初恋
街に出る、との言葉に思わずエルピスは目を瞬かせる。
「ディル、どうして街に出るんですか?」
「用があってな。それと、ああいった堅苦しい空気を家に持ち帰りたくない」
ディルはクレイの姿を解いて、いつもの姿に戻る。
しかしエルピスは修道服のみしか持っていない。困っていると、ディルはじっとこちらを見たあと、
「……衣服よ【有】れ」
指を鳴らした途端、修道女姿から一瞬でカジュアルなドレス姿になる。紺色をベースにした、愛らしい小花が散ったドレス。それだけで嬉し気分になる。ありがとうございます、と笑顔でディルに言えば、ディルは視線を逸らし「そうか」とだけ答えた。
けれど、何故町に出るのだろう。
「ディル、用というのは」
「黙れ」
一蹴される。用、とエルピスは繰り返したあと、ディルの瞳が金から茶になっていることに気付く。
「あ、今、ディルはルディナ侯爵ですか?」
「そうだな。これが一番動きやすい。俺が好き勝手やっても文句言われないしな」
理由がディルらしくてエルピスは苦笑する。馬車が動き出して、暫くしてからディルは言う。
「用といったが、あれは視察のことだ。そのついでに……お前に褒美をやろうと思った」
「褒美……ですか?」
きょとんするエルピスはディルは茶の瞳で視線を寄越す。
「ああ。今まで何の褒美もなかったからな。好きなものを買ってやる。宝石でも城でも何でもいい。言え」
「……し、城は有り得ないです……なと好きなもの、というより……その……」
「なんだ」
はっきりしないエルピスに明らかに面倒くさいという目でディルが見る。その目に背を押される形でエルピスは答えた。
「……お酒を、ディルと一緒に呑みたいです」
「そうか。それじゃあ今からリストランテ・ディ・アーノを貸し切るか」
五つ星レストランをあっさり貸し切ろうとするディルに、慌ててエルピスは止める。
「そ、そういうのじゃなくて!」
「それなら何だ」
刺すような視線でディルがエルピスを見る。エルピスは変な汗をかきながら思い切って言った。
「もっと庶民的な……街のバルとかに行ってみたいんです」
しんとした静寂が落ちた。
エルピスはやっぱり我が儘を言わないで、何か無難なものにしておけばよかったと激しく後悔した。ふう、とディルが溜息を吐き出し、びくりとエルピスは身体を震わせる。だがディルが口にしたのは予想外のものだった。
「そうか。それならルディナ侯爵の形は使えないな。レティン伯爵でいいだろう。留学中だし、元々放蕩息子だしな」
「えっ」
言うなり、冴え冴えとした青い瞳に変えた。そんなディルを見て、エルピスはぽかんとする。ディルは眉根を寄せて「何か不満か?」と不機嫌を露わにする。エルピスは慌てて否定する。
「いえ、ディルはそういう場所を嫌がると思っていたので驚きました」
「街の視察もするからな。こういう場所で密売の話しが上がることはよくある」
「成る程。社交界で密売されているよりも、品質の悪いものが売買されている可能性がありますね」
ストリートチルドレンの時も粗悪なドラッグの運び屋をしている子どもや、思い出したくはないが娼館に売られた子どももいた。ディルは頷き、話しを続けた。
「その可能性は十分ある。労働階級以下の身分の者が上流階級に危険物を受け渡すパターンも今まであった。俺が売人役で伯爵を捕まえた時は爽快だった。こちらを下と見て舐め腐っていたからな。正体を明かした時に青ざめ、ひれ伏し、許しを乞う姿といったら、今思い返しても愉快だ」
「……相変わらずですね」
皮肉をこめて言ったつもりだったのだが、ディルにとっては褒め言葉だったらしい。目が愉快そうに弧を描く。
「お前だって同じ資質を持っていると思うが?」
「私は善良な市民です」
「善良な市民は優しいパートナーに水をぶっかけるのか。新しい流行だ。覚えておこう」
う、とエルピスは声を詰める。どうやら根に持っているらしい。あの時は何でもないと言ったような顔をしていた癖に、この目は決して一度定めたターゲットを見失わないのだ。そのターゲットの内の人の1人に、今、エルピスは加算されてしまった訳だが。
馬車を止めて歩いている内に飲み屋街へと入っていく。陽は落ちつつあるが天気が良い為、オープンテラスで酒を楽しむ人も多い。エルピスは洒落たバルを見ながら「あそこはどうです?」と指さした。バルの中でも上品で、趣きがある。
「好きにしろ。お前の褒美だ」
「ありがとうございます。それじゃあそこにしましょう」
開け放たれた店内は、テラス席とカウンター席に分かれていた。折角だしと風通しのいいテラス席を選んだエルピスは早速、オードブルや果実酒を嬉々として選んでいく。だがふと我に返って、ちらりとディルを見た。ディルは街全体を観察していた。そういえば視察するとも言っていた、と思うと自重しなければならい気がしてくる。それにディルは気付いたようだった。
「気にするな。どうせお前のことだ。俺に気を遣っているんだろう? だが気にするなら、俺の好む酒をお前が選んでみろ。ヒントは店内にあるものだ。外したら今度こそ断頭台にのせる」
「……厳しすぎませんか?」
「神は超えられない壁を人に設けないと言う。だからお前も超えろ」
「ディルは神様じゃないじゃないですか」
言った途端、冷酷な目と、相反して「そうだな」と優しい微笑みが向けられる。怖気が立つ。
仕方なくエルピスはディルの好みを探る。本当にこれは当てないと駄目なやつだとエルピスは真剣に考える。まずディルは愛煙家だ。愛煙家ということは甘い果実酒という可能性は低い。そうすると残るのはウイスキー、ワイン、ビール。店内の方を見るとショットグラスはない。なのでショットグラスで飲む類いのお酒では無いということだ。
ここで三択になる。ウイスキー、ワイン、ビールの三種だ。
ウイスキーのロック。似合う。ワイン。似合う。ビール。少し似合わない。これは完全にエルピスの直感だ。ビールだったらビールの神を恨もう。あとは、明らかに個人所有のワイナリーがある。誰のものか知らないが──もう二択。賭けるしかない。
「分かったか?」
楽しげにこちらを見ていたディルが、正解を心待ちにしている。
「決めました」
「黒のエレメンツは使ってないな?」
「あ」
その手があった。くつくつとディルが笑う。
「使うことを禁止していないというのに……随分長考しているかと思えば馬鹿者だな、お前は。それで答えは?」
「…………ワイン」
すっと刃のようにディルの芽が細められる。
「残念ながら不正解だ。ワインはクレイが好む。俺はウイスキーのロックだ」
「……そうでしたか……」
「だが俺は寛容だ。お前がテキーラのショットを、向かいの店で呑んできたら許そう」
「寛容……? テキーラのショット……? 私、潰れてしまいますよ……?」
「それが面白いから良い。ほらさっさと行け」
エルピスの意見なんて無視してディルは向かいの店に送り出す。屈強な男たちがいるからショットくらいあるだろう。
その時、テラス席の別の席から声がした。
「ねぇ、あの子見た? とうとう彼氏に愛想尽かされちゃったみたい。フラフラ歩いて行ってカワイソー」
「確かにあの二人、全然釣り合っていなかったもんね。でもさ、多分片方は仕事のパートナーなんでしょ、きっと。じゃなきゃ美形が一緒にいる訳ないでしょう」
おそらくエルピスとディルのことだろう。苛立ちが募る。けらけらと女たちが笑う。
女達はエルピスのことを散々けなす。嘲笑の的だ。
「あー、でもパートナーか。それなら納得。でもパートナーでもあんな冴えない、仕事もできなそな子と組まされて可哀想」
やっぱり不細工だしねー、と。
ディルは、一瞬で、切れた。
ディルはグラスを手に立ち上がると、2人のもとへと行く。爽やかな微笑みと共に「同席しても?」と言うと2人は「ぜ、ぜひ」と顔を真っ赤にして慌て始めた。一方のディルの心は荒れ狂う吹雪だった。
1人はブロンドで豊満な身体、もう1人は赤毛でスレンダー。顔立ちはどちらもそれなりに良いが、厚化粧だ。ディルは2人に微笑んだまま尋ねた。
「君たちはよくこの店に?」
「は、はい。ここ、オシャレだし、お酒も美味しいし」
「そうだね。ああ、そういえば名乗ってなかったね。僕はルチル・デュ・レティン」
「レティンということは……もしかしてレティン伯爵様!? だったら夢のようだわ!」
ディルは照れるふりをする。
「伯爵と言ってもこんなふうに素敵なレディとお酒を楽しむ放蕩息子だよ。そういえば忘れていた。レディに失礼だったね」
ディルは2人の手の甲にキスをする。今すぐ口を濯ぎたかったが、これは布石に過ぎないので耐えた。
「私はアン・カナージョ。アンとお呼び下さい」
「私は、ジェシカ・アルバディオールと申します。どうぞジェシカと」
「アンにジェシカか。2人とも素敵な名前だね。君たちみたいな愛らしいレディに会えるなんて夢みたいだ」
本当に夢みたいだ。ここから突き落としてやるのが。
ディルは赤毛のほうのアナに声をかける。
「アン。君は随分スタイルが良いみたいだけど、やっぱり努力しているの?」
「ええ、朝から晩までヘルシーな食事をして、運動だってしていますわ。女性は努力しないと」
ふうん、とディルは感心したふりをする。
「偉いね。女性としての美を追究するって大変だ。──ああ、ジェシカ。君は何かやっているの? 君も運動を?」
じろりとわざと爪先から頭のてっぺんまでディルは見て、にこりと笑う。
細身のアンに対し、胸が豊かとはいえスタイルが良くないジェシカにとって、この質問は苦い。くすりと意地悪くアンが笑う。どうやらこの2人の関係は上辺だけのようだ。
問われたジェシカは、なんとかしてディルに気に入られようと必死に答えた。
「そ、そうですね……私はアンと違ってありのままでいたいので。最近また、胸元が苦しいんですの。洋服を作り直さなくちゃ」
「へぇ男性にとっては魅力的だ。セクシーな女性って良いよね、分かるよ」
これでジェシカの機嫌は上がり、アンの機嫌は下がる。まるでシーソーゲームみたいだと内心ディルは笑う。
「伯爵様はどのような女性が理想なんですか?」
「んー……そうだなぁ」
ディルは考えたふりをして、答えた。
「笑顔が素敵な人がいいな。そう、君たちみちにね。ちなみにだけど、君たちの長所ってどんなところ?」
予想斜めの質問に2人は躊躇うが、ディルの優しい微笑みを見て安堵したんだろう。
先にアンが答える。
「知恵があることかしら。私、学生時代は勉学に打ち込んでいたので……成績はオールAでしたわ」
「私はピアノかしら? 4才の頃から習っていますから。やっぱり知識より感性のほうが女性にとって大事よね」
2人は得意げに笑っているが腹の底では睨み合っている。これからその笑顔さえも粉々にされることにも気付かずに。
まず才女ぶるアンに対し、ディルは目を細める。
「そっか。じゃあアン。きみは、a0/2+sigma k=1 ancos/2πnx/T+bn sin/2πnxT が解けるくらい勉強したんだね。偉いよ」
「えっ……今なんて……」
聞いたこともない数式にアンは慌てふためく。そんなアンにディルはわざと眉根を寄せる。
「え……フィルギリッジ方程式のことだよ。もしかして勉強してたっていうのは嘘? だってこのくらいペンが無くても解けるだろう?」
「すみません……そこまでは、私知らなくて……」
慌てるアンに落胆したようにディルは言う。
「そっか。王立では解けて普通のことだったから、当たり前だと思ってしまったよ……ごめんね? 少し期待し過ぎたかな」
実際、ディルはこの問題がペンがなくとも解けてしまう。それは試験前、キョウがブツブツ数式を唱えながら王室中を歩いていたので、嫌でも頭に叩き込まれてしまったのだ。なので嘘ではない。アンは顔を恥辱と怒りで真っ赤にしていた。
そんなアンの失態に小さく笑うジェシカへと今度は言う。
「ジェシカはピアノが長所って言っていたけれど、どのくらいの腕前なんだい?」
「そうですね。恥ずかしながらシュタインの『ル・レジェスト』くらいなら余裕──」
「じゃあ、ラルシュカペーレの『円舞第三楽章』くらい弾けるよね? そうだ! これから僕の家で聞かせてくれないか? 僕、『円舞第三楽章』好きなんだ。楽しみだなぁ」
ラルシュカペーの『円舞』は最高難度の曲だ。
ディルが言った曲名を聞いた途端、ジェシカは顔を引き攣らせる。
「い、いえ、申し訳ありません……『円舞』は、流石に……」
「もしかして弾けない? そっか……自信あるように見えたからてっきり……」
わざと失望したふりをする。気分が急降下するジェシカに、今度はアンが「ざまぁみろ」というようににやつく。ディルは全く悪気なんてないというように、爽やかに微笑み続けていた。折角伯爵にお近づきになれたのに空気が悪くなりつつことに慌てたのだろう。2人が、慌てたように言う。
「は、伯爵様は、笑顔の素敵な女性という人以外だと、どんな人がお好きなんです?」
問われたディルは酒を傾けて艶やかに笑う。その見たことも無い表情に2人はときめく。
「そうだなぁ。ブロンドいいし、赤毛も可愛くて素敵だな。スタイルには実はこだわりがなくて、僕は心の清い人が好きだ。得意なことがなくてもいいし、趣味もなくてもいい。ただ僕に寄り添ってくれる優しくて明るい人。……そんな人がいるのが理想だし、幸せかな」
「伯爵様……」
熱っぽい視線と声がディルへと送られる。ディルは酒を置く。カラン、と氷が鳴った。
ディルは「優しい」。煙草を取り出して、加えて、吐き出す。
そうしてディルは、どこまでも「優しい」ような笑顔で、言った。
「まぁ──お前らのような馬鹿をからかう事が、何よりも最高に愉快で幸福だがな」
にっこりと、ディルは笑顔で言った。
ただその目に慈悲はなく冷たい。鋭い殺意を宿した瞳に、ひっ、と2人が小さな悲鳴を上げる。
ディルはカウンター席で、2人を値踏みするように見た。
それから、やれやれというように煙草の煙と共に溜息を吐き出した。心底、うんざりしたように。
「しかし喧しく醜いガチョウと豚だな。いやガチョウと豚に失礼か。動物に例えるのは難しいが、少なくともその厚化粧をひっつけて、堂々と街を歩ける勇気は賞賛に値するな。ああ、勇気があるといえば──俺のパートナーを愚弄したことについてだが、近々名誉毀損で賠償金を請求することにしよう。幸い、裁判所とは仲が良くてな。だが俺は慈悲深い。十年にしたい所だが請求額は三年かけて返せるくらいの額にしておこう」
煙草を灰皿でもみ消し、ディルは興味なさそうに言う。急変したディルの態度と、突きつけられた金額に慌てた2人が声を上げる。
「なっ、何を言って、そんなことができる訳ないでしょう!?」
「そうよ! たかだか小娘ひとり馬鹿にしたって──っ」
顔を真っ赤にして抗議するアンとジェシカを、冷酷な目でディルは見る。どこまでも冷ややかな目で。
ディルのその薄い唇が、笑顔の形で弧を描く。
「安心するといい。一週間も経たない内に請求書が届く。届いた瞬間が──夢が覚める瞬間だ」
***
「……ディル、何してんだろ……」
テキーラのショットを飲み終えて戻ろうとしたところ、女性2人と同席しているディルを見て戻ってしまった。談笑する3人を遠目に見て、エルピスはひたすらテラス席で果実酒を飲んでいた。顔が火照ってきて、酔っ払ってきているのは分かっていても、酒を頼むのはやめられない。
「いやだなぁ……」
自分ではない女性と話しをする姿。皆、垢抜けていて素敵な女性だ。ディルがその甲にキスをする。嫌だな。見たくない。エルピスはなんだか泣きたいような気分になった。褒美だと言った癖に、エルピスは放っておいて他の女性と喋っている。こんなことになるなら街に出ないで城に戻れば良かった。
「──あら、お嬢ちゃんひとりで呑んでるの?」
不意に上品なおばさま達に話しかけられる。陽気で優しそうな人だ。酔っ払っているのもあって、席をすすめてしまう。
「ええ、まぁ……」
「何か悩み事でも? 辛気くさい顔してちゃ男も逃げていくわよ~」
けらけらとおばさまの1人が笑う。はぁ、とエルピス溜息を吐き出す。それによって、エルピスの悩みが恋だと察したらしい。おばさまの1人が「あらまぁ」と楽しげに声を上げる。
「どんな男性かしら? あなたみたいなキュートな女の子を悩ませるなんて」
「いえ……そもそも、恋か、分からないんです。そのひとが、好きかどうか……」
「えっ」
おばさま方が目を丸くして、口元に手をやった。
「恋が分からないって……あなた、だれも好きになったことがないの?」
「はい……でも、ディルが……いえ彼が、他の女の人と喋ったり、触れ合ったりすると、いやだなって思うんですけど……それが仕事上の付き合いでそう思うのか……」
吐露すると、おばさま方は一斉に笑い出した。
何故笑われているのかとエルピスが目をぱちくりさせていると、おばさまの1人が愉快そうに言った。
「なんだ、いやね~! そんなの恋に決まっているじゃない! 誰だって分かることよ~」
あまりにもあっさりと言い切られて、エルピスは慌てる。
「で、でも、私ぜんぜん釣り合ってなくて」
「そういうこを考える自体、恋だっていうの! でも初恋っていいわね~」
脳裏にディルの姿が過る。エルピスを見詰める瞳。エルピスのことを呼ぶ声。そして、抱きしめてくれること。
全てが熱をもって思い出されて、エルピスの顔は真っ赤になる。
「初、恋……?」
信じられなくて繰り返してしまう。エルピスは、ディルが好き。ディルを──独占したい。
次々出てくる自分の感情に追いつかず、エルピスは混乱状態になる。けれど周囲にいたおばさま方は祝福するように言う。
「羨ましいわぁ~、初恋ならこれからも楽しいこと、いっぱいじゃない!」
「そ、うなんですか……?」
「ええ。私も何度も恋をしたことがあるけれど、初恋が一番素敵だったわぁ」
そうやっておばさま方は言うと、果実酒を人数分頼んだ。
「それじゃ初恋のお祝いね! おめでとうの乾杯しましょ!」
「ええ、ちょっと、待ってくださいっ」
「ほらほら照れないで! 素敵なことなんだから。恋っていいものよ!」
果実酒を手に乾杯する。ほわほわとする意識の中で、エルピスは果実酒を飲む。
そっか。
自分は──ディルが、好きなのか。
エルピスは漸く心の中にあって、けれどなかった単語を見付けて、じわじわと喜びが滲んでいく。けれどディルに恋していると分かってしまった今、どうディルと接したら良いのだろう。エルピスはその相談をおばさま方にしようとした所で。
「エルピス」
聞きたかった声が聞こえ、心が甘く跳ねる。
「そろそろ帰る、ぞ……?」
おばさま方の視線に気付いたのだろう。怪訝そうに眉根を寄せるディルに、おばさま方は「美形って罪作りな男よねぇ~」と笑っていた。それに対して、「本当にそうですよねぇ」とへらへらとエルピスも笑ってしまう。
「……エルピス、立てるか?」
「え~、どうでしょうねぇ……でもまだ全然飲めますよ!」
若干呂律が怪しいエルピスに、ディルは溜息を吐いたあと、通信機で諜報用の車を手配する。ほどなくしてやってきたチョコレート色の車にエルピスを乗せると、おばさま方が「がんばってね~」と手を振ってくれた。へらりと笑ってエルピスも手を振り返す。
車を走らせ始めると、ディルはエルピスへと言う。
「少しは気晴らしになったか?」
おそらく世界樹であったことについて言っているのだろう。ぼんやりした脳でもエルピスは理解できた。できたからこそ、ツンとした態度をとってしまう。
「気持ちはありがたいのですが全然気晴らしになりませんでした。むしろ、さくあくです」
エルピスは思うがまま言う。
「褒美だって言っていっしょにお酒でのもうっていったのに、ディルはずーっと違う女の人とお酒をのんでいたし。これのどこがご褒美なんですか? ずーっと放っておかれて、あのおばさま方がくるまで、ぜんぜんたのしくなかたです。嘘つき、ディルは嘘つきです。それともひとりぼちの私が見たかったですか? ……たのしみに、してたのに……」
こんな子どもみたいなことを言いたくないのに、エルピスは言ってしまう。ディルはきっとまた鬼のような目で、エルピスを「面倒だ」というように見ているだろう。馬鹿かと鋭く言葉が飛んできてもおかしくない。
それなのに、一向にその気配が無い。どうしたのだろうとディルを見ると、ディルは酷く困っているように見えた。こんなディルを見るのは初めて、エルピスはきょとんとしてしまう。
ディルは目を合わせないまま言った。
「……すまなかった」
こちらを振り返ってディルは頭を撫でる。その満月色の瞳は後悔しているように見えた。
「……俺はこういう時、どうしたら良いか分からない。許してくれとは言わない。だがその代わりに、何かしよう。エルピス。お前は何を望む? 今度こそ、お前にちゃんとしたものを──」
言いかけたディルの肩にそっと、エルピスは手を置く。その翠の瞳は少し悪戯っぽく笑っている。
「──キス」
ディルの金色の見開かれる。エルピスは楽しげに目を細めてもう一度繰り返した。
「キスしてください」
言葉とは裏腹に清い声でそう言う。エルピスは酔ってはいたが、泥酔してはいなかった。ちゃんと、エルピスは欲しいものを言っていた。だが、それをディルは冗談だと受け取ったらしい。
「………冗談はやめろ」
呆れたように言われ、少し傷つく。でも、笑う。
「すみません。調子にのりました。分かりました。ディルが嫌ならいいです」
「……何故こんなことを突然言い出した」
ディルの問いにエルピスは顔を綻ばせる。
「……幸せな事に、気付いたからです。であ、もキスはもう冗談でいいです。すみませんでした。ちょっとくらい困らせてやろうと──」
思って、という言葉は、唇で塞がれた。
触れる程度の優しいキス。
すぐにそれは離れていったけれど、エルピスの唇に、その感触は残っていた。
ディルは窓の外を眺めながら、何てことも無いふうに答えた。
「満足か?」
じわじわと熱が心を犯していく。それは弾けるようにエルピスの中できらめいた。
「はい、とても。とても、気持ちがよかったです。ありがとうございます」
嬉しくてたまらなずに笑顔でそう言えば、ディルは金の瞳を見開く。また目をふいと逸らされる。それが少し寂しいが、何度もエルピスは唇をなぞってしまう。果実酒よりもずっと甘く、とろけてしまいそうだ。
城に辿り着くと部屋までディルが送ってくれた。ディルの金の目が何を物語っているのか分からなかったが、怒っていないことは確かだったので安心する。エルピスは笑顔のまま頭を下げて告げる。
「今日はありがとうございました」
「ああ。……今日はもう寝ろ」
頭を撫でられてディルは立ち去った。そんなディルを見送って、エルピスは部屋に入るとぽつりと呟いた。
「……キス、してもらっちゃった」
本気半分、冗談半分で言ったことだった。ディルのことだから「馬鹿を言え」と冷たい目で一蹴されると思っていた。だからあのキスの意味が分からない。
「キスしちゃったなー……」
どうしてディルがキスしてくれたのか。その理由は分からない。ただ駄々をこねるエルピスを黙らせるためにキスをしたのか、それとも褒美としてちゃんとキスしたのか。
少なくとも、エルピスのことが好きだから、という理由はないだろう。どう考えても釣り合ってないし、あのディルが人を好きになるなんて正直、全く想像がつかない。
だが、どういった形にせよ、ディルにキスをしてもらった。
それだけで幸せで、どうにかなりそうだった。
扉を背をずるずると座り込んで、エルピスは言う。
「ディル、好きです。たとえ貴方が何も思っていなくても、好きです。幸せです」
心があたたかい気持ちになる。こんなのは100回目の人生で初めてだ。
99回の地獄を越えて、辿りついた世界で、大好きな人がてきて、キスもしてもらえて。
それが、ひとときでも、世界で一番くらいに──嬉しくてならない。
***
キスしてしまった。
自室に戻ったディルは酒を傾けながら思う。琥珀色の酒の中で氷が踊る。
何故キスしたのだろう。らしくもない。馬鹿だと一蹴すれば良かった。それができなかったのは、エルピスの、あの翠色の目だ。幸せそうにディルを見るエルピスの目。ピンク色に染まった頬や濡れた唇、潤んだ瞳。普段からは考えられない、甘い声。※漢字で「無い」と書ける「ない」は形容詞であり、存在を否定する意味を持つ。一方ひらがなでしか書けない「ない」は助動詞で、動作や状態を否定する。「食べるものがない」(形容詞)は「食べるものが無い」と書けるが、「パンを食べない」(助動詞)を「パンを食べ無い」とは書けない。形容詞の「ない」は反対語に「ある」が来るので、迷ったら「ない」を「ある」に言い換えられるか試してみるとよいです。
──『はい、とても。とても、気持ちがよかったです。ありがとうございます』
一体、エルピスは何を考えているんだ。
ディルは溜息を吐いて、エルピスの笑顔を思い出した。本当に幸せそうな表情をしていた。
普段困らせているから、仕返しでもしたかったのか?
それとも酒に弱そうな女だ。妙なノリで甘えてきたかったのか?
後者はあり得るかもしれない。99回の愛情なき過酷な人生の中で、新しく安息を得たのだ。愛情に飢えたていた子どもが、親のように慕うディルとハグやキスしたかった。普段抑圧された感情が、酒でストッパーが外れ、露わになってしまった。
エルピスは真面目だ。だから十分あり得る。
まさか9才も差がある自分に恋する訳がない。
問題は自分のほうだ。
何故、エルピスにキスをしてしまったのか?
褒美? からかい? 子どもをなだめるような、仕方ないという気持ち?
──「兄上はエルピスさんが好きなんですか?」
以前クレイに言われた言葉を思い出す。
──「人を好きになったことのない兄上には、分からないでしょうね」
クレイの言葉は的確だった。確かに、ディルは誰かを好きになったことがない。むしろ人間は面倒くさく、馬鹿らしい生き物だ。ディルは今までそんな人間ばかり見てきた。だからこそそんなものが、愛の対象になる筈がない。
けれど、おかしい。
ディルは自分の唇をなぞっておもった。ディルもまた、エルピスとのキスは──気持ちが良い、と思ってしまった。
酒を置く。溜息をついて、ディルは眉根を寄せる。
エルピスはパートナーだ。そして以前言ったように、ディルの内側の人間だ。大切な人間だ。
だが、エルピスは家族ではない。なのに、何故大切なんだ?
「……妹のようにとでも思っているのか……?」
だが妹のような存在に、キスはしない。
じゃあエルピスはディルにとって──どんな存在だ?
恋なんて単語が過ったが、ディルはすぐに、その単語に斜線をつけた。
少なくともそれは正解だ。
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