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「エルピス」


歌を、歌っていた。

 考え事をして行き詰まると、小さい声でも、歌うと楽になった。中庭の日差しを浴びていたエルピスは、先日見た闇オークションを思い出す。厳密に言えば、少年と、抱き上げるディルのことを考えていた。


 ──あんな優しい顔が、できるんだ。


 ディルは一見すると暴力を尽くし悪人に見えるかもしれないが、本当は優しい。そんなディルが見せる一抹の優しさは、本当に大切な人にしか向けられない。

 リョク。リョクシール。

 失ったその弟の考えるとエルピスは切なくなり、先程より大きく、歌う。

 すると向こうから足音が聞こえた。振り向けばクレイとキョウだった。

 驚いた、とクレイが言う、


「驚いたって何がですか?」

「今聞こえてきた歌、エルピスさんのものだったんですね」


 どうやらキョウもクレイも聞いていたらしい。急に恥ずかしくなって「大したことありません」と言って逃げたくなる。けれど立ち上がったエルピスを逃すまいとキョウは腕を掴み、ぐいぐいとガゼボのほうへと連れて行く。クレイもまたガゼボに入ってベンチに座る。

 二人に挟まれたエルピスは、あの、と逃げ道を探した。けれど無駄だった。


「さて、先程歌っていた歌。もっと私達にも聞かせてください」

「そうだよ~、ディル兄にはどうせもっと聞かせたんでしょ!? 兄上だけなんてズルいって!」


 笑顔でエルピスの歌を待つ二人に、エルピスは苦笑する。


「……それじゃあ、質問に答えて頂けるなら歌います」

「? ええ。勿論。答えられる範囲でなら」

「ありがとうざいます」

 

 エルピスは微笑むと、静かに歌い始める。森閑としたような歌声で、繊細に音を紡ぐ。森の匂い、水の流れ、音、差し込む光。目を閉じると聞こえてくる、世界の音。やっぱり歌はいいな。エルピスは微笑みながら歌う。高く伸びやかに歌ったエルピスは、「このくらいで」と歌うのをやめた。

 歌を聴いた二人はぽかんとしていた。それから、わっと声を上げた。 


「聞いたことがない曲でしたが、素晴らしい歌でした」

「ホントすごかった! でも何て曲なんだ~?」

「ええっと……今作りました。すみません」

「「え」」


 キョウとクレイの声が同時に重なる。キョウが「スッゲー!」と興奮する。


「エルピス、顔は地味だけど歌は最高だな! 曲も自分で作れるなんて!」

「キョウ。容姿のことはどうでもいいでしょう。それより、どのように曲を作ったのですか?」


 そう問われて一瞬、エルピスは言葉を詰まらせた。

 99回の記憶。長い長い、あまりにも長い道を歩く中で、慰めのように作り、頼った歌。

 エルピスは眉尻を下げて笑った。


「……ストリートチルドレン時代に、暇つぶしに歌っていたんです。当時は曲とか、知らなくて」

「なるほど~、お前も大変だったんだな。でもさ! だったらこれからも沢山曲、覚えろよ。オレのお気に入りの曲とかさ!」

「キョウ……エルピスさんを蓄音機代わりにするのはやめなさい。だったら、私の休憩の時に聞かせてもらいたいものです」

「クレイ兄だって自分の為じゃんか」


 言い合う二人にエルピスは苦笑してなだめる。キョウはぶすっとして尋ねた。


「それで聞きたいことって何だよー?」

「兄上にはもう聞いたのですか?」

「はい……聞いたのですが」


 クレイが察し取ったように眉根を寄せる。


「どうせ事実だけしか言わなかったのでしょう。何を兄上から聞いたのかは分かりませんが」

「それが……ディルのお母様と、リョクシール様のことを聞いて」


 そこまで聞いてクレイは目を見開く。それから納得したように溜息を吐いた。


「そうですか……兄上は、未だに囚われているのですね。あの時から」

「……囚われている」


 キョウは悲しげな顔をして言った。


「オレはそん時、リョクと二才差だったからよく覚えてねぇ~けど……悲しい気分だったのは覚えている」

「キョウはその時7才でしたからね。リョクは五才。覚えていないのも無理はありません。それでおそらく兄上はこんな事実上のことだけを告げたんでしょう。母上は自殺した、リョクは殺された、復讐がしたい。その三点くらいでしょうか?」


 エルピスは頷く。それを見て仕方ないと、遠い昔を語るようにクレイは話し始めた。


「第五皇子リョクシール……リョクは穏やかで笑顔が愛らしく、心優しい子でした。そんなリョクを一番に可愛がっていたのが、兄上でした。リョクは母上の出産のとき、兄上が付き添って産まれました子でした。おそらくそれが関係しているのでしょう。キョウは良い意味でも悪い意味で天才で、放っておいても研究に打ち込んでいたのですが……リョクはキョウとは正反対でおっとりとし過ぎるくらい手がかかる子で、困ったら兄上と呼ぶような子でした。兄上のことを一番に愛していました。兄上もいつもそんなリョクに構ってばかりでした。とても優しい目をして」


 けれど、とクレイは言う。


「小雨が降る暗い朝のことでした。リョクの姿が城から消えました。すぐさま探されたリョクは……城の外の森で、遺体となって発見されました。何度も何度も刺されて……一番最初に見付けた兄上は血塗れのまま、リョクを抱きしめていました。兄上のあんな姿を見たのは初めてでした。追い打ちをかけるように母上が自殺し、兄上は血眼になって犯人を探しました。ですが9年経っても見つからないまま……兄上はおそらく自分の所為だと思っているのでしょう。長兄であり、神子でもありながらも、リョクを死なせてしまったんだと」


 そこまで言うとクレイは沈鬱とした表情を浮かべた。

 エルピスは9年か、と小さく呟いた。ディルは9年間も冷たい闇を胸に抱えてきたのか。闇を抱える痛みは、エルピスは痛いほど分かる。大切なものが奪われることも、殺されることも、悲しいけれどエルピスは理解できてしまう。99回、見てきた光景。でも回数や年数なんて関係ない。ディルは、深く傷を負っている。それがエルピスにとって、痛い。愛する人が痛みに苛まされているのなら、何かしたい。

 

 けれど、何かするということは、あまりにも傲慢なのではないのか?


 分からない。何をすべきなのか。エルピスは考える。そんなエルピスにクレイが言う。


「……いつか兄上の傷も癒えれば良いのですが……少なくともそれができるのは、私やキョウじゃないでしょうね」


 クレイはエルピスを見た。その目は真剣そのものだった。


「エルピスさん。兄上を救うとしたら、あなただ」

「……買い被りですよ。私はディルのことを、何一つ知りませんから」


 言葉にして寂しさを覚える。

 エルピスはディルのことを知った気でいた。けれど今の今まで、ディルの傷なんて知らなかった。だからきっと、ディルに関して他にも知らないことなんて一杯あるのだ。それが寂しい。

 エルピスは何も求めない。ただ恋をした相手であるディルが幸せならそれでいい。心からそれしか望まないのだ。それなのにディルはエルピスに優しくしてくれるだけで、傷なんて見せようとしなかった。ただディルは与えてくれるばかりだった。パートナーとして認めてくれる。キスを、してくれる。優しく頭を撫でてくれる。そういった喜びを与えてくれるばかりだ。対価なんて何もなしに。


 ──なんて恵まれているのだろう。


 エルピスは思う。恋しているというだけで恵まれているというのに、ディルはそれ以上を与えてくれる。与えてくれるのに、抱えた闇はエルピスに見せない。エルピスが、それを知って傷つかないように。


「クレイ様。私は、何ができるでしょうか……?」


 弱音ともとれる問いだった。けれどクレイは優しかった。


「エルピスさんはただ兄上の傍にいれば良いと思いますよ。だから──」

「クレイ様!」


 そう言いかけた時だった。

 使用人の1人が焦ったように中庭にやってきた。そのただならぬ様子にクレイは眉根を寄せた。使用人の手の中には古びた宝石箱があった。

 クレイは宝石箱を受け取って戻ると、埃を手で払う。キョウが言う。


「クレイ兄。それ何?」

「……母上の部屋から見つかったらしい。清掃の時、偶然落ちた聖母画の裏にあったとか……」

「でも兄上、隠すなんて明らかに……その……」

「言いたくありませんが、怪しいですね」


 クレイはそう言うと鍵穴を見た。鍵穴は風のエレメンツで封じられていた。クレイは火、キョウは水、となると開けられるのは四大元素を持つディルだけになる。

 

「とりあえず兄上の元へと行きましょうか」


 クレイの言葉に従って大広間に行くと、ディルがぼんやりと煙草を吸っていた。何か思い耽っているように見えた。


「兄上」


 クレイがディルへと声をかける。振り向いたディルは気怠げだった。

 クレイは机に例の宝石箱を置く。ディルは怪訝そうな顔をした。


「何だそれは」

「偶然、母上の部屋の聖母画の裏から見つかった宝石箱です」


 その単語に反応すると、ディルはすぐに宝石箱の前に立った。鍵穴が風のエレメンツで封じられていることに気付く。


「母上は風のエレメンツだったが……これは俺に開けろ、ということか」

「そうですね……開けますか?」


 ディルは鋭い視線でクレイを見た。


「当然だ。母上からのメッセージだ。聞かずにいる訳がない」

「……そうですね」

「あの……私もここにいて良いんでしょうか? ご家族のことですし」


 その言葉に金の双眸がじっとエルピスを見詰める。だが、その瞳は拒まなかった。


「いい。お前もここにいろ」

「分かりました」

「……開けるぞ」


 翠の風が鍵となり、かちり、と音が聞こえた。

 誰かが息を呑む音が聞こえた。風が止み、ディルはそっと宝石箱を開いた。

 中には手紙が入っていた。古びた手紙だった。


「遺書……でしょうか……?」


 クレイが眉根を寄せて、手紙の束を手にする。

 それから目を通していき、どんどんその表情が陰っていく。手紙を読み終わると、小さくクレイは息を吐いたあと──火のエレメンツで燃やそうとした。その行動にディルもキョウも驚き、すぐにやめさせようとする。しかしあっと言う間に燃えた手紙は一瞬で消し炭になる。ディルはクレイの胸ぐらを掴んで、睨み付ける。


「クレイ、お前。何をしている」

「……読む価値がないと判断したからです」

「価値……? ハッ、そんなもの俺が決める。【白のエレメンツ】よ──母上の手紙よ【有】れ!」


 消し炭になった手紙が再び構築され、ディルの手元におさまる。クレイは絶望したような顔をしていた。

 ディルは、ゆっくりとその手紙に目を通していった。



 それから──笑った。



「……クレイ。お前の言う通り、価値のないものだったな」


 そう言うとディルは歩き出した。冷たい声だった。今まで聞いた、どの声よりもずっと氷った声。

 反射的にエルピスはディルへと手を伸ばしていた。ディルを今、1人にしてはいけないと思った。

 だが掴んだ腕は振り払われた。

 金色の瞳が冷酷にエルピスを見ていた。


「──俺に触るな。邪魔だ」


 氷ったディルの言葉が、視線が、心に刺さる。心に血が流れる。けれど今は傷ついている場合じゃない。

 クレイが「兄上」とディルを追って立ち去っていく。エルピスはキョウと共に、クレイとディルが目にした母親の遺書に目を通した。



『ディルケンス。私は今らから告白しなければなりません。とても、大切な告白です』


 

 聞こえない筈のディルの母の声が聞こえた気がした。


『私はこれから酷い話しをします。これまで私は、あなたを傷つけ続けてしまいました。私はずっと貴方に隠していたことがあったのです。きっと貴方は絶望し、哀しみ、怒るでしょう。ですからこの宝石箱が見つかるか、見つからないか、神の御心に託したのです。ですがこれを読んでいるということは、見つかってしまったんですね。神エルは私の罪を白日の下にさらしたということでしょう。そしてそれが正しかったのでしょう。ディルケンス。本当に、ごめんなさい。私は、重い罪を犯してしまった』


 戸惑うような間がペンにはあった。

 けれどその黒いインクは、滲ませて、けれどはっきりと告げた。




『──リョクシールを殺したのは、私です』




 そんな、とキョウが悲痛な声を出す。エルピスは目を見開き、手紙の続きを読んだ。


『リョクシールは、灰の子でした』


 灰の子、と思わずキョウと2人で目を見開く。エレメンツを持たない、神に見放された存在。

 手紙は震えた筆跡で続く。


『灰の子が王室にいれば、リョクシールの人生は悲惨なものになったでしょう。いえ、王室から引きずり下ろされていたかもしれません。追放という言葉もあったでしょう。そして灰の子であるリョクシールがいることで、貴方たち兄弟も糾弾されていたかもしれません。灰の子がどのような処遇を受けているか。あなたも理解してる筈です。酷い言い方をすれば、奴隷が王室にいるようなものです。リョクシールが生き地獄に遭うことは、目に見えて明らかでした。私は、リョクシールを愛していました。けれど、リョクシールの未来を考えると。


 私は──恐ろしくて、耐えられませんでした。


 私には、すべてを守る力がなかったからです。成長するにつれリョクシールは自分が灰の子だと知り、絶望したでしょう。王室の中で生まれた異端児だと思い、地獄のような日々を送っていたでしょう。

 私は、深く悩みました。リョクシールが灰の子だと知るのは私だけでした。

 けれどリョクシールもエレメンツの公開を控えていました。もう、間近に。


 弱い私は、どうしていいか、分からなかったのです。

 いえ、どうすれば良いかは、分かってはいたのです。

 私は決断するしかありませんでした。


 この子が不幸にならない内に。

 誰にも頼らずこの母の手で、リョクシールを、殺さねばならないと。


 深夜のことでした。私はあの子を抱きかかえ外に出ました。それから冷たいナイフを持ちました。


 そして、リョクシールを刺しました。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 あの子が生き返られないようにナイフを突き刺しました。

 赤い血で濡れた私の手は、大罪人でした。私は冷たい雨に打たれながら、思いました。私は母親などではない。ただの殺人鬼だ、と。


 ……これから私は、我が子を手にかけた罰を受けます。勿論私の死によって、それであの子が戻ってくる訳ではありません。罪がなくなる訳でもありません。だからこれは、私の我が儘なのです。弱い心だからこそ耐えきれずに「死」に逃げるのです。


 ごめんなさい。

 ディルケンス。 

 本当に、ごめんなさい』



 涙の痕が残った手紙を丁寧にエルピスは折ると、元の宝石箱へと戻した。

 しんとした大広間でキョウは、なんだよこれ、と震える声で言った。


「9年かけて兄上が追っていた真実が、これかよ……9年も、リョクを殺していた奴を探していたのに、それが、母上なんて……」


 キョウは涙を零す。エルピスは言葉を失った。すべて灰の子がなければ、こんなことは起きなかった。エルピスはリョクシールが生きていて、五人兄弟が笑って過ごす未来を想像した。あり得た未来だった。それが閉ざされたのが──エレメンツを持たないというだけで。

 ディルの母も1人で思い悩んだのだろう。誰も困らせたくなかった。誰にも知られたくなかった。

 エルピスは投石されたことを思い出す。

 灰の子というだけで、一瞬で悪魔のように豹変し、殺意を剥き出しにした人々のことを。

 勿論、全員が全員、そういう人という訳ではない。


 けれどディルの母の言う通り、リョクシールが自分だけが神の愛を愛を受けない灰の子と知ったら?

 慕っていたディルは正反対に、神に深く配された神子だと知ったら?


 笑い合った兄弟は、激しい憎悪に変わり──悲惨な結果を生むかもしれない。


 そういった色々な可能性をディルの母はたった1人で考えていたのだろう。誰かに相談しても仕方ないと諦めていたのだろう。リョクシールが灰の子だという事実は変わらない。けれど、エルピスは相談すべきだったのろうと思った。たとえ灰の子であっても希望はあるのかもしれない、と。





***




 

 ディルが私室に閉じ篭もってから五日が過ぎた。

 完全に複合エレメンツで締め切った扉で、クレイやキョウは、毎日ディルを呼びかけて部屋から出そうとした。けれど返ってくるのは沈黙ばかりだった。一方、エルピスはディルの部屋に行けなかった。あの扉の奥にいるディルに拒絶されたら、と思うと怖かった。

 

 ──ディルは今、どんな哀しみを抱えているのだろう。


 毎日毎日、エルピスはそればかり考えた。食事もとれなかった。一睡も出来なかった。

 どうしたらいいのだろう、とエルピスは思った。

 何が、できるのか。

 考えて、考えて、苦しい思いになった。

 けれど時間が経つにつれ、違う、とエルピスは思った。自分は致命的な間違いを犯していた。


 ディルの拒絶が怖い?

 それは、違う。本当に怖かったのは──ディルの絶望を目の当たりにすることじゃないか?


 気付いたら弾かれるように部屋を出ていた。

 痩せ細った身体で、エルピスは駆けるような速さで、まっすぐディルの部屋に向かった。扉の前にはクレイとキョウがいた。2人はやつれたエルピスを見て、目を見開く。


「エルピスさん、こんな所で何をしているんですか。部屋に戻って休んでください!」

「そうだよ、エルピス……閉じ篭もっていたけど、そこまで、追い詰められていたなんて……」


 エルピスの憔悴しきった姿を見たからだろう。2人は部屋で休むよう行ったが、エルピスは笑顔で「大丈夫です」と言った。

 そしてその手を、ディルの部屋の扉へと翳した。

 複合エレメンツで強固された扉は負の感情で鈍色に染まっていた。重たい空気が伝わってくる。何もかもを阻む、強い力。その力に圧倒されそうになりながらも、エルピスは立つ。

 

「……クレイ様、キョウ様。後ろに下がっていて下さい」

「駄目です、エルピスさん! 流石の貴女もそんな衰弱した状態では、この扉を破るなんて……!」

「そうだよ! 今のエルピスじゃ、倒れちまうぜ!?」


 心配する2人にエルピスは笑う。


「でも私は、ディルのたった1人のパートナーなので」


 そうだ。ディルはエルピスのパートナーであり、100回目で漸く恋をさせてくれた──大切な人なのだ。

 エルピスはかざした手を集中させる。


「──【黒のエレメンツ】よ。眼前の扉のエレメンツを【無】くし給え……ッ!」


 詠唱した途端、強い反発がエルピスを襲った。

 重く、深い、絶望。

 一瞬で爪が割れて赤い血が噴き出す。ディルのエレメンツが、あまりにも強い。指の皮膚が鎌鼬を受けたようも裂かれる。これまで見てきたエレメンツの中で一番に強い力が、エルピスを叩きのめす。

 苦しい。縦横無尽に駆ける殺意がエルピスのなかで、棘のように駆けずり回り激痛を与えていく。


「…………ッ!」


 内臓が圧迫されて喀血する。赤い血がぼたぼたと口から吐き出される。クレイとキョウが止める声が聞こえる。けれど、引き下がる訳にはいかない。

 エルピスは押し返してくる力に対抗するように黒の力を全て注ぎ込む。目から涙のように血が流れ、立っているのもやっとだった。

 諦めない。

 ディル。

 指先から手の骨が砕ける。痛みが襲う。けれど痛みなど平気だ。


 ──ディルの、痛みに比べれば。


 愛しい人の、痛みに比べれば。


 エルピスは【無】の力を注ぎ続ける。窓が一斉に割れ、砕け散る。黒の力を跳ね返した衝撃で片足が折れる。奥歯を噛み締めて激痛に耐え、エルピスは黒のエレメンツを行使する。どうか、この声が届けというように。無くなれ、と。

 お願い。

 お願い、だから。

 あの人を孤独にしないで──……。

 エルピスは咆吼する。まるで獣のような咆吼だった。黒のエレメンツが最大限まで増幅し、空間が振動する。壁がひび割れ、外の世界も暗澹としたものになる。一瞬、黒い稲妻が走った。


 その時。


 ピシリ、と扉を覆っていたエレメンツがひび割れる。

 それは崩れ落ち、漸く扉は姿を現す。

 身体はもうぼろぼろだった。けれどエルピスは足を引きずり、扉を開く。室内は酷く酒臭い。エルピスは顔をしかめる。ディルは酒を呑みながら、じっとリョクシールの写真を見ていた。その目に生気はない。

 振り返ったディルは、エルピスを見ると目を見開いた。


「エルピス、お前……」

「これが第一皇子ディルケンス・ノヴァ……なんて、無様な姿」


 エルピスは血に濡れた鋭い目でディルを見据える。足を引きずりながらエルピスは言う。


「私の知るディルケンス・ノヴァと、今の貴方は、まるで違います」


 エルピスの言葉にディルは金色の瞳に殺意を滲ませる。

 投げた酒瓶が砕け散り、破片がエルピスの頬を切る。けれどエルピスは少しも動じない。


「黙れ……! 俺のことなど何も知らないくせに……ッ」 

「……いいえ。少なくとも私の知るディルケンス・ノヴァは気高く、勇気ある人です。与えられた困難を乗り越える強さを持つ人が、こんな醜態をさらす訳がありません」

「貴様……ッ生意気な口をきいて……!」

「殺しますか? 貴方に命を預けた私を」


 エルピスは懸命に歩く。ディルの瞳が彷徨う。


「それ、は……」

「答えに、迷いますか?」


 エルピスは一歩、また一歩と歩く。ぽた、ぽた、と血が落ちる。放っておければ、おそらく死ぬのだろうとエルピスは思った。折れた肋骨が痛い。肺が、ぜえぜえと音がする。けれど、目の前の人の哀しみを、拭いたい。エルピスは傷だらけになった姿で、ディルの前に立つ。


「……答えに迷うなら、私を殺しても構いません。生き抜くと覚悟した私ですが、あなたに殺されるなら受け入れましょう。私の死で貴方が少しでも救われるというのなら……ディル、あなたの痛みを私に刻んでください。あなたの痛みも哀しみも絶望も、私が全部引き受けます。その果てに死んだとしても私は──幸福です」

「────ッ」


 身体中、ぼろぼろになっっているのに、エルピスは穏やかに微笑んで抱擁する。


「ディル。好きです。99回の地獄の果てに、ようやく私は貴方に恋を与えられました。誰かを愛するという喜びを与えられました。口づけを与えられる幸福を、与えてもらいました……この言葉さえ伝えられたのなら、私は死しても未練はありません。ディル。好きです。……好きなのです、貴方が。だからどうか、私の知る、ディルケンス・ノヴァに戻って下さい」


 ディルの手が震える。その手がエルピスをそっと抱きしめる。その声は震えていたが、笑っていた。


「……そうだな。ここにいるのは、ただの無様な男だ。ノヴァ王国第一皇子であり神子である、ディルケンス・ノヴァではない」


 ディルは傷ついて血に濡れたエルピスを撫でる。


「エルピス。俺にとっての『希望』は……お前だったんだな」


 そう告げられエルピスは微笑んだ。

 良かった。本当に良かった。この人を、愛して良かった。

 エルピスは殆ど動かない手を持ち上げて、ディルの頬に触れた。


「良かった、です……私にとっての、希望も、ディル。貴方──」


 声帯が死ぬ。言葉が途切れる。持ち上げていた腕が落ちる。ディルは顔面蒼白で、医療班をすぐさま呼ぶ。

 嫌だな。また迷惑をかけてしまった。

 でも、目覚めることができたのなら、何も問題ない。

 怪我も痛みも全部、「無」くしてしまえば良いのだから。





***





 数時間、経った頃。

 手術が終わってディルとクレイ、キョウはすぐに医務長へと聞く。医務長は眉根を寄せる。


「まず肺の内臓破裂ですが、緊急性が高かった為、胸腔ドレナージで手術を執り行いました。それと胸部出血……肋骨が何本骨折し、内臓に突き刺さっていました。こちらは動脈塞栓術で処置し、経過を見る形ですね。それと眼球の結膜下出血ですが、本来は10日ほどで治るのですが、眼外傷なので何とも言えません。左足の粉砕骨折は治療が困難です。右手の中手骨頸部骨折は2ヶ月以上の期間を置いて癒合具合を見る形なのですが……」


 そこまで言って医務長は気まずそうに告げた。


「彼女をここまで暴行したのは一体誰です? 見えない打撲や縫合した大きな裂傷、割れた爪等を含めると、あまりに無残で正直医療従事者としても見ていて辛いものがあります……暴行した人間と引き離すことが彼女の為にも良いのですが……すみません。余計なことを言いました。それでは失礼します」


 ディルは、言葉を失った。

 また、だ。

 またディルはエルピスを傷つけてしまった。自分の所為だ。暴行。まさにエルピスに与えていることはそれだ。パートナーと言いながら、好意を寄せてくれているエルピスに与えるのは、いつも理不尽な痛みや哀しみだ。

 クレイが気遣うようにディルの肩に手を置く。キョウはどうしていいか分からないようだった。


「……誰も悪くないですよ。事故のようなものです」

「違う。俺が……結果的にエルピスを、傷つけた。いつも、そうだ」

「兄上……」


 医務室が開いたらしい。ディルはすぐにエルピスのいるベッドに近づく。


 息を、呑んだ。


 エルピスの姿は、口では言い表せないほど酷かった。痩せ細った身体は傷だらけで瀕死の患者のようだった。翠の目は包帯が巻かれて見えない。輸血を受ける手も骨が浮いている。開発されたばかりの風のエレメンツを利用した人工呼吸器が使われている。キョウが重い口を開く。


「……エルピス、兄上がいない間、ずっと食べることも眠ることもしなかったんだ」

「それなのに、お前は……」


 言葉がそれ以上、出てこなかった。

 ただ分かったのは、エルピスはこんな状態なのに覚悟した末に、ディルを救った。胸が引き裂けそうなほど痛い。自分よりも9つも下の少女に、救われて、そのくせ自分は傷つけて──最低の人間だ。


「……すまない。二人きりにしてくれないか」


 ディルの望みに、クレイとキョウは頷き医務室から出て行った。この医務室に入るのも三度目だ。一度目は麻薬捜査の時、二度目は投石された時、そして三度目は──今こうしてエレメンツを破り、ディルを助ける為だ。

 救ってくれようとした。

 命を賭しても、その痛みごと死して持ち帰る、と。

 それなのに、それに対して自分がやったことは、何だ?

 血塗れで、ぼろぼろになったエルピスを抱き留めることもせず、傍観し──最終的に彼女の優しさに甘えた。

 ディルは痩せたエルピスの手に、手を重ねた。果たして自分にエルピスに触れる権利があるのかは分からない。それでも、こうして傍にいることしかできない。それは自己満足の懺悔のようなものだった。情けなさに嫌気が差して、自嘲する。

 酷いことばかり、してきた。

 それでも信じて、ついてきてくれるエルピスが、心を豊かにさせた。

 だからディルはもう認めざるを得なかった。


 ──エルピスが、好きだ。


 エルピスを愛している。

 愛してしまった。こんなに年の差があるというのに、パートナーであると言ったのに、

 エルピスといると微笑んでいる自分に気付いた。幸福を感じていることに気付いた。そして──彼女の笑顔が、好きだと思った。


 あの時、エルピスもまた、自分のことを好きだと言ってくれた。死しても幸福だと。

 だが、エルピスの幸せの為にも、エルピスは、ディルと結ばれてはならない。ディルは自分が悪人だと自負している。そんな悪人を、愛しく、清らかな彼女と結びつけたくない。エルピスにはもっと良い人がいる。勿論、それはエルピスを諦めるということになる。

 けれどディルは、エルピスが幸せなら自分の幸せを手放そうと思った。

 エルピスが他の男を愛するなど、考えただけで胸が痛い。だが、こんなにも酷い男の傍に置いておきたくない。たとえ一緒にいても、それは恋愛ではなく、友愛であればいい。恋という単語を隠しておけば、良きパートナーであり友人であれるのだから。


 けれど。

 それなのに。


 ディルは俯く。頭では分かっているのに感情が追いつかない。


「……ディル……?」


 声が聞こえて顔を上げれば、人工呼吸器越しにエルピスの唇が動いた。


「エルピス……ッ」


 くすくすと、弱々しく笑う声が聞こえた。


「いや、だなぁ……ディル。こんなの、エレメンツを使えばすぐに治りますよ」


 エルピスは身体を起こそうとする。けれどその身体は力なく崩れる。咄嗟にディルはその身体を受け止め、その軽さに愕然とする。エルピスは「仕方ないなぁ」と言うと、寝たまま詠唱をする。


「黒の、エレメンツよ……痛みも怪我も全て、治し、たまえ」


 僅かに、ゆっくりとエルピスの身体から傷が消えていく。けれど完全にはなくならない。エルピスは鬱陶しいというように目元を覆う包帯を取った。微かに腫れて赤色が滲んでいる。けれどその翠の目の色彩は失われていないままだった。それに安堵する。

 エルピスはぼんやりとした目で、僅かにしか動かない手を見る。


「あれ……? どうして、だろ……」

「……あれだけのエレメンツを使ったんだ。使えるようになるまで数日はかかる」


 エルピスの目がディルを捉える。安堵したように細められる。


「よかった」

 

 心からエルピスは言う。


「ディル……ちゃんと、いつもの、ディル……ですね」

「……ああ。お前のお陰だ。すまなかった……こんなに、お前を傷つけた」

「いいえ……まだ、ディルの傷は、残っています。私は……無力です。貴方をあらゆる哀しみから守りたいのに、私には、それが……できない……ごめんなさいディル……私は、貴方が幸せであれば、それだけで、いいのに」


 どうして私は何の力にもなれないんでしょう────。

 エルピスの翠の瞳から細く透明な涙が流れていく。

 

 ディルは言葉を失った。それは俺の台詞だ、と言いたくなった。

 過去の自分に詰問したい。何故お前は、エルピスにパートナーという「呪縛」をかけてしまったのかと。

 それがなければこの娘は本当の自由を知っただろうに。

 ディルケンス・ノヴァという「呪い」によって、エルピスは自責しながら傷つき続ける。


「……エルピス、すまない」


 何度謝っても、もうきっと手遅れだというのに、それでもディルは謝罪する。

 けれどエルピスは、その謝罪を違う意味で捉えたらしい。


「大丈夫ですよ。あと数日すれば、何も【無】かったことになるんですから。そんなに悲しい顔をしないで下さい」


 違う。違うんだ、エルピス。

 エルピスは、ディルを好きでいる限り、決して幸福になれない。

 だからこそ、ディルは言えない。


 お前が好きだ、と。


 


ここまでお読み下さってありがとうございました。

今回長くてすみません;;

よければ高評価、ブクマお願いします!

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