こぼれ話「空気を読んで車に残ったわしを褒めるがよい」
大河にとって、真尋は穏やかな女だった。
高校生の頃、大河は剣道とボードゲーム部に入っていた。ある日、真尋がボードゲーム部の部室に友人に連れられてきたので、ゲームのルールを教えてやった。
真尋は、ちょくちょくボードゲーム部に顔を出し、2人はすぐに顔を見れば立ち止まって世間話をする間柄になる。
真尋は、自分のお喋りを積極的にするタイプではなく、人の話を良く聞いた。
緩やかな合の手と頷き、決して話を急かさない姿勢は、自然と人の話を引き出した。真尋の周りは居心地のいい時間が流れていた。
大河の親族は気の強い女が多く、幼少期から嵐のように喧しい者たちに囲まれて過ごしたので「こんなに静かで優しい女もいるのか」と感心したのが、多分最初のきっかけだった。
真尋は、人の悪口を言わない女だった。
愚痴も滅多なことがない限り口にしない。
一度、どうしてか聞いたことがある。「だって自分が言われたら嫌だから。相手だって嫌でしょう?」と至極真っ当な事を言われた。
真尋は、人を1人のままにしない女だった。
「1人でいると、何倍も苦しいから」といって、仕事を分け合っていた。
相手に見返りを求めるでもなく、軽やかに「お節介だから」と言った。
真尋の中の当たり前が、どれほど難しいか。
大河の中で、真尋は尊敬する人になった。
その尊敬は、気付いたときには既に好意にすり替わり、後戻りはできなくなっていた。
しかし、大河の惚れた女はだいぶ好意に鈍かった。
大学入学後にデートに誘ったり、好意を仄めかしたりしたが、真尋は友人とのそれと区別がついていなかった。
この鈍さで他の悪い虫も跳ね除けていたので、当時の大河はとても複雑だった。
このまま告白して振られるのは耐えられなかったので、長期戦に切り替えて、警戒されないようゆっくり近づいた。
地元の友達としてのアドバンテージをフル活用して、距離を間違えないよう気を配り、意識してもらえるまで3年かかった。
付き合ってくれる確信が持て、満を持して告白したのは卒業間際の事だった。
時間はかかったが、その鈍さを呆れこそすれ、面倒だと嫌うことはついぞなかったから、多分大河は病気だ。
それは、今もなお。
あのとんでもない誤解を生んだ夜、誰にでも優しい真尋が、凄まじい怒りを見せたことは大河にとって衝撃だった。
真尋は、大河の知る限りよっぽどの事がない限り怒らない。本人は「怒るの疲れるから、苦手」と言うが、多分怒っていても相手を慮って気が削がれてしまうのだ。
そんな真尋が、怒って連絡も取らなくなった。
勿論大河は焦ったし、辛かった。話を聞いてくれない真尋に怒りもした。
けれども胸の奥に、確かに暗い喜びもあった。
あんな写真1枚で、我を忘れるほどに、好かれている。愛していたのは自分だけじゃなかった、と大河の身勝手な部分が喝采していた。
中々どうして、厄介な女を好きになったと思うし、自身が厄介な男である自覚もある。自分に惚れられてしまった真尋を憐れに思う。
警戒しきった野生動物のように逃げる真尋には申し訳ないが、そもそもこちらは盛りのついた10代を忍耐で乗り切った実績がある。
正直、落ち着いてから事情を説明すれば真尋は許すだろうという確信もあった。
剣道の先輩であった真尋の姉に、変なのが近づいたら叩き出してくれ、と頼み予防線も張った。
真尋が村まで逃げて物理的な距離が開いてしまい、自身の仕事の忙しさも相まってだいぶ長い間会えなくなってしまったのだけは、予想外だった。
「もし、まだ間に合うなら、私は大河を諦めたくない」
満天の星空の下で、真尋は噛みしめるようにゆっくり言った。
ピザを完食し、2人して互いの食い意地を笑って、腹ごなしに丁度良いと空を望む展望台まで登った。
大河は、真尋から話を切り出された事が意外だった。
流石に時間が経ちすぎたので、もう怒りは覚めていてもおかしくはないが、自分の感情を口に出すのが苦手な真尋から言われるとは思わなかった。
多分、一緒にいた神様とやらの効果かもしれない。昔よりだいぶ生きやすそうな顔をしている。
だから、大人げないけど真尋の心に少しだけ爪痕を残したくて、素直に自分のちょっとキモいと思われる気持ちも言ってみる。
「俺は、別れたつもりはなかった。別れ話、してないし。仕事落ち着いたら島に迎えに行くつもりだった」
案の定、真尋は少し引いていたが、いい気味だと思う。これくらいは3年待った利子扱いでいいだろう。
「別れてないから、3年放置されてた男として、ちょっとくらい、いい思いがしたい」
真尋は、3年前と同じ穏やかな顔で苦笑いした。相変わらず、大河はこの顔が好きで堪らない。本当に、病気だ。
真尋が、大河に顔を向けて目を閉じる。
許可が出たとみなした。
2人は、夜空の星々が降る草原で、何事もなかったような恋人のふりをして、静かな静かなキスをした。
思ったより大河がキモくなった




