第十一章 光と影の狭間で
登場人物紹介
エレオノール・ド・ブルゴーニュ
ブルゴーニュ公爵家の令嬢。
ルシアン・ド・フォンテーヌ
フォンテーヌ伯爵家の嫡男。
フィリップ・ド・ブルゴーニュ
エレオノールの父。
ロベール・ド・フォンテーヌ
ルシアンの父。
マノン・デュラン
フォンテーヌ家の諜報員。
ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア
サヴォイア公国の公世子。
ルグラン・マルリーニ
サヴォイア公国の西側国境警備隊長。
ロレンツォ・ディ・サティ
サヴォイア公国の宰相。
フォンテーヌ家は、代々ブルゴーニュの東の守りを任されてきた家系だった。物心つく前から、国境の見張り塔の話や街道の検問の話を、当たり前のように耳にして育った。
それでも、あの夜会でエレオノールと出会ってからというもの、私の中の優先順位は知らぬ間に静かに入れ替わっていた。
彼女と過ごす午後は、いつも穏やかだった。庭のベンチで交わす他愛のない会話、指輪を渡した時の輝く瞳、川沿いで交わした「いつか」という約束――それらすべてが、自分でも驚くほど大切なものになっていた。
誕生日に指輪を贈った夜、彼女が「ずっと大切にします」と口にした時の顔を、私は今でも鮮明に覚えている。あの瞬間の自分は、間違いなく幸せだった。この先も、こうして季節が巡るたびに、彼女の隣にいられるのだと、疑いもせずに信じていた。
――
その空気が変わったのは、婚礼の日取りが決まって間もない頃だった。父の書斎に呼ばれ、机の上に広げられた地図を見た時、私は言葉を失った。フランシュ・コンテ周辺の商人や貴族の名が、几帳面な字でいくつも書き込まれていた。
「ルシアン、これを見ろ。この半年で、山向こうから来る商人の数が明らかに増えている。それも、これまで取引のなかった品目まで扱うようになった。……単なる商売の話には見えない。」
父の指先が、地図に記された地名の一つを静かになぞった。
「フランシュ・コンテで、何かが動いていると。」
「まだ確証はない。だが、放っておける話でもない。……お前も、そろそろこの家の役目を、自分のこととして引き受ける頃合いだ。」
父の声には、これまで聞いたことのない重さがあった。国境の守り手として代々受け継いできた責務の重みを、この時初めて、自分自身のものとして実感した気がした。
――
情報を集めるため、私はマノン・デュランという女に接触した。ディジョン中心部から少し外れた宿場町で働く彼女は、表向きは宿の女中だったが、実のところは長くフォンテーヌ家に仕える諜報の者だった。旅の商人たちの噂話を拾い、時には自らも探りを入れる。父の代から続く、家の耳目のような存在だった。
「フランシュ・コンテの方は、確かにきな臭くなってきているよ。」
宿の裏手で落ち合うと、マノンは前置きもなく本題に入った。窓の外には宿場町の喧騒がいつも通り続いていた。
「天秤の紋章のメルシエ家が、あの界隈の商人や小役人に、随分と金をばら撒いているらしい。誰の依頼かまではまだ掴めていないけれど。それと、オーストリア側もなにやら動いているらしい。」
「ありがとう。引き続き頼む。」
それだけを告げ、私はすぐにその場を辞した。長居は無用だった。彼女の役目も、私の役目も、余計な言葉を交わすことではない。宿場の裏通りを後にしながら、私は懐に仕舞った短い覚書をそっと握りしめた。
――
集めた話を父に報告すると、父はしばらく黙り込んだ後、静かに言った。
「証拠を固めろ。……だが、それだけでは足りないかもしれん。フランシュ・コンテの向こうで何が動いているか、こちら側からいくら見張っても限界がある。」
書類を片付けながら見せた父の横顔には、これまでにない厳しさが刻まれていた。その一言が、私の中である考えを一気に形にした。
あの国境の向こう側に信頼できる目を置くこと。それも、疑われることなく相手の懐深くまで入り込める立場の者を。
思い浮かんだのは、エレオノールの顔だった。そこまで考えて、私は自分の思考に強い嫌悪を覚えた。彼女を政治の道具として扱おうとしている。それでも、この考えを振り払うことはもうできなかった。
――
「サヴォイアへ、彼女を送り込むというのか。」
父にこの案を打ち明けた時、父は驚きを隠さなかった。書斎の燭台の灯りが、父の顔に深い陰影を落としていた。
「フィリップ公爵閣下が、易々と頷くとは思えん。何より、お前自身の婚約者だぞ。」
「分かっています。……だからこそ、順序が要ります。」
私が父に示したのはこうだった。まず、婚約を白紙に戻す。理由は、私自身の不誠実――既に懇意にしている女がいた、という筋書きにする。フィリップ公爵閣下への真実の説明はその後でいい。破談という既成事実さえあれば、彼女を他国へ嫁がせる話はむしろ自然に運びやすくなる。
「先に、彼女を自由にしてから、真実を明かすというわけか。」
「はい。……順序を違えれば、閣下は決して頷いてくださらないでしょう。婚約が生きたままでは、閣下にとって娘を政治の道具にする話でしかない。ですが既に破談となった後であれば、他国への輿入れは、むしろ傷ついた家名を立て直す縁談として受け入れていただきやすくなります。」
父はしばらく私を見つめていたが、やがて重々しく頷いた。
「……フォンテーヌ家の家名を落としてもブルゴーニュを…か。分かった。この件、私が閣下に話をつける。お前は、まず婚約を終わらせろ。」
――
覚悟を決めたその日から、私はマノンとの逢瀬を、あえて人目につく形で重ねるようになった。宿場の裏通り、目立たない宿の前――そこで交わす言葉は、これまでと変わらず短い報告のやり取りに過ぎなかった。だが傍から見れば、それは道ならぬ逢瀬にしか見えないだろう。それこそが、私の狙いだった。
エレオノールが、いつかこの通りを馬車で通ることがあるかもしれない。もし見られたら――そんな計算が、心のどこかに確かにあった。浅ましい打算だと分かっていながら、それでも私はその道を選んだ。
そして、その日は思っていたより早く訪れた。宿の前で言葉を交わしていた時、通りを行く馬車の中に、見覚えのある横顔を見た気がした。フィリップ公爵家の紋章を私は見逃さなかった。あの馬車の中の彼女が、何を見て、何を思ったのか――その夜以来、私はそのことばかりを考え続けることになった。
――
夕刻、応接の間で彼女と向き合った時、私は用意していたはずの言葉が、うまく出てこないことに気づいた。「好きな人ができた」――その一言を口にした瞬間の、彼女の瞳に浮かんだ光を、私は生涯忘れることはないだろう。指輪のことを問われた時、答えることができなかったのは、演技ではなかった。あの「ずっと」という言葉に込めた想いは、今も少しも変わっていなかったからだ。
これで良かったのだと、自分に何度も言い聞かせた。だが、屋敷を後にしながら、私は一度も振り返ることができなかった。馬上で振り返れば、きっとすべてを投げ出して、今しがた告げた言葉を取り消してしまう。そんな予感があったからだった。
――
婚約破棄から数日後、父は一人でフィリップ公爵の元へ向かった。私は同席を許されなかった。閣下の怒りを真正面から受け止めるのは、家長である父の役目だと、そう言い渡されたからだった。
その日、屋敷で父の帰りを待つ間、私はほとんど何も手につかなかった。窓辺に立ち、遠く公爵邸の方角を眺めながら、これまで自分が積み重ねてきた計算の一つ一つが本当に正しかったのか、何度も自問していた。
もし閣下と彼女が頑として拒めば、この計画は最初の一歩さえ踏み出せずに終わる。そうなれば、彼女を傷つけただけのただの愚かな真似で終わってしまう。日が傾き窓の外が茜色に染まる頃になっても、父はまだ戻らなかった。
その日の夜、屋敷に戻った父は疲れた様子でありながら、どこか安堵した表情も見せていた。
「閣下は、当然のごとくお怒りだった。だが、話を最後まで聞いてくださった。」
「……ご理解いただけたのですか。」
「簡単ではなかったがな。フランシュ・コンテの動き、オーストリアの動き、メルシエ家のこと、そして、これを見過ごせば遠からずこの国そのものが危うくなるということ――一つ一つ、丁寧に話した。閣下は、初めのうちは聞く耳すら持ってくださらなかったが、最後には、静かに頷いてくださった。」
父は静かにそう言うと、少し目を細めた。
「最後に、あの指輪のことをお話しした。お前が贈った、アメジストの指輪だ。」
「指輪が……。」
「以前お前が言っただろう?あの指輪の意味は『真実の愛』。お前がエレオノールに向けた言葉は嘘ではない。それは今も変わらないと。閣下にはそうお伝えした。娘御が異国にあっても、決して独りではないと。」
父の声は静かだったが、その一言一言には、重みがあった。私はしばらく、言葉を返すことができなかった。
「閣下は、それで幾分か心を静めてくださった。……娘御を、道具としてではなく必ず取り戻し、お前と結婚させるという条件でな。あとは閣下が娘御に話を通して、呑んでもらえるかどうかだが。」
「もちろんです。」
私は迷わず頷いた。あの指輪を選んだ日には想像もしていなかった形で、それが彼女を守る楯になろうとしている。そのことに、安堵と名状しがたい重さとが、同時に胸に押し寄せてきた。
――
その後の運びは、驚くほど速やかだった。エレオノールの返事を聞く前から、自分たちはすぐに動き出した。フランシュ・コンテで、オーストリアがサヴォイア公国に対し背信を画策している、との情報を入手していた父は、密かにサヴォイア公国側へ使者を送った。
「国の裏切りの情報に対して、公爵令嬢の輿入れと、ブルゴーニュとの和平。サヴォイア公国はこの条件を飲みますかね。」
私がそう漏らすと、父は静かに首を振った。書斎の窓越しに、冬の弱い日差しが差し込んでいた。
「国の背信だからこそ意味がある。向こうが本気で和平を望んでいるなら、必ず食いついてくる話だ。……それに、オーストリア背信を見過せば、サヴォイア公国は大国の思惑に呑まれる。」
果たして話は父の思惑通りに動いた。公世子殿下が正式な縁談を申し入れてきたのだ。それと引き換えに、両国の間には当面の和平を約する取り決めまでもが交わされた。フランシュ・コンテの件についても、これで両国が正式に手を取り合う形が整い、少なくとも表向きの緊張は大きく和らぐことになった。あまりにも滑らかに事が運んだことに、私自身、内心では小さな戸惑いを覚えていたほどだった。
「これで彼女は、あの国の内側に立てる。」
父の言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。すべてが計算通りに進んでいるはずなのに、胸の奥には、これまで感じたことのない重さが、静かに沈んでいた。書斎を出て、長い廊下を一人歩きながら、私はこれから始まる長い年月のことを思った。
婚約が正式に調ったという報せが屋敷に届いた夜、私は一人、庭のベンチに腰を下ろした。かつて彼女と並んで座り、他愛のない話を交わした場所だった。冬の冷たい空気の中、吐く息が白く染まっては消えていく。ここで彼女と過ごした時間のすべてが、今となっては遠い夢の中の出来事のように感じられた。
「ルシアン、こんな所で何をしている。」
様子を見に来たのか、父が声をかけてきた。
「……少し、考え事をしていました。」
「彼女のことか。」
その問いに、私は何も答えなかった。答える必要もなかった。父にはとうに、すべて見透かされていたのだろう。父はしばらく私の隣に立っていたが、やがて静かに口を開いた。
「お前が選んだ道だ。……だが、選んだ以上、最後まで見届ける責任がある。彼女が無事にこの屋敷へ戻ってくるその日まで、な。」
「はい。」
短く答えながら、私は夜空を見上げた。国境の方角に、見張り塔の灯りがいつものように小さく瞬いている。あの灯りの下を、これから彼女が通ることになる。そう思うと胸の奥に、これまでにない切実さで、ある決意が根を下ろしていった。彼女が戻るその日まで、私はこの場所で変わらず立ち続けると。
この国を守るためだったと、胸を張って言えるようになる日が、果たして来るのだろうか。今はまだ、その答えを私は持っていなかった。ただ、彼女が再びこの屋敷の門をくぐるその日まで、この国境を、そして彼女との約束を、必ず守り抜くと静かに誓った。私はただ一人その思いを胸に、これから始まる長い日々を見据えていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
物語は終盤へ進みます。少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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