7.片割れの月
雄大な緑の草原は、乱れた心であったとしてもなお美しい。
大分県との境に横たわるくじゅう連山を遠く背景に、濃淡豊かな緑が木々を化粧し、見渡す限りの圧巻の景色だ。
カーブを曲がる度に、巨人が大地を撫でたような山々が表情を変える。
道途中でゆっくり景観を楽しめるよう間隔を空けて展望台が建てられていて、ミカヨの指示でその1つに車を停めた。
「ここが良いの。ここから歩くぞ」
展望台の横に人がやっと一人通れる道があり、古びた木の看板に掠れた文字で〈ケナガシノ湧水〉と書いてあるようだ。
「このケは、穢れ、病や厄などのざっくり悪いものじゃな」
道からあまり離れないということだったが、一応軽い山装備で踏み込んだ。
景観を楽しみながら5分ほど歩いた後、後ろからザクザクと草を踏む音がしたかと思うと熊のような男が現れ、真尋の肩を掴んだ。
「はやまるな!」
「ギャアあぁ!って、大河?驚かせないでよ!」
「驚いてんのはこっちだ!何してんだよ!」
先ほど、後味悪く振り切った元カレ様である。何やら鬼気迫る顔で必死に説得のような事を言い募ってくる。
いのちだいじに?何のことだよストーカー。
「何ごともなく観光するならそのまま見送るつもりだったよ!碌な荷物も持たずに車に乗ったかと思えば、辺鄙な山で降りるし、一人だし、流石にまずいだろ!」
「ち、違う!世を儚んでない!」
やっと、何を心配されているか分かった。
確かに、図らずも仕事を辞めたことを話したばかりで、状況を改めて考えると自主的な遭難者を疑われても仕方ない。大河にはミカヨは見えないのだから。
山奥では、どこも観光客の遭難事件はつきものなのだそうだ。現役の警察官が言うと説得力が違う。
「じゃあ、何しにこんなとこ来るんだよ」
「それは…」
ミカヨの事情を言えない以上、言い訳が苦しい。
真尋が言い淀んでいると、周囲の風がピタリと止まり、世界が裏返った。
真尋には、子供がパズルを叩いてピースを全て落としてしまったように見えた。
ガラガラと崩れる景色の中で、ミカヨだけが白く浮かび上がる。
以前、姪が完成間近のパズルをひっくり返し、床にピースが散らばってしまったことがあった。過去の場面が脳を過ぎり、記憶の中から姪の甲高い鳴き声が響く。
いや、本当に耳から音が聞こえていた。頭に鳴き声が反響する。
あーんあーん。
緑鮮やかだった生命力溢れた森が、突然作り物のように色褪せる。空が山が、現実感のない絵巻物のような柄に置き換わっていく。
「何だこれ!?」
大河が、明らかな異変に混乱しながらも真尋を守るように抱き寄せる。
真尋は、久しぶりの体温にびっくりした鳩のような顔になった。
「男子も巻き込まれてしまったのう」
存外に素質があるようじゃ、と常と変わらぬのんびりとした声。
大河にも聞こえたらしくその方向を警戒も顕に振り返る。腰をとっさに探ったのは、職務で使う武具を探してのことだったが、勿論今は持っていない。
今にも攻撃しそうな大河を真尋は慌てて抑える。
「ち、違う違う。敵じゃない!あれ、私の神様です!
いや、ミカヨ様、私もそれなりに混乱してる。なんですここは!」
「は、何?神様?」
「招かれたのじゃ。歓待だのう」
「何だこれ」
可哀想な大河は、状況ゆえに現実逃避もできず、結局攻撃態勢を解くまでそれなりの時間が必要だった。
「つまり、真尋は神様と二人旅を満喫中で、その里帰りに俺が巻き込まれたってことか?」
「そうです」
「ストレスはすぐには解消できないもんな。俺で良ければ話聞くから」
「もし私が精神に異常をきたしているなら、この景色とミカヨ様が見えてる大河も一緒に通院すべきだね」
頭を抱えてしまった。
ひとまず、事情を説明出来たので良しとしよう。
「で、ミカヨ様。こんなホラーじみた空間のことは聞いてませんけど」
「ここは、元々わしらの領域じゃ。古馴染みが帰ってきたゆえ迎えてくれたようじゃ」
「誰が?」
「わしの片割れじゃ」
聞いとらんって、何さ片割れって。
「ほれ、おぬしの持っとる形代は半月型であろう?本来は円の形で、いつしか二つに割れて双子神になったのじゃ。
わしの方は島へ渡ったが、もう一つはこの場に留まっておる」
真尋が首から下げたお守袋には、ミカヨの形代である白い石が入っている。
成る程、二つあれば綺麗なドーナツの様な形になるだろう。
「…今度から先に言ってくれると嬉しいです」
人外に繊細な心遣いは期待できない。真尋は早々に諦めた。神との旅だ。こんな事もあるだろう。
「大河は、帰してあげられないんですか?」
憔悴している男は、しょぼんとしている熊のようで心が痛む。そもそも真尋はこの男に負い目があるので、これ以上借りを増やしたくない。
「共にいるほうが安全じゃの。この領域の主は今はわしではない。無理に返すと迷子になるやもしれん」
あやつわしの思うより調子が良くなさそうじゃし、という不穏な言葉は流し、ひとまず一向は先に進んだ。
幼児の泣き声のような音は、今なお遠くで鳴っている。
時折、草陰から絵のようなペラペラのウサギやタヌキが出てきて、鳥獣戯画よろしく挨拶をしていく。
やがて、深い墨色の霧のかかった大きな泉に辿り着いた。
暗い色彩の中で、底が見えるくらいの透き通った水だけが、絵巻物の世界で唯一現実のような質感を保っている。
泉の中心に、浮かび上がるものがあった。水面に立ちこちらをじっと見つめるミカヨと同じ黒い瞳。白く景色を切り取る存在感。白銀の髪は、ミカヨに比べると男の子のように短い。
真尋には、ミカヨのそれより輝きがくすんでいるように感じられた。
その瞳からぼたぼたと涙が溢れ落ちる。
落ちて、泉の水が揺れ波が起こる。
「ああああああねええええええさあああああまああああ」
間延びした声が世界に響く。
たまらず真尋と大河は耳を塞いだ。まるで、頭蓋骨を揺さぶられているようだ。
「ようしようし、すまんな。遅くなったのう」
ミカヨは、二人に「少し待っておれ」と言い残して、泉の上を滑るように歩いた。当然のように、その足は水に沈むことはない。
足が水を蹴るたびに、散った水滴が空中へ浮かび上がってそのまま空を漂う。
やがて、幾万の水滴が後光のようにミカヨの背に追従し、緩やかな円環を作った。
鏡合わせのような二人の神が、手を取り合い見つめ合った。
「おそいのです。おそいのです。なぜともにいてくれないの。さびしい。さびしいのです」
「そうよな、寂しかったなぁ。濁りは、わしが流してやる。ゆるりと休むと良い。共にゆこうなぁ」
優しく宥める鈴の声が、水の円環を回す。くるりくるりと水滴がキラキラと舞い、流星群のよう。
真尋が水の演劇に見とれているうちに、片割れの神の姿は消えており、ミカヨが軽やかに岸辺へ戻った。
手を胸の上で組み、大事に何かを抱えている。
気がつけばあたりは静まり、墨色の霧は晴れ、絵巻物の世界は現実に戻っている。
なんの変哲もない山の裾で、綺麗な湧き水を眺めていた。
「真尋よ。両手を水をすくうようお椀にするのじゃ」
「え、はい」
言われるがままに、両手を隙間なく重ねて、水受けの形にする。
その手の中にみるみる水が湧いた。
「二人で飲むとよい。わしらの泉の清水じゃ。神域より汲んでおるゆえ効果抜群じゃ。異界は人の身には少々堪えたろう」
「二人で?俺、真尋の手から飲むのか…?」
この後のことは割愛する。
しかし、真尋と大河はだいぶ恥ずかしい思いをしたことは確かだった。




