episode 24 悲劇の終点(5)
もう駄目だと思った。
母にさんざん殴られ蹴られた体は痛くて、ささらの上に覆い被さる兄をはね除けるような力なんて残っていない。
助けなんて都合のいいものは呼んだって来るはずが無いことだって分かっていた。それでも叫んで、助けを求めて。
けれどそうした瞬間。突如として驚く程大きな音が部屋中に響き渡ったのだ。
「ささら!」
「ささら様!」
かなめの向こう側から、よく聞き慣れた声がささらを呼ぶ。それを聞いた途端、彼女は堪えきれなくなったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
かなめがささらの上から退き後ろを振り返る。そこでようやくささらは向こう側の光景を目にすることが出来た。
重く分厚い鉄の扉は所々焼け焦げ、そして一部が凹んで床に落ちている。そしてその先、扉があったそこには、疲れたように肩を落としてこちらを見る見慣れた三人の姿があった。
その中の一人、めぐるが真っ先に部屋へと踏み込み、満身創痍のささらを見て酷く苦い表情を浮かべてかなめを強く睨んだ。
「かなめ、どういうことだ」
「久しぶりだね、めぐる」
「ささらから離れろ。お前、自分がやってることの意味分かってんのか」
「勿論。けれど、必要なことだから」
にこり、と薄く笑みを浮かべたかなめにめぐるが苛立ちを露わにする。すぐに一歩前に踏み出しためぐるだったが、しかし直後彼を押しのけるようにずっと無言だった柊が前に出た。その表情は感情が抜け落ちたように何もない。
「返せ」
一言だけ、そう口にした柊がかなめに飛びかかる。しかしかなめはそれを見ると、まるで狼狽えることなく自然な素振りで一枚の札を取り出した。
「! 柊様下がって下さい!」
茶々の鋭い声に反応して柊は咄嗟に足を止める。その瞬間、目の前でかなめが投げた札と茶々が投げた札がぶつかり、ぶわりと熱が弾けた。
目の前で突然燃え上がった炎に柊は咄嗟に腕で炎を振り払って下がる。焦げた匂いが鼻に付く。どうやら前髪が少し燃えたようだった。
「柊さん!」
「……あれ、随分札を投げるのが上手くなったんだね。昔はかがりに教えられてもノーコンだったのに」
一方、柊を燃やそうとしたかなめは平然とした顔で茶々を見ている。そのあまりにも落ち着いた様子に、以前のかなめを知る三人はぞっとして大きく顔を歪めた。
「あなたは確かささらの恋人でしたね。すみませんが諦めて下さい、ささらはこの家に嫁ぐので」
「嫁ぐって、ささらは妹だろ!?」
「分かってるさ。だから、何だ?」
「お前っ、」
「悪いが取り込み中だ。さっさと出て行ってくれないかな」
「断る」
「……邪魔だと言ってるのが、分からない?」
恐ろしく冷えた声と視線。先ほどまで微笑んでいたのは幻であったかのように表情を消したかなめは、今度は札を取り出したりはせず小声で何かを呟いただけだった。
「は、」
しかしたったそれだけのことで、三人は一瞬にして畳へと体を貼り付けられていた。全身に重石を乗せられたかのように体が押しつぶされる。めぐるは何とか無理矢理頭を動かすと、静かに自分達を見下ろすかなめを歯を食いしばって見上げた。
「な、んだよ、これ……お前、こんな力」
「父さんが死んだ今、この家の結界は僕の制御下にある。代々受け継がれてきたものを少し借りただけだよ」
邪魔なものは排除する。かなめがそう言って腕を振るうと、めぐる達は吹き飛ばされたように勢いよく背後の壁に激突した。
「兄さん止めて!」
「ささら、もう少し待ってて」
「兄さん!」
悲痛な声を上げて自分に縋るささら。そんな妹を振り返ったかなめは薄く笑みを浮かべてささらの頭を撫で、そして再度めぐる達の方を向いた。
「彼らを追い出したらいくらでも話を聞いて上げ――!?」
しかし振り向きざま、かなめは突如として頬に強い衝撃を受けた。
「こいつに触んな変態野郎」
あまりの衝撃に脳が揺れて一瞬意識が飛ぶ。そのままあっさりと倒れたかなめを見下ろして彼を殴った張本人――柊は一つ舌を打つとかなめを跨いで傷だらけのささらの腕を掴んだ。
「立てるか」
「柊さん、どうして」
「あ?」
「大丈夫なんですか? だってかな兄さんの結界が」
「さあな」
「さあなって」
「無理矢理動こうとしたら急に体が軽くなった。ま、どっかで貰ったお守りのご加護かねえ?」
肩に手を回されてなんとか立ち上がったささらがはっと目を見開く。それを見てにや、と笑った柊が「帰るぞ」と彼女を促してめぐる達の元へ向かうと、かなめが倒れたことで結界の効果が無くなったのか、涙ぐんだ茶々が真っ先にささらを抱きしめた。
「ささら様! 申し訳ありません……! わたくしがお守りできなかった所為でこんな目に」
「茶々……茶々だって私の所為で倒れて、大丈夫なの?」
「ええもう何ともありません!」
「嘘吐けふらふらな癖に」
「めぐる様!」
「二人ともぼろぼろなんだから大人しくしとけって言ってるんだよ。すぐにでも病院に担ぎ込んでやるからな」
怪我に障るから、と促された茶々が渋々ささらから離れる。そんな彼女を見て少し笑ったささらは、部屋を出ようとしてふと後ろを振り返った。
頭を押さえたかなめがゆっくりと起き上がろうとしている所だった。
「ささ、ら……」
「こいつのことは諦めろ。ささらはお前の玩具じゃない。遺産のことも全部親父が決めたことだ、こいつに当たるのも大概にしろ」
「ちがう……そんなの僕は」
「ささら、行くぞ」
かなめの声を振り切って、背を向けためぐるがさっさと歩き出す。壊れた扉を横切ってそのまま廊下へ出ようとしためぐるは、不意に目の前に飛び込んできた人影に反応が遅れた。
「何処にも、行かせない」
「な」
ぎらりと光る包丁が真っ直ぐめぐるに向かって突き出される。咄嗟に目の前の人影――母親の肩を突き飛ばした彼だったが、完全には避けきれずに包丁が掠めた腕から血が滴り落ちた。
「兄さん!」
「めぐる様!」
「何処にも行かせない。いかせない……足を切れば……いえ、殺してしまえば――逃げられないわよね?」
「……!」
ぶつぶつと一人呟いていた千歳が薄らと笑ってめぐるに駆け寄ったささらを捉えた。刺された兄に気を取られていた彼女がそれに気付いた時にはもう遅い。赤く染まった包丁はささらの胸に吸い込まれるように突き刺さった。
茶々が、柊が、めぐるが、そしてかなめまでもが動いたが間に合わなかった。
「……あ」
深々と、ささらの胸に突き立てられた包丁。時が止まったかのように誰もが動けず、誰もが言葉を失っていた。
「……ふ、ふふ、あ、あはは……これでいいのよ、これで……え?」
高々と笑っていた千歳の声が不自然に止まる。彼女の視線の先にあるのは、包丁が突き刺さって驚いた顔で固まっているささらの姿。その彼女が恐る恐ると顔を下に向けた。
包丁が突き刺さったはずの胸は、一滴の血さえ流れていなかった。
「な、なんで」
パキリ、と何かが割れた音がしたかと思うと包丁の先端が畳に落ちた。動揺した千歳がふらりと後ろに下がると、ささらの体から突如として禍々しいほどの黒い靄が溢れた。
正確に言うと彼女自身ではない。ささらがはっとして首に下げていたお守りを取り出すと、真っ二つに裂けた赤いお守りから次々と黒い靄が発生しているのが分かった。
「これは……この霊力は!」
何かに気付いたかなめが立ち上がった瞬間、その靄は一人の女を形作った。
「……ら、に」
長い黒髪、美しいというよりかは親しみやすい可愛らしい容姿は、生前と同じであって、違う。宙に浮き、毒々しいほどの黒い靄を纏った女はかつて見たことのないほどの憎しみと憎悪でその顔を歪め、大きな目を最大限まで見開いて千歳を凝視していた。
「ねえ、さん……?」
「さ、らに……」
ささらが唖然として呟いた言葉に、かなめは心の底から歓喜が沸き上がってくるのを感じた。後ろ姿でも分かる。あれは自分が心底愛した人の姿だ。
「……あはは! そうか! そういうことだったんだ! ささらの、君のお守りの中にかがりの魂はあったんだね! 道理でどれだけ頑張っても降霊出来ない訳だ! 死して尚妹を守ろうとずっと傍に居たんだからね!」
やっと見つけた、とかなめは抑えきれない衝動のままかがりに近付く。嬉しくて嬉しくてたまらない。ようやく彼女が目の前に居るのだ。それがたとえ――瘴気をまき散らす悪霊になり果てていたとしても。
「ずっと会いたかったんだ、かがり。ずっと――」
「ささらに、何をしたアアァァッ!!」
「!」
かなめが彼女に手を伸ばした瞬間、突如かがりを中心に強い衝撃が巻き起こった。彼女の傍に居た全員が――ささらも一緒に吹き飛ばされ、バチバチと弾けるような音が鼓膜を叩く。誰もが呆然とかがりを見上げるものの、彼女は依然として殺意に塗れた目で千歳を凝視し続けている。
「か、かがり、様」
「かがり! 少しでもいい、僕を――」
「許さない……ささらを傷付けるものは、全部――殺してやる」
かなめが必死に声を上げてもかがりはまるで見向きもしない。彼女の目には千歳しか映っておらず、そしてかがりは彼女に向かって右手を伸ばす。
「ぎゃ、あ、ぐ」
直後、かがりが纏っていた黒い怨念が千歳に絡みつき、その体を締め上げ始めた。霊感もない彼女にすらはっきりと見える娘の霊に千歳は顔に恐怖を貼り付けて必死に抵抗した。
しかしいくら拘束から逃れようとしても、その手は空を切るばかりで黒い靄は掴めない。それなのにどんどん体は締め付けられ、首は引き千切られんばかりにどんどん苦しくなる。
「死ね、死ね! ささらを害するものは全部!」
こんなことを言うような人間ではなかった。こんな鬼のような形相を浮かべるような娘じゃなかった。密かに恨んでいた癖に、娘のこんな姿を見せつけられて千歳は信じられない思いだった。
「死ね」
みしり、と首が音を立てたかと思うと意識が遠のく。
ああそうかと、千歳はこんな状況になってようやく自分の罪を意識した。かなめを守ろうとするあまり周りの全てを犠牲にしようとした。
だって仕方が無かった。かなめを守る為にはああするしかなかった。頭の中でそう言い訳する度に、眼前に現れたかがりが嫌でも目に入る。元来彼女は、罪悪感を抱かずに生きていけるほど強かな人間ではなかった。あの時、かなめがかがりを殺した瞬間に消し去った良心が、急に息を吹き返したようだ。
けれどもう、何もかも遅い。
みしり。
「――駄目ッ!」
息の根が止まる寸前、突然千歳とかがりの間に人影が割り込んできた。その人影が力任せに腕を振り回すと、かがりと千歳を繋いでいたどす黒い怨念が意図も容易く掻き消された。
一瞬にして体の締め付けが消え、千歳はぐらりと倒れ込む。
「……姉さん」
千歳の拘束が解けたことを確認した人影――ささらが悪霊になり果てた姉を見つめる。その憎悪に満ちた表情を見て、ささらは強く唇を噛みしめた。自分を守ろうとするあまり、彼女は憎しみに囚われ悪霊化してしまった。自分の所為で。
「姉さん、もうやめ」
「邪魔をするな!!」
「!?」
怨念を纏った手が大きく振りかぶられてささらに向かって振り下ろされた。反射的に飛び退いたささらだったが、予想以上に大きく膨らんだ黒い靄が鋭い爪のようにささらの頬を擦る。ぎらついた獣のような目は、ささらを捉えてなお殺意に満ちている。
「全部消してやる……ささらがもう傷つかないように」
「姉さん!」
「駄目だささら! かがりはもう――お前のことすら分からないんだ!」
「アアアアァァァッ!」
かがりが大きく叫んだ途端、彼女の周囲を無差別に怨念の黒が暴れ始めた。
「かがり様!」
「かがり……ねえ、かがり!」
誰の声も届かない。かなめがどれだけ叫んでも彼女は視界に入れもしない。
「かがり、かがり!」
せめて彼女の前に立とうと近付いても、いとも容易く部屋の片隅まで吹き飛ばされた。その瞬間、足が柱に叩き付けられ、鈍い音が聞こえた。
「……ああ」
ようやく会えた。ずっと会いたかった。なのに、彼女は一瞬ですら自分を見てくれない。生前と同じ、意識すらしてくれないどころか存在すら認識されない。
結局かなめは、彼女が死んだ後ですら報われないのだと嫌でも自覚してしまった。
「ささら様! 危ない!」
茶々の声に、ささらは眼前に迫った黒い刃を咄嗟に叩き落とす。しかしすぐに他の怨念の塊が次々と迫り、正確にささらの死角を狙ってくる。
元々ボロボロの体では躱せるはずもない。ささらは痛みを覚悟して歯を食いしばったが、だがささらを傷付けるはずだったそれらは全て、彼女に覆い被さった柊に叩き込まれた。
「、っぐ」
「柊さん!」
「気にすんな、俺にはあのお守りがある! だからささら……やれ」
「!」
「お前の姉さんが人殺しになっちまう前に終わらせろ」
はっと顔を上げたささらは柊を見た後、再び迫ってくる黒い怨念を振り払いながらかがりを見つめた。
その顔はやはり、生前では見たことの無いほど歪みきって醜いものに変貌していた。
「……」
「ささら……あいつを、頼む」
「もうこんなかがり様を見ていられません。ささら様に頼むのは酷だと分かっています、ですが、それでもお願いですからあの方を……!」
身を守るのに精一杯、いや守り切れてすらいない二人を振り返り、ささらは無言で右腕を振って彼らに向かう怨念を掻き消す。
「………………姉さん」
こんなのはただのエゴかもしれない。結果的に自分の所為で悪霊に仕立て上げた癖に、死にたくないから消すなんて酷いことかもしれない。
死んだ姉を、今度は魂すら消してしまう。――それでも、決めた。
「祓うよ」
「ささら受け取れ!」
視界の端から飛んできた青いお守りを掴み取り、ささらは怨念を撒き散らすかがりに向かって走り出した。
「殺す」
たった数歩で辿り着くような距離だというのに、その間があっという間に黒に染まる。ささらは握りしめたお守りを――強く霊力の籠もったそれをがむしゃらに振り回して強引に前に進む。
結局いつもの霊力のごり押しだ。それでいい。これが自分のやり方だ。
お守りに溜め込んだ霊力も全て使い切るように無理矢理怨念を押し出したささらは、防ぎきれなかった怨念に締め付けられながら大きく右手を振りかぶった。
怨念が晴れた先――かがりの胸に向かって、それは突き出された。
「――“悪霊退散”」
驚くほど静かに体にめり込んだささらの拳。かがりはそれをゆっくりと見下ろして呆けた表情を浮かべた。
その直後、部屋中に飛び交っていた黒い霧が少しずつ雪のように溶け始めた。かがりに纏わり付いていた怨念も消え、ようやく視界が開けたようにかがりはささらを見た。
「……ささ、ら」
「姉さん」
自分を消し去ろうとしている存在を前に、かがりは生前のように優しく微笑んだ。
「ささら……ささラ、サさ」
声にノイズが走った。顔がひび割れた。崩壊の始まったかがりを見てささらは泣きじゃくりながら彼女に手を伸ばし、しかし消滅を早めるだけだと思い至ってその手を止めた。
だが、引っ込めようとしたその手を引き、かがりはそのままささらを抱きしめた。
「! 姉さん」
「サ、さら……ササら、さ」
「っごめんなさい! ごめんなさい……っ! 私、ずっと助けてもらってたのに、守ってくれてたのに、嫌いって言って……殺して、しまって!」
あっという間に足が消えた。腹が消え胸が消え、手足が蒸発するように消滅する。それでもかがりはずっと、もう自我すら消え掛けてもひたすら妹の名前を呼び続けていた。
「……ささら――あイ、して」
「ねえさ――」
最期に見えたとびっきりの笑顔は、涙で滲んですぐ消えた。
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「ただいま……」
扉を開け、誰も居ない自宅へ帰宅した飛鳥はひとりそう呟いて重たい荷物を下ろした。
ようやく退院して帰ってきた我が家は少し埃っぽくて暗く感じて、どこか寂しさを覚える。
飛鳥は疲れた体を引き摺ってベッドに倒れ込むと、手を伸ばしてぎりぎり届く位置にある棚の引き出しから一つの白い小箱を取り出した。
箱の半分程から蓋を持ち上げて開けると、そこには銀色に光る指輪が入っている。
あの日、本当は食事の後にこれを彼女に渡すつもりだった。けれどかがりがささらを誘いたいと言って、そして結局食事は無しになって……もう二度と会えなくなって、渡せずじまいになってしまった。
「……かがり」
ささらに復讐すると誓ったあの時から、飛鳥はこの指輪を遠ざけていた。たとえ心の底からささらを恨んでいたとしても、この指輪持ったまま彼女の妹を害することはどうしても後ろめたい気持ちが拭えなかったから。
ささらを呪い殺して、その後はこの指輪と共に身投げするつもりだったなんて、かがりが知ったらなんと言っただろうか。
「……ん?」
指輪をじっと見ていると不意に何か物音が聞こえたような気がした。窓も開けていないのに部屋の中の何かが動いたような、妙な気配を感じるような。
実はこれは入院してから起こるようになったことだ。病院でも時々視線を感じたり、視界の端に何かが見えたような気がしたり。他の患者や看護師はまったくそんなことはないようで不思議に思っていたのだが、一度見舞いに来ためぐるにも尋ねてみたところ、彼にも同じものが見えていた。
彼曰く「霊感が強くなったのでないか」ということだった。
飛鳥は恋人のかがりとは裏腹に幽霊など一度も見たことはなかったし、見たいと思ったこともなかった。けれど、それでも……ほんの少し嬉しく思ったのも事実だった。彼女の見ていた世界を少しでも垣間見れたような気がして。
「何か病院から付いてきたのか……?」
それでもずっと何かの気配を感じるのは居心地が悪い。飛鳥はベッドから起き上がると、テーブルに指輪の入ったケースを置いてキッチンへと向かった。
こういう時は塩でも撒いておけばいいのだろうかと戸棚から買い置きの塩を探していると、飛鳥は不意に顔に風が当たったような感覚がした。やはり、窓は閉じているというのに。
――、くん
「!?」
ざわりと、風と共に耳に微かな声が擦った。気のせいだったかもしれないと思えるほどの小さな声。しかし飛鳥は、その声だけは絶対に聞き間違えることなんてありえない自信があった。
今、確かに聞こえたのだ。「飛鳥君」と自分を呼ぶ彼女の声が。
「かがり!」
飛鳥はすぐさま宙に向けて声を上げた。しかしそこには何も無い。物音一つしない。
辺りを見回しても先ほどまで感じていた気配はすっかり鳴りを潜め、それでも諦めきれずに彼女の名前を呼びながら部屋の中を歩き回る。
「かがり! かが……、あ」
もう一度ベッドの傍まで戻った所でかなめは言葉を失った。そして崩れ落ちるように膝をつくと、力の抜けた体で、四つん這いになりながらなんとかテーブルに近付く。
一筋、涙が伝った。
テーブルに置いていた指輪のケース。蓋の開かれたその中から、指輪だけが忽然と姿を消していた。
「……渡せた、のか……」




