります。……ですが。」
エレオノールは、一度言葉を切り、窓の外へと視線を向けた。
「あの人が、私を本当に見捨てたわけではなかったのだと分かって……どこかで、救われた気持ちもあります。愚かな娘だと、笑われるかもしれませんが。」
「愚かなものか。」
私は静かにそう答えた。娘の横顔には、傷ついた少女の面影と、それを乗り越えようとする一人の女の強さとが、同時に宿っているように見えた。
「お父様。……この話、お受けします。」
「本当に、良いのだな。危険がないとは言い切れない話だ。」
「はい。……このままここに留まっていても何も変わりません。それに、公爵家の娘として、務めを果たすべき時が来たのだと思います。」
その言葉に、私は娘の中に、確かな覚悟が芽生えたのを感じた。かつて婚約破棄に打ちひしがれていた頃の弱々しさは、もうそこにはなかった。
「……お父様、一つだけ、お願いがございます。」
「何だ。」
エレオノールは、少し悪戯めいた笑みを浮かべた。それは、婚約破棄の直後には決して見せなかった表情だった。
「婚約披露の夜会で、フォンテーヌ卿……ルシアン様と、顔を合わせることになると思います。その時、少しだけ、意地悪をしても構いませんでしょうか。」
「意地悪、とは。」
「あちらは、私を深く傷つけたという役を、これからも演じ続けねばなりません。ならば私も、それに見合うだけの態度で、あの方を少しばかり、居心地悪くさせて差し上げようと思うのです。」
娘のその言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。傷ついたはずの娘が、こうして昔のように悪戯を仕掛けようとする余裕を見せている。それが、何よりの救いのように感じられた。
「……それくらいは、許されるだろうな。あちらも、それを望んで、あの茶番を演じたのだろうから。」
「ありがとうございます、お父様。」
エレオノールは、深く一礼して部屋を出ていった。その足取りは、以前よりもずっとしっかりとしていた。
――
一人残された書斎で、私は再び窓辺に立った。国境の方角には、見張り塔の灯りが今夜も小さく瞬いている。あの灯りの向こうへ、間もなく娘を送り出すことになる。
公爵として、この国を守るために正しい選択をしたのだと、自分に言い聞かせようとした。だが、それ以上に強く胸を占めていたのは、ただ一人の父親としての、拭いきれない不安だった。
娘が再びこの屋敷の門をくぐるその日まで、私に何ができるだろうか。答えの出ないまま、私はしばらくの間、暗い国境の空を見つめ続けていた。
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