第二章 ②
賑やかな日々と寮への引っ越しといった慌ただしさも過ぎ去り、私たちは今日、入学式を迎える。
開け放たれた窓から、やわらかな春風が吹き込む。
白いレースのカーテンがふわりと揺れ、花の香りを淡く運んできた。
真新しい制服に袖を通し、姿見の前で襟をそっと整えれば、仕上げに兄から贈られた髪留めをつけ、指先でそれにそっと触れた。
窓の外では、陽光を受けた並木道が淡くきらめき、人々のどこか浮き足立った声が微かに届く。
その景色をひととき眺めたあと、私は静かに窓を閉め、部屋を後にした。
ひとたび寮を出れば、朝の光に包まれた並木道の先に学園の門が見える。
その道を真っ直ぐ歩いていくと、前方に人だかりができているのが見えた。
ざわめきが風に乗って、こちらまで届いてくる。
…何かしら。
その場をそっと通り過ぎようとした、その時。
ふいに名前を呼ばれ、そちらへ目を向けると、声の主と視線が交わった。
「…!」
人だかりの中心に居たその人は、赤い髪を靡かせながら、あっという間にこちらへと歩み寄ると、慣れた手つきでするりと私の手を取り、手の甲にキスを落とした。
「おはようローザ、今日も綺麗だね」
「……お兄様でしたのね」
少しだけ熱を持った頬を、柔らかな風が撫でていく。
それは私だけではなかったようで、周囲の生徒達も兄の口から紡がれる甘い言葉に頬を染め、驚いたように目を見開いている。
「制服もピッタリのようだね、髪留めもよく似合っているよ」
「お、お兄様のおかげですわ。ありがとうございます」
「当たり前だよ。私に出来ることは何でもさせてくれ。
学園の事も、初めは戸惑うこともあると思うが…困った事があれば、すぐに私を呼ぶんだよ?
必ず助ける。私はローザの味方だからね」
兄は至って真剣な表情のまま、当然のことのようにそう言ってのける。
(お兄様……周囲の視線を忘れていらっしゃいませんか……?)
けれど、兄の真っ直ぐな優しさを前にして、その心遣いを無碍に出来るはずもなく───
入学早々、心臓に悪すぎますわ……
「……なにか、悲しくさせてしまったかな?」
兄はわずかに眉を下げ、私の表情を窺うその瞳は気遣わしげに揺れていた。
そっと頬に触れた手は、ひどく優しかった。
「愛しているよローザ。世界で一番」
その瞬間、多分その場にいた全員が限界を迎えた。
後ろから「もう駄目……」という掠れた声が聞こえた。
女子生徒の中には腰を抜かしてしまう者まで現れ、男子生徒ですらほんのり頬を染めている。
そんな周囲の喧騒をよそに、目の前には、ただ私を案じるように見つめるいつもの優しい兄がいて────
「…私も愛しております、お兄様」
───カーマイン様が、妹君にあれ程までに甘やかだとは……
───私たちは夢でも見ているのかしら……
囁くような声があちこちから漏れ聞こえ、驚きと熱を孕んだ視線がじわりと兄へ集まっていく。
その熱は瞬く間に周囲へ広がり、ざわめきは波のように膨らんでいった。
そんな熱を帯びた空気の中、不意に兄の視線が鋭く細められ、私の後方へ投げられた。
兄の視線の先を辿るように振り返れば、そこには1人の男子生徒の姿があった。
さらりと靡く茶色の髪は、まるで春風に揺れる新梢の様に柔らかで美しい。
「おはようカーマイン」
「おはようございます」
お兄様のお知り合いかしら?
兄へ向ける声音はどこか気安く、二人の距離の近さが自然と伝わってくる。
二人の会話が終わるのを静かに待っていると、私の存在に気付いたその人はくるりとこちらへ体を向け、私の目線に合わせる様に腰を落すと無邪気に顔を覗き込んだ。
「初めまして、僕はエメ。
この学園の四年生。カーマインとは仲良くしてもらってるんだ」
突然話しかけられたことに少し驚いたが、どうやらとても気さくな方のようだ。
しかし先程から、彼に向ける兄の視線が妙に厳しい。
「ご挨拶ありがとうございます。私、ルージュ・ローザと申します」
「うん、君が噂の妹君だね。さっきカーマインから話を聞いたところなんだ。
そうだ、出会いの記念に薔薇をどうぞ」
何処か芝居がかった仕草で胸元のポケットから一輪の薔薇を抜き取ると、彼は微笑みながらそれをそっと私へ差し出した。
突然の贈り物に戸惑いはしたものの、このまま受け取らない訳にもいかない。
私は少しだけ逡巡したあと「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、薔薇を受け取った。
満足そうに微笑んでいた彼は、光に照らされた私の瞳を見た刹那、不意に言葉を途切れさせた。
「君のその瞳……」
瞳……?
確かに、この瞳の色は昔から珍しいと言われてきた。
家族の誰とも違う、赤い瞳。
先程までの人懐こい雰囲気とは違う、静かな真剣さに思わず息を呑む。
まるで遠い記憶を辿るように、彼は一心に私の瞳を見つめていた。
「”おやめ下さい”」
静かな冷たさを含んだ声が、ぴしゃりとその場の空気を断ち切った。
それ以上踏み込ませないと言わんばかりの空気に、思わず私まで背筋が伸びる。
彼は一瞬だけ目を伏せた。
先程まで私へ向けられていた真剣な眼差しは静かに影を潜め、薄い唇がわずかに引き結ばれる。
それから何事もなかったかのように顔を上げると、兄へ向けてゆるりと笑みを浮かべた。
「女性の瞳をそれ程までにじっと見つめるのは、いくらなんでも失礼ですよ」
「そうだね、すまないカーマイン。
あまりにも綺麗だったから、つい見入ってしまった。
ローザさんもごめんね?」
「い、いえ」
「そうだ。これから、入学式だよね?
場所は分かる?お詫びに僕が送って行こうか?」
そう言われ、私が断りの言葉を口にするよりも早く、兄が静かに言葉を挟んだ。
「結構です。
貴方に少しお話がありますので」
「そう怖い顔をするなカーマイン、美人が台無しだぞ。
それじゃあ……またね。ローザさん」
「…すまないローザ。
少し外せない用が出来てしまった。
講堂までは、ジョーヌ殿達と共に向かってくれるか?」
兄の視線の先を辿ると、そこにはカナリアと、難しい顔でこちらの様子を伺うミモザの姿があった。
「まぁ、おはようございます」
「おはようございますっ!ローザ様」
「…おはようございます」
「すまないが、ローザをよろしく頼む」
「お任せ下さいませっ!」
半ば連行されるように兄へ連れられながらも、エメは楽しげにひらひらと手を振っていた。
私は小さく頭を下げると、カナリア達と共にその場を後にした。
嵐のような時間を終え、講堂へ辿り着いた頃には、ようやくひと息つく余裕が生まれていた。
入学式は、厳かにつつがなく進んでいく。
本来であれば、最終学年である殿下が祝辞を述べられる予定だったそうだが、二年前より留学中とのことで、代わりに学園長が壇上へ上がっていた。
「最終学年はこちらで過ごされると思ってましたのに…。
殿下がいらっしゃらないなんて、私とても残念ですわ。
一度で良いから、お姿を拝見したかったのに……」
カナリアは肩を落とし、分かりやすくしゅんとしている。
余程楽しみにしていたのだろうか。
そんな彼女を慰めていた、その時だった。
「続いて、生徒会長の挨拶。ルージュ・カーマインさん」
司会の声が講堂へ響いた瞬間、それまでの静けさが嘘のように、大きな歓声が沸き起こった。
「流石、カーマイン様ですわ……!
先程お見かけした時も、一瞬目を疑ってしまいましたの。
だって最後にお会いした頃は、まだ学園へ入られる前でしたでしょう?
それなのに、久しぶりに拝見したお姿がお父上そっくりで……あの頃より、ずっと逞しくなられていて……」
どうやら、カナリアの落ち込んだ気持ちも一瞬で吹き飛んでしまったらしい。
「そう思われるのも当然ですわ。カナリアが最後にお兄様とお会いしたのは、三年前ですものね」
確かに三年前と比べたら、お兄様の背格好も随分と変わっているだろう。
しかし、女生徒達の黄色い声援は依然として収まる気配がない。
(赤薔薇の君よ!はぁ、今日も本当にお美しいわ……)
(ビロードのような髪に、あの香り……あぁ、酔ってしまいそう)
(あの金色の瞳なんて、まるで宝石のよう……)
熱に浮かされたような声が、あちこちから途切れなく降ってくる。
その一方で────
(おい、見ろよ。あれが噂の……?)
(白い髪……本当にいるんだな)
(兄はあんなに優秀なのに、実は本当の兄妹じゃなかったりしてな)
嫌でも耳に入ってくる言葉に、少しだけ心が沈む。
それでも、それ以上に安堵の方が勝っていた。
兄のことを悪く言う声が、どこにもなかったからだ。
人と違う見た目のことを言われるのは、平気。
……慣れているから。
力が弱いのも事実なのだから、そう言われても仕方がないと思っている。
けれど────
ただ、自分のせいで、あの優しい兄に迷惑がかかることだけは、どうしても申し訳なかった。
しかし、私の大切な友人たちは違っていた。
カナリアが後ろの席にいる生徒たちへ怒りの視線を向けた、その時────
「黙れ」
傍らのミモザが、低く鋭い声で、噂話をしていた生徒へと放った。
怒っているのだろうか……聞いたことのない、とても鋭い声だった。
驚いた生徒は、気圧されながらもすかさず謝罪の言葉を口にした。
「す、すみません」
それ以上は、誰も何も話さない。
いや、話せなかった。
「…ごめんなさい、ミモザ。
私のせいで、貴方たちにまで嫌な思いをさせてしまったわ」
「…いえ。それより、ローザ様。
あんなくだらない話、真に受けちゃいけませんよ」
「ええ、大丈夫よ。ちゃんと分かっているわ」
「ローザ様、私たちがついていますからね!」
「ありがとう、カナリア」
その後も、会場のあちこちでは小さなざわめきが絶えず続いていた。
厳かだった空気はすでに和らぎ、あちこちで新入生や在校生の声が交錯している。
「おい、ニレいい加減起きろよぉ〜。
なぁ、あれ見てみろよ!本当に真っ白だぜ?すげぇなぁ」
「……どうでもいい。そんな事より眠い…」
「お、かわいい子発見〜♡」
「………」
それぞれがそれぞれの興味に引き寄せられ、講堂の空気がゆるやかに解けていく中────
入学式は、無事にその幕を下ろした。
───────
「会長、お疲れ様でした」
入学式を終え、生徒会室に戻ったカーマインへ、アシードが労いの言葉をかけた。
「…アシード。今はもう二人なんだから、会長はやめてくれ」
「ふふ、失礼しました。
…それにしても、久しぶりにローザさんをお見かけしましたが、大変お美しくなられましたね」
「……やめろ、お前まで」
「本当に仲がよろしいことで」
楽しげに肩を揺らしながら、アシードは小さく目を細める。
その視線の先には、どこか気恥しそうなカーマインの姿があった。
「煽るな、アシード。早く資料をみせてくれ」
「はいはい」
軽く肩をすくめながら、アシードはカーマインのデスクへ資料を差し出した。
「今月末のガーデンパーティの件ですが、花や会場の準備については、私の方で進めておいても構いませんか?」
「あぁ、頼む」
書類を整える音だけが室内に落ちたあと、アシードが顔を上げた。
「今日は、このまま寮に戻られますか?」
「そうしたかったんだが……一度騎士団に戻ることになった。
東の森で大型のブラックウルフの大群が湧き出しているらしくてな。今朝方、討伐要請が下った」
「……どうして君はいつも、そんな大事なことをすぐに言わないんだい、カーマイン」
────あぁ、まただ。
私が討伐に出る度に、こいつは不機嫌になる。
執務室のひんやりとした空気が、足元を静かに抜けていく。
その空気を振り払うように、私はマントをばさりと羽織り、扉へと向かった。
────彼は知っているのだ、私がどういう人間なのかを。
そして、私もまた、彼がどういう人間なのかを知っている。
「後は頼んだ。…行ってくる」
「……はい、お気をつけて」
その声はわずかに揺れていた。
背を向けたまま、それだけが耳の奥にこびりつくように残った。
そうして私は、今日も戦場へと向かった。
───────
”行かないでくれ”
このたった7文字が、私には言えない。
それは、彼にとって一番言われたくないであろう言葉だということを理解しているから。
17歳の彼が自分自身に課しているものは、まるで重い鎖のように彼自身を縛り続けている。
彼は今日も、戦場へと向かう。
去っていく彼の背中を見送りながら、私はただ願った。
いつか彼が、自分自身を許せる日が来ることを…




