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「魔女」

※書き忘れて追記しました


 滅びの始まりは何の前触れもなかった。

 世界の崩壊なんて、そんなものだった。 


 止まっていた世界樹は急速に腐敗し、黒い葉を街中に散りばめた。

 時間など少しもなかった。

 黒い葉に触れた人間は意識を失い、街中の人々が世界樹がもたらす災厄から逃げ惑った。


『意識のある者は直ちに屋内に避難しろ! 意識の無いものを無理に助けようとするな! 被害が広がる可能性がある!』


 皇位正装を纏い、国営放送でディルはそう叫ぶ。

 キョウは突然の腐敗の原因を研究し、クレイは軍を率いて街の人々の為に避難所へと誘導していた。ディルは聖堂の司祭と対話し、神明の鏡から見た腐敗の原因を探っていたが、原因は分からないままだった。夜になっても腐敗は止まらず、人々は神エルに祈っていた。

 

 エルピスの姿が見えない事に気付いたのは、そんな混乱の最中だった。


「エルピスは何処だッ!?」

 

 ディルの叫びに応じる者はクレイを含め誰もいなかった。ディルは、あの馬鹿者め、と奥歯を噛み締める。ディルは白のエレメンツで「エルピスの辿る道【有】れ」と詠唱し、現れた蒼白い道筋を描き出す。

 行かないと。

 ディルは動き出す。だが、そんなディルをクレイとキョウが止める。


「兄上ッ、今一番国で必要とされているのが兄上です……! そんな兄上が倒れたら国中が更に混乱に陥ります!」

「ディル兄、クレイ兄の言う通りだよ。腐敗の原因が分からない以上、外に出たら危険だ!」


 ディルは足を止める。振り返った黄金の瞳は殺意に満ちていた。決して、クレイやキョウには向けたことのない鋭さで。キョウとクレイはその見たことの無い兄の姿に、恐れを抱く。


「──黙れ。俺は行く。あいつが考えていることは……危険だ」


 そう言うと漆黒のマントを翻し、ディルは蒼白い光を追っていった。

 城の外は黒い雨のように、腐敗した葉が降り注いでいた。ディルは複合エレメンツで薄膜を作り、全身を包むと暗い町を歩き始めた。白のエレメンツを使わなくても、エルピスが行く場所なんて分かっていた。ディルは早足に街を行く。

 辿り着いたのは街の外れにある聖域──世界樹だった。

 世界樹から、はらはら落ちる黒い葉の中で、エルピスはいた。触れても意識を失うこともなく、ただただ世界樹を見上げるように座り込んでいた。柵はエルピスが破壊したのだろう。ディルはそこから入ると、黒ずんで散りゆく草花の上を歩いた。


「……エルピス」


 呼べば振り返る。エルピスは泣きそうな顔で笑った。


「ディル。危ないですよ。意識を失ってしまいます」

「エレメンツで保護しているから平気だ」

「……流石、神子ですね」


 ふふとエルピスは笑う。


「それなのに見て下さい。私は腐敗した葉に触れても意識を失わない。明らかに異常だと思いませんか? 神子でもないのに」

「……特別な何かがお前にはあるのかもしれない」


 エルピスの隣にディルは座る。

 壊れていく世界。腐敗していく世界樹。そして──その害を唯一受けない、エルピス。

 エルピスは必死に明るい声で言った。


「お祈りに来たんです。どうか腐敗を止めて下さいって。でも、無理みたいでした」

「祈りに来ただけでも、お前は立派だ」

「……ディルは優しいですね」


 エルピスは静かに言った。


「ディル。その優しさに甘えても良いですか? ……長い話になるのですが」


 何をエルピスが語ろうとしているうのか、口にしなくても分かった。

 ずっとエルピスが言わなかったこと。


「……お前の99回の話か」

「厳密に言えば1回目の話です。一番最初。私が【魔女】に至った経緯。それを、繰り返した話です」

 

 ディルは無言で頷いた、ありがとうございます、とエルピスが微笑む。

 

「初めの頃から全部、お話ししますね。私の【罪】もすべて、含めて」


 そう言ってエルピスは言葉を紡ぎ始めた。


「私は世界樹の水脈に捨てられた、捨て子でした。老夫婦がそんな私を拾ってくれました。優しい人たちでした。ただ、彼女たちは物忘れが酷くて……私の名前はありませんでした。それでも私は構いませんでした。けれど私が8才の頃、強盗によって2人は死にました。それから私はストリートチルドレンになりました。生きることに必死でした。食べる為に盗みもしました。そこでも私の名前はありませんでした。そうしている内に……奴隷商人が私を買いに来ました。犯されそうになり、私はその2人を、黒のエレメンツで殺しました。私の、初めての殺人でした」


 エルピスが息を呑む。そて吐き出した。


「それから……在る日のことでした。世界樹の水にそっと浸かって帰ると、同じストリートチルドレンの子どもたちが、政府によって虐殺されていました。害虫駆除、と。それを聞いた瞬間、私の黒のエレメンツは爆発しました。国をひとつ【無】にしたのです。……生き残った私は隣国まで、歩きました。足が石で擦りむいて血が出ても、歌を支えに歩き続けました。……随分長いこと歩いていました。私は隣国の下水から入って、そこでまたストリートチルドレンとなりました」


 ただ、とエルピスは自嘲する。


「その国に入ったことが間違いでした。私たち孤児はエレメンツの強さによって捕まえられ、競売にかけられました。私はそこで、その国で最も大きな実験施設に収容されました。実験体「9」として。真っ白な部屋でした。そこで私は黒のエレメンツという稀少なエレメンツを持つ人間として、色々な実験を受けました。殺されかける程の実験を受けることもありました。ただし私は必死に自分のエレメンツの力が「無」であることを隠しました。……けれど、私は隣の部屋から聞こえる悲鳴に反応してしまいました。科学者たちは気付きました。私が、私の死よりも、他人の死に敏感に反応すると。そこで私はまた、嫌な言葉を聞きました。害虫駆除で様子を見よう、と。私は懇願しました。全てを開示する代わりに、誰も、殺さないでくれと。……私はそれから兵器として美しく着飾らせられ、各国へと報されました。私という【兵器】を使って、世界の国々を恐怖に陥れたのです。そして──」


 エルピスは一旦目を閉じて深呼吸したあと、告げた。


「私は、試験という名の下に罪もない一国を【無】にしたのです。国王は力を見せつけて喜んでいました。ですが私は思ったのです。人間というものは己の為に殺戮をも厭わないのか、と絶望したのです。私は国王を消し、邪魔者を消し、その国の女王として君臨しました。人々は私を【魔女】と呼び、恐れました。私は殺戮などもう耐えられませんでした。だから『これ以上どうか余計なことをしないで下さい』と訴えました。けれど、従ってくれる国は少数でした。私はあらゆる国を【無】くしました。二十歳の頃の話です。玉座についた【魔女】は今まで知らなかったことに興味を持ちました。貴族の食事、趣味、暮らしなどでした。そしてそれを学ぶことで、【魔女】は他国からも他者からも侮られないよう【演じました】。やがて【魔女】はそうして自国を眺めている内に、思いました。誰もが平等な世界を作れないか、と。けれどそれは貴族から大きな反発を得ました。貴族たちは他国からの要請を仰ぎ、孤児を人質に捉え【魔女】を捕まえました」


 エルピスは笑った。泣いているような、切なさを帯びていた。


「こうして捕まった【魔女】は火刑に処されました。勿論、抵抗はできました。けれど笑ってしまうくらい、お似合いの最後だと思ったのです。これこそ【魔女】と呼ばれた自分に相応しい末路じゃないか、と。……こうして【魔女】は死ぬ筈でした。けれど、【魔女】は全く同じ人生を歩むことになりました。運命に抗おうとした事など何度もありました。ですが必ず【魔女】は【魔女】となり、火刑に処されました。やがて言葉も、行動も、思想も、すべてが見えない何かに縛られました。感情はあるけれど、感情は操られているようなものでした。何度も何度も、気が遠くなるほど、繰り返しました。そして99回目の死を遂げ──ディル、あなたに出会いました」


 懺悔するようにエルピスは言う。


「これまで私は多くの国を、人を、【無】にしてきました。罪を犯してきました。けれどそんな私を救ってくれたのが、あなたでした」


 エルピスはディルを見て微笑む。


「本当にありがとう。ディル」

「……エルピス」

「私を、救ってくれたのは、あなただけでした。あなたが、私を地獄から、拾い上げてくれたのです」

「ッ……お前は、どんな思いをして、ここまで」


 胸が張り裂けそうになるほど、痛んだ。愛した人が、永遠に近い地獄を、歩み続けたこと。

 ──それが、あまりにも酷い人生で。

 ディルはエルピスを抱きしめた。強く、強く。


「……エルピス」

「はい……」

「辛かっただろう。苦しかっただろう」

「っ、はい……」

「よくたった1人で、歩んできたな。ずっと……」


 ディルは、言う。誰に咎められてもいい。

 それでも、ディルは言った。



「お前が多くの罪を犯したというのなら、──俺がその罪を、赦そう」


 その口が、「赦し」を言葉にした瞬間。


 

 

 世界樹が蒼白く発光した。

 咄嗟にディルはエルピスを守るように抱きしめる。

 けれど聞こえてきたのは、見知らぬ、不思議な声だった。


『……ああ、ようやくだ。長い歳月がかかった……』


 凜、と鈴の音が鳴る。世界樹だ、とディルは直感した。これは世界樹の声だ。


『白の神子、黒の神子……ようやく出会ってくれた。そしてようやく、白の神子よ。黒の神子に赦しを与えてくれた』

「どういうこと……? どうして、神子が2人?」

 

 エルピスが世界樹へと問う。世界樹は答える。


『世界樹の危機の時、2人の神子が現れるんだ。君は何も持たぬ黒の神子、そして彼は全てを持つ白の神子』

「俺たち2人が神子だと……?」

『ああ、そうだね。ただ白の神子、君が現れるまで随分時間がかかってしまったけれど……』

「……待て。俺とエルピスが出会ったことと、赦しというのは何だ?」


 理解が追いつかない。自分が現れるまで時間を要した? エルピスと出会うまで?

 ディルの問いに、世界樹は静かに答える。


『黒の神子はね、白の神子の赦しによって漸く【魔女】から【聖女】へと変わるんだ。脱皮するみたいにね。そして、役目を負う』

「聖女……? ディルが現れるまで時間がかかったって何の意味が……」


 戸惑うエルピスに、世界樹は答える。


『今、僕は長い間人間の邪悪な感情……毒素を吸って、腐敗し始めている。だから汚染された古い樹皮を脱ぎ捨て、新しい樹皮を得て、浄化してもらわねばならない。君の役目はそれだ。それによって僕は再び、世界樹としての役割を全うできる。だから黒の神子、白の神子、君たちを僕は必死で探したよ。……それどさっきも言った通り、ディルケンス・ノヴァ。君という白の神子は稀少でね。黒の神子より見つかるのが随分遅かった』


 だから、と世界樹は言う。


『僕は、賭けに出た。黒の神子がその生と死を繰り返す間に──白の神子と出会うことを』


 その真実に、ディルもエルピスも、言葉を失った。

 それは──あまりにも残酷な真実だった。


 名も無き魔女は、エルピスという聖女として認められる為に、何度も何度も死んできた。全ては、ディルに出会って聖女にしてもらう為に。そして聖女になって得た力で、その古き樹皮を剥がすために。

 嫌な、予感がした。

 酷く嫌な予感が。

 エルピスは、立ち上がった。俯いていた。


「つまり……私は魔女ではなく聖女として認められるまで、99回、殺されてきたというんですか……?」

『そうだね。君には悪いと思ったけど、それしかなかった。あの運命線上でしか、白の神子と出会えなかったから』


 そして、と世界樹は続ける。


『願わくば、救って欲しい。世界樹の古い樹皮を剥がし、浄化して欲しい。君の黒のエレメンツと──その命を賭して』


 ディルは立ち上がる。そんなの認められるかと叫びたくなる。

 だが、エルピスは笑っていた。世界樹を見て、笑う。


「つまり私は……99回殺され、ようやく得た100回目は今度は死ねと、言うのですか」

『君には悪いけど世界を救うためだ』

「……繰り返し死んで、ようやく、幸福を知った私に、また死ね、と」

『そうだね、世界の為に────』




「──────巫山戯るなッ!!!!!」




 エルピスは叫んだ。悲痛な叫びだった。怒りに満ちた叫びだった。──絶望に満ちた、慟哭だった。


「世界のため? 99回だ、99回も地獄の炎の中で死に続けた私に、また死ねというのか……!?」


 涙が散る。そんなエルピスを見ていられずディルは抱きしめる。 

 その翠色の瞳が、涙が落ちた。


「……どうして」


 ぽつりと。エルピスは呟く。


「私には、幸せになる権利が、ないのか……? 私は、ただ、人間らしく生きたいだけなのに……どうして」

「……エルピス。一旦、城に戻ろう」


 ディルはエルピスを横抱きすると、世界樹を睨み付けて言った。


「……俺じゃ駄目なのか。俺には、樹皮を消す力はないのか?」

『残念ながら……君は【無】じゃなく【有】のエレメンツだからね。君の役割は、万が一世界が無になった時に──世界を創造する、神エルの子としての役目だよ』


 世界樹の言葉を聞き届けて、ディルはエルピスを城まで運ぶ。腕の中にいるエルピスは虚ろな目をして、泣いていた。99回、火刑にかけられ殺された。けれどそれは、ディルが産まれるのがあまりにも遅かった所為だ。その所為で、エルピスはここまで苦しんだ。

 胸が痛かった。どうしてもっと早く出会ってやれなかったのか。

 考えるが、どちらにせよ世界樹の腐敗と、エルピスの運命は変わらないのだと気付く。


 何をしても──エルピスは、死ぬ運命にあった。


 城に辿り着くと、クレイとキョウが、エルピスを見て目を見開いていた。2人はディルを見る。ディルは首を振ったあと、エルピスを自室へと運んだ。戻ってくるとすぐにクレイが口を開く。


「エルピスさんに何があったんですか? あんな……絶望しきったような……」

「……世界樹の腐敗を止めるには……」


 言いたくなかった。けれどディルは、言った。


「エルピスの命が、必要だ」


 クレイとキョウの間に衝撃が走るのが分かった。

 キョウが泣き出しそうな顔で笑う。


「なぁ、兄上、嘘、だろ? 何でエルピスが……」

「……正直言って……重すぎます、ね……嘘だと……そう、考えたいのに……」


 2人の目から、涙が落ちる。そんな2人を見て、ディルは言う。


「すまない……エルピスと2人にさせてくれ……」

「分かっていますよ、そのくらい……」


 ディルはもう一度、すまない、と言うと足を進めた。

 エルピスを運んでいった自室へと戻る。エルピスは、広いベッドの上で、以前射的でとってやったぬいぐるみを抱きしめていた。弱い、小さな子どものように見えた。エルピスはディルに気付くと、ディル、と弱々しく呼び、ぬいぐるみをベッドの傍らに置いた。

 それから、明るく振る舞った。


「困ったことになってしまいましたね。まさかまた死ぬなんて……まぁ、今回は殺される訳じゃないですけど」

「……エルピス」

「ディル、そんな顔をしないで下さい。世界を救う勇気、削がれちゃうじゃないですか」

「違う、エルピス」

「今回はましな死に方ですよ、きっと。火刑よりは辛くないはず。それに多くの人を救え──」

「エルピス!」


 ディルはエルピスの両肩を掴む。華奢な身体。この身体で、この命で、世界を救えというのか。ようやく得た幸せさえも踏み潰して、結局エルピスは最初から最後まで──当たり前のように殺され、当たり前のように命を捧げろと言われたのか。ディルはエルピスを抱きしめた。揃いのピアスが涙のように微かに輝く。


「エルピス……言ってくれ。何でもいい。今のお前の、本当の気持ちを」


 びくりとエルピスの身体が震える。その手がディルの背中に回り、ぎゅっと、正装を握りしめた。


「……怖い」


 堰を切ったようにエルピスは、心の内にあるものを吐き出していく。


「怖いです、死にたくないです……、あんなに死は怖くなかったのに、今は……ディルと出会った今は、死ぬのは、嫌です。嫌で、嫌で……っ! でも……私が救わないと……ディルが、死んでしまう。それは、嫌なのに、いや、なのに……ディルと、離れたくない。一緒にいたい。けど……世界樹を救おうとも、救わなくとも、いずれにせよ……私は、死にます。だったら……」


 エルピスは言葉を詰まらせる。その先が、言えないのだろう。エルピスは、魔女でも、聖女でも、ない。今のエルピスはただ絶望に突き落とされた、悲しい少女だ。死を恐れる、ただの人間で。そんな彼女の憂いも哀しみも絶望も、その全てからディルは守りたくて、目をしっかり合わせると言った。


「いい。エルピス。世界なんて救わなくていい」

「え……」


 涙で頬を濡らしたエルピスをディルは拭って、ふと笑う。


「感謝しろ。これからお前は、神子である俺と世界を巻き込んで心中するんだ」

「そ、んなの……駄目、ですよ」

「神に愛された俺が良いというなら、良いに決まっている」


 ディルはエルピスの明るいブラウンの髪を撫でる。エルピスは涙を流しながら、可笑しそうに笑った。


「ディルは本当に、自分勝手な人ですね」

「この俺と、俺の愛する心中式に参列するんだ。誉れと思うべきだ」

「心中式なんて聞いたことがないですよ」

「今俺が作った。異議は認めない」


 くすくすとエルピスが笑う。


「本当に私はとんでもない人を好きになってしまったんだなぁ」

「後悔なんてしてないだろう?」


 にやりと意地悪く笑うディルに、エルピスは呆れたように溜息を吐いた。


「そうですね、全く。心からあなたが好きです。けれどディル。それは貴方もでしょう?」

「……お前もなかなか良い性格をしてきたな。だが……お前の言う通りだ。お前を愛している。この世の何よりも。この世界が犠牲になっても──俺は構わないよ、エルピス」


 エルピスの瞳に涙が溜まって流れる。ディルはその涙を拭いながら言う。


「キスしていいか?」

「……急にどうしたんですか……?」

「予行練習だ」

「予行練習?」


 ああ、とディルは言うとエルピスをベッドの上に押し倒して言った。


「昔読んだ絵本の中にあっんだ。皇子様のキスで、お姫様が目覚める話だ。万が一、お前だけが目覚めなかった時の為に」


 目をぱちくりさせたエルピスが、晴れの日のように破顔した。


「私も読み書きの練習の時、読みましたよ」

「なら、この後何をするか分かるな?」


 エルピスは微笑み、目を閉じる。ディルはその唇を唇を寄せて、重ねる。

 その優しいキスで、エルピスの繊細な睫毛が震え、やがて澄んだ翠の瞳がディルを捉える。


「……ちゃんと目覚めましたね」

「ああ、万が一、本番が来ても同じようにしろよ」


 寝転んだディルはエルピスに薬指を差し出す。エルピスはさ差し出された指に、指を絡めた。


「約束、ですね」

「ああ、そうだ。ちゃんと守れ」

「分かりました。……それじゃあ、1つお願いをしても良いですか?」

「お願い?」


 エルピスは寝転んだまま、ディルに言う。


「少し目を閉じてもらっても良いですか?」

「別に良いが一体────ッ、まさか、エルピス!」


 ディルが気付くより先に、もう既にエルピスの詠唱は始まっていた。


「──汝、意識を【無】くし給え」


 告げた瞬間、ディルの身体は力を失ったようにベッドに沈む。

 エルピスは意識を失ったディルにキスをした。そして、聞こえないディルへ、告げる。


「……ディル、私と出会ってくれて、ありがとう」


 滑らかなディルの髪の毛を撫でる。


「私に、名前を与えてくれて、ありがとう」


 エルピスの手がそっとディルの頬に触れる。


「……私を、愛してくれて、ありがとう」


 指先で、お互いの耳元で光る、ピアスに触れる。

 それでも惜しくて、エルピスはディルの心臓の音を聞いて、ああ、この人は生きないと駄目だな、と思う。

 エルピスはディルを見下ろし、手をかざした。

 胸が痛い。

 痛い。

 痛くて、たまらない。

 それでも、エルピスは、言った。



「ディルケンス・ノヴァから、エルピスの記憶を【無】くし給え」



 静寂のなか、ぽた、ぽた、と涙が落ちた。

 赦されるなら、もう一度だけ。

 涙を流しながら、エルピスは、ディルに最後のキスをする。


 これでいい。

 エルピスは、大事な人が犠牲になるなら、自分だけが犠牲になるほうがいい。

 

 ──運命は、なんて残酷なのだろう。


 エルピスは扉を閉める。

 もう二度と、振り返らずに。




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