「生命」
覚醒したのは深夜のことだった。
飛び起きて冷たい汗をかいていて、まだ自分が皇位正装から着替えていないことに違和感を覚える。
同時に、ベッドに誰か眠っていたような痕。触れるとまだ温もりがあった。
──何だ。誰かいたのか?
不意にベッドの端にウサギのぬいぐるみがあることに気付く。明らかにディルの趣味でもクレイたちの趣味でもない。いずれにせよ、ここに誰かがいたのは確かだった。そして、心臓が早鐘を打っている。まるで、何か急げ、と言うように。
酷く、大切なものを忘れている気がする。
ディルは大広間に出ると、クレイとキョウの名前を叫んだ。2人とも何かあったのかと駆けつけてくる。
「キョウ! クレイ!」
「どうしたんですか……!? 兄上、酷い顔色だ……! まさか■■■■さんに何か」
■■■■?
まるでそこだけノイズがかかったように、分からない。
「……■■■■とは、誰だ。お前達は誰のことを言っている」
その瞬間、クレイとキョウの顔が青ざめる。
クレイがディルの腕を掴んで、叫ぶように言う。
「兄上! ■■■■さんですよ! 何で分からないんですか!?」
「……分からない。だが、俺は、大切な誰かを忘れているようだ……」
「兄上、そんなの■■■■さんの■のエレメンツに決まっているじゃないですか!」
「■■■■のことを思い出せないのかよ、兄上!? しっかりしろよ!」
■■■■。
分からない。
分からない。
分からない。
考えると頭が割れるように激痛が襲う。
けれど、思い出せ、と心が叫んでいる。
■■■■、と、心の中でノイズ混じりの名前を口にしてみる。
瞬間、断片的な記憶が過っていく。けれど■■■■の顔は塗り潰され、名前は斜線が引かれたままだ。誰だ、お前は。頭が割れそうなほどに痛い。けれど決して手放してはならないと本能が叫んでいる。記憶が降り積もる雪のように蓄積されていく。
「──私は火刑で99回死んでいるんです」
「 殿下は、優しいエレメンツをお持ちなんですね。意外です」
「幾度も、浴びてきた炎。ああ、なんと愚かな……それをまた私を、あの子らをお前たちは────」
「 ……ディル」
「 生まれて初めて『ともだち』が出来たような気がして……」
「 文字の読み書きの練習をしていました」
「 いえ、ただその、私と9才も違うのに若々しいなと思いまして」
「 8月22日……私の、初めての誕生日……」
「 楽しいから良いじゃないですか。空は青くて、緑は青々してて、綺麗だと思いませんか?」
「 この冷たさも、白く煙る景色も。しんと静まり返っていて……白っていう悪い色彩を塗り潰してくれる」
「 安心しました。ディルに怪我がなくて、本当に良かったです」
「 もしかして教えてくれるんですか?」
「 ディル、でぃる……触れて、私にも、ふれて……」
「 ──あなたの『優しさ』を私に押しつけないで下さい」
「 もっと庶民的な……街のバルとかに行ってみたいんです」
「 キスしてください」
「 どうして自分の死より、誰かの死が怖いの?」
「 ……答えに迷うなら、私を殺しても構いません。生き抜くと覚悟した私ですが、あなたに殺されるなら受け入れましょう。私の死で貴方が少しでも救われるというのなら……ディル、あなたの痛みを私に刻んでください。あなたの痛みも哀しみも絶望も、私が全部引き受けます。その果てに死んだとしても私は──幸福です」
「いいえ……まだ、ディルの傷は、残っています。私は……無力です。貴方をあらゆる哀しみから守りたいのに、私には、それが……できない……ごめんなさいディル……私は、貴方が幸せであれば、それだけで、いいのに。どうして私は何の力にもなれないんでしょう────」
「ディル。このピアス……半分こにしませんか?」
「私は満足です。とても嬉しいです。こんなに幸せでいいのかってくらいに」
■■■■の100回目の人生。
けれどそこには、自分がいた。不確定要素の自分が。
■■■■の翠の瞳。
死ぬ覚悟ではなく。生き抜く覚悟を持った目をした──少女。
パズルが、はまる。
── 今日からお前は、■■■■──【エルピス】だ。
「エルピス」
ディルは金色の目を見開く。エルピス。俺の、希望。
痕跡を残した【無】から【有】が産まれ、エルピスが辿った道が露わになる。
行き先は、世界樹。
ディルは叫ぶ。
「──飛翔せよ!」
城の窓が粉々に砕け散り、ディルは窓から飛び出した。
激しい風と共に落下して、空気を踏むように城壁を蹴りつける。ディルの身体が浮遊し、見えない風の層を更に踏み込んで、風を切るように飛翔する。黒い葉は降り注いでいる。けれど、どうしてか意識を失わない。そんな理由なんてどうでもいい。今は急がないと。急いで、エルピスを止めないと。ディルは風切り、空気を踏んで高く跳躍し、世界樹のもとへと降り立つ。
腐食した柵からディルは入り、エルピスの姿を探す。世界樹の麓は淀んだ蒼白い光で侵されていた。
仄明るい空間の中、視線を動かし──世界樹をを見上げる少女を見付ける。
「エルピスッ!」
叫ぶと、びくりと少女が──エルピスが身体を震わせる。
ディルは命を吸われるという草花を踏みながら、エルピスへと近づいていく。エルピスが声を上げる。
「駄目ですよ、ディル。それ以上は命を落としてしまいます」
「黙れ。人の記憶を消しておいて命令か?」
「……すごいなぁ、ディルは。何でもできちゃいますね」
苦笑するエルピスにディルは手を差し出す。
「こっちに早く戻れ。お前だけが犠牲になる必要は無い」
「……すみません、戻れません」
「お前は……俺のパートナーだろう? ……恋人だろう?」
らしくもなく、声が震えた。エルピスは目を見開いたあと、細めた。
「そうですね。永遠に、私はあなたのパートナーであり恋人です」
エルピスは世界樹に触れる。触れた場所から黒ずんだ樹皮が剥がれ、蒼白く光る。
ディルは走り出した。己の命なんてどうでもいい。ディルは叫ぶ。
「──エルピスッ!」
エルピスが穏やかに微笑む。
「……ディル、愛しています、あなただけを──永遠に」
最後の、言葉だった。
エルピスは、優しく身体を沿わせるように世界樹に触れ、目を閉じた。
蒼白い光が、弾けた。
黒い樹皮が音を立てながら崩れ落ち、黒い葉が落ちていく。エルピスが立っていた場所から草花が瑞々しく広がっていく。世界樹の全体が蒼白い光に包まれ、やがて瑞々しい樹木へと戻っていく。青々とした葉が、ひらひらと落ちていく。
エルピスの身体が崩れ落ち、倒れる。
ディルは駆け出す。命が尽きても構わない。ディルはエルピスを抱き起こす。けれどその身体は力なく、死体、そのものだった。絶望で目の前が真っ黒になる。世界樹が語りかけてくる。
『彼女は、命を引き換えに世界を救った。間違いなく、彼女は聖女だったよ』
「……聖女? 笑わせるな。あいつは、魔女でも聖女でもない。ただの、人間だ」
ディルはエルピスをそっと寝かせる。
外からディルとクレイの声が聞こえた。けれどディルは2人に来るなと告げる。
世界樹が命を吸うことを知っているのだろう。2人は足を止める。
ディルは目を閉じたあと、エルピスの心臓の上に手をあてた。世界樹が言う。
『無理だよ。神子であっても──』
「黙れ。俺は、諦めない。諦めてたまるか」
そう言うとディルは詠唱する。
「業火の火、疾風の風、樹木の土、生命の水……」
眩い光がディルの手の平に集まっていく。ディルの金色の瞳が瞬く。
「神エルよ。その名に於いて四大元素を此処に集めん。全ての力は充溢した。全ての力を与え給え──!」
色彩が混じり合って輝く虹色が、細かい光の粒子となってエルピスに注がれる。
ディルは奥歯をぎりと噛み締め、莫大な力の奔流にに耐える。神に逆らう生命蘇生。けれど諦める訳にはいかなかった。
エルピス。──必ず、助ける。
光がエルピスへと溶け込んでいく。そしてその光が消え失せた時、蒼白していたエルピスの肌色が戻る。
「エルピス!」
叫ぶ。けれど、エルピスは目覚めない。何故だ、とディルは呟く。
四大元素による蘇生は、うまくいった筈だ。その感触はある。
その時だった。
『……無駄だよ』
世界樹が言う。ディルは睨み上げるように世界樹を見た。
「……どういうことだ」
『彼女が望んだことなんだ。もし自分の力が残っていたら、魂を【無】くしてほしい、と』
ディルは目を見開く。世界樹は続ける。
『もう疲れたから。もう、黒の神子は嫌だって……』
「……馬鹿者め」
四大元素で力を尽くしたディルは、クソッ、と大地を叩く。
如何したら良い? どうしたら──【無】から、引き出せる。引きずり出せる?
必死に考える。そこで、過去に、自分がエルピスに言ったことを思い出す
──『【無】にする。けれどそれは【有】ったということになる。最初から【無】であるものなどないのだ』
ふ、とディルは笑う。
四大元素よりも力を持って与えられた、白のエレメンツ。【有】の力。
ディルは乱れた呼吸を整える。これからすることは神に背くような、危険なものだ。身体は酷く重い。けれど、やらなければならない。何をしようとしているか気付いたのだろう。世界樹が語る。
『無理だよ。肉体じゃなく、魂の蘇生なんて。神子であっても、そんなことは──』
「黙れ。俺はディルケンス・ノヴァ。神に愛されし、神子だ」
ディルはエルピスを寝かせたまま、神の子のみぞ知る「聖句」を唱えた。
「この世に【有】ありき、この世に【無】ありき。【無】は破壊の力、【有】は創造の力……神エルよ、我が願いに応え給え。たとえこの命を賭しても、この神子の力全てを捧げよう。私は今、【無】を否定し【有】の願いを行使する。この【無】に侵されつつある少女の魂よ、【有】るものとし給え。この少女が生きた痕跡から──魂の【無】を、【有】へと今一度導き給え──」
神聖文字で綴られた【聖句】を唱えた瞬間。
巨大な時空の狭間が音を立てて開き、轟、と強風が吹き荒ぶ。巨大な眼を斬り込んだように、時空の狭間は星屑が広がっているが闇は濃い。その強大な力の反発力で、ディルは全身に刺すような痛みを襲われる。まるで身体の全身を杭で打ち付けられるような、痛み。
けれど意識を失ってはならない。
折角結びついた神エルとの繋がりが切れてしまう。
ディルは神聖文字で語られる【聖句】を叫び、裂け目との繋がりを強く結びつける。
詠唱された神聖文字による【聖句】。
死者を生者に還すという【禁忌】。
神エルの怒りに触れたディルの肋骨が一瞬で砕け、ディルは大量の血を吐き出した。エルの力が、ディルの爪を剥がし、指先を折る。ディルの中にあった四大元素の力を痛みと共に抜き取り、戦う力を奪う。
だが、これまで与えられたエルピスの痛みに比べれば──何てことはない。
カッと黒い光が輝く。神エルに代わって、四大元素が次元を侵すディルを「敵」だと捉える。
時空の狭間を守るように、容赦なく、四大元素は動き始める。エルの怒りで四大元素の力を剥奪された今、ディルに自分の肉体を守る術はない。
風の刃が四方八方から深く肉を削ぐ。業火の矢となってディルの身体を貫き、一瞬で生育した蔦がディルの手足を折り、肺に侵入した水で呼吸困難となり、ディルはぜえぜえと必死に呼吸する。与えられる痛苦に立っていられず、ディルは片足を突く。神子であるからこそ耐えられるが、そうでなければとうに死んでいる。事実、ディルも身体を支えるのに精一杯だった。
だが休む間もなく、神エルによる赤い【聖句】が痛みをもって思考を焼き切っていく。割れそうになる頭の痛みに、ディルは絶叫する。神エルの力が強まる。目と鼻、口から血が流れ、ぽた、ぽた、と零れ落ちる。
けれど、ディルは諦めなかった。袖で血を拭う。
落ち着け。戦うんだ。──エルピスを救うんだ。
世界を救った、彼女のように。
息を整えようとする。だが、【聖句】がそれを邪魔する。【聖句】により痛みが倍増し、与えられた傷も広がる。激しく咳き込むと、大量の血と共に痛みが走り、火のエレメンツで肉を焼かれた臓物が激痛に脈打った。折れた右足は、痛みを通り越して最早感覚がない。肺を水で侵され、呼吸がうまくできない。
それでも。
それでも、とディルは黄金色の目で時空の裂け目を見る
この痛苦が続いたとしても、構わない。地獄に落ちても構わない。煉獄の炎で永遠に焼かれても構わない。
エルピスを──取り戻せるのなら。
ディルは血に濡れた唇で言う。
「神エルよ……コールにより、死者を生者に戻すなど……不敬を、幾らでも罰を、受けよう。……だが、その代わりに、彼女を救ってくれ」
──あいしているんだ。
ディルの血に濡れた金色の瞳から、透明な涙が一滴、落ちた。
その瞬間。
鮮血のような世界だった世界の色彩が、変わった。まるで、花が一気に開花していくように。
神エルと繋がる時空が、完全に、繋がった、
狭間から漏れ出した金色の、輝く光が、2人を優しく包む。
金の粒子は舞い上がり、辺り一面を覆い尽くしていく。眩く、柔らかに世界を包んでいた。
まるでその金色は、雪のように、静かに降り注いでいく。
四大元素を返還されたディルは、未だに痛みに震える身体を叱咤し、エルピスを抱き起こした。
ディルは、神エルに導かれるままに──エルピスにキスをした。
神エルに与えられた神子の膨大な命が、注がれていく。
唇が離れる。金の粒子のような光は、あたりを浮遊しながら2人を見守っていた。
そっとディルは、エルピスを寝かせた。
「……起きろ、エルピス。眠り姫は皇子様のキスで目覚めるものなんだろう……?」
黄金の光の中。
その時2人のピアスが、流星の瞬きのように、輝いた。
エルピスの睫毛が微かに動き、その目が──翠の目が、開いた。
「……ディル……?」
「馬鹿者。そうに決まっている」
金色のきらめく粒子が、ゆっくりと時空の狭間へと消えていく。
輝きの中、エルピスは身を起こすとディルを見て、あまりの姿に息を忘れる。
その目から大粒の涙が流れる。
「そんな……もしかして……私の、所為でこんな、酷い怪我を」
「……安心しろ。俺は神子だ。こんな怪我、すぐに治る」
「でも、だったらすぐに【無】くし」
「やめろ」
手をかざして消そうとしたエルピスを、ディルは止める。
そして懐から煙草を取り出し、エルピスの手の平に置いた。
「え……?」
「お前には煙草の吸い殻を【無】くす。……そのくらいが、丁度良いんだ」
かつて灰皿代わりにと【無】くし続けたあの行為。
それを思い出したのだろう。エルピスは泣き笑いの表情をつくった。
涙が、雨のようにエルピスの瞳から、落ちる。
「……ディル。貴方に命を預けて、良かった」
「馬鹿者。預けられる身にもなれ」
激しく痛む身体で、愛しい人を抱きしめる。けれどこの痛みさえ、幸福だった。
エルピスは腕の中で泣いていた。ディルは顔を向けさせ、キスをする。
離れれば、エルピスは涙で濡れた瞳で、ディルを見て微笑んだ。
「すみません、ディル……また私は、貴方に救われてしまった」
「謝罪の安売りはするな、と言っているだろう。馬鹿者」
「はは、そうでしたね。じゃあこういう時は──ありがとうございます、で正しいですか?」
「及第点だな」
ディルは笑う。いつものように、少し意地悪く。
「──愛しています、が抜けている」
***
夜の闇の中、黄金色に輝く世界を見た人々は、誰もが思った。
神子様がこの世界を救ったのだ、のだ。
実際は──2人の愛が救ったとは知らずに。




