episode 0 飲み込んだ言葉(2)
「……」
ささらは呆然と目の前の男を見上げていた。傘を差し掛けてくれた男は二十代くらいに見える、少し強面の男だ。
既にろくに物を考える気もなかったささらはそのままぼんやりと彼を見ていたが、やがて何も言わないささらに少し苛立ったように再度口を開いた。
「おい、聞いてるのか」
その声でようやく我に返ったささらは、今更になって目の前の男に怯えてびくっと肩を揺らした。
人が怖い。もう誰も彼も自分を責める人しかいないとすら思えて、ささらは咄嗟にその場から逃げようとした。ベンチから立ち上がり急いで男の前から姿を消そうと走り出し……そして、疲れ切っていた足が縺れ地面にべしゃりと倒れた。
地面が雨で濡れていた所為で顔も体も泥だらけだ。もう何もかも嫌になって再びぼろぼろと涙を流していると、不意に頭上からため息が聞こえたかと思うと顔に柔らかい物が押しつけられた。
「ったく、何やってるんだ」
ごしごしと押しつけられたタオルで顔を拭かれ、ようやく視界が開けたかと思うと先ほどの男が呆れた表情でささらを見下ろしていた。
ささらの思考が追いつく前に男は泥だらけのささらの腕を掴むと引っ張り上げて彼女を立たせる。相変わらず傘はささらの方に傾けたままで、男の服が雨で色が変わっているのが見えた。
それを見たささらは、咄嗟に謝ろうと口を開く。
「……っ!」
しかし、開かれた口から出て来たのは擦れた空気の音だけだった。
声が出ない。何度も話そうとしても全く声が出ず、ささらは喉の手をやって大きく狼狽えた。そして、そんな彼女の動揺に気付いた男は訝しげに眉を顰める。
「声、出ないのか」
「……」
ささらが小さく頷くと、男は少し困ったように小首を傾げた。しかしすぐに気を取り直した彼は「とにかく、ここで話すのも冷える」とささらの手を離す。
「来い、雨宿りと怪我の手当ぐらいは出来る」
「……」
「無理にとは言わんがな。来たければ来い、好きにしろ」
そう言って、男はささらの手に傘を持たせるとすたすたと公園の入り口へと歩いて行ってしまう。咄嗟に渡された傘を掴んでしまったささらはぽかんと口を開けてその背中を見ていたが、やがて男の後を追いかけた。
このままでは男の方が濡れてしまう。そう、頭の中で必死に言い訳をしながら。
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男の後を追ったささらが辿り着いたのは、さほど離れていない場所にあった三階建てのアパートだった。先導していた男は一階のある一室の鍵を開け、中に入るように促した。
「少し此処で待ってろ」
男はそう言って部屋の奥へと入って行く。彼の姿が見えなくなった所で、ささらはぼんやりと玄関に立ったまま再び喉に触れた。やはり、声は出ないままだ。
いつからこうだったのだろうか。最後に話したのはいつだっただろうか。考えようとするのに、今までのことを思い出したくなくて頭の中から思考を追い出そうとする。
声なんて出なくても同じだ。どうせ、ささらの言葉なんて誰にも届きはしない。ずっとそうだった。いつも自分は何も言えなくて、言葉を飲み込んで。
「待たせた、これで拭け」
男が戻ってきたところで思考が打ち切られる。大きなバスタオルを渡され、ささらはのろのろと髪や体を拭いて促されるまま家に上がった。
見知らぬ人間の家までついていくなんて普段だったら絶対にあり得なかっただろう。ささら自身人見知りで警戒心が強く、そしてかがりにも昔からさんざん「知らない人や妖怪について行ったら駄目だからね!」と言われてきた。
「……」
ささらに言い聞かせるようにする姉の姿が脳裏に過ぎり、胸が苦しくなる。
「手当するから顔見せてみろ」
椅子に座らされたかと思うと、目の前のテーブルに救急箱がどんと音を立てて置かれた。叩かれたり転んだりして擦り傷だらけの顔を男にじっと見られ、ささらはすぐさま目を伏せる。少々強面な男の顔立ちが怖いということもあるが、今のささらは正面から人の目を見る勇気はなかった。
「俺は柊。このアパートのオーナーだとか不動産関係を色々やってる」
「……」
「お前は……って、声出ないんだったな。訳ありなのは大体分かるが、家出か? 帰る家は?」
問いかけられた言葉に、ささらはきっと声が出せても何も言えなかっただろう。俯き、そして首を横に振った。あの家には、戻れない。またかがりの友人達が来るかもしれない、そしてもう両親も信じられないささらには、戻れる場所などなかった。
そんなささらの様子を見て、男――柊は小さくため息を吐いた。
「まあ何があったか知らねえが、落ち着いたら一度警察に――」
「!」
その言葉を聞いた瞬間、ささらはひゅっと息が詰まった。
頭の中で、取り調べ中の言葉がぐるぐると回る。かがりを殺したのはお前だろうと、さっさと自供しろと、恫喝する刑事の怒鳴り声が何度も何度もリフレインする。
違う、私じゃない、違う、違う、違う、私じゃ、私――
「おいっ!」
「っ」
柊に肩を揺さぶられて、ふっとささらの目に景色が戻る。息が苦しい。過呼吸のようになっていたらしく、頭がくらくらする。
「息を吸え、ゆっくり……そうだ」
背中を軽く叩かれながらささらは言われるがまま深呼吸をする。しばらくすると息苦しさは収まり、パニックになっていた頭は冷静さを取り戻していく。
「分かった。け……そこには連れて行かねえから、安心しろ」
「……」
「お前……ひとまず名前くらいは教えろ、呼びにくい」
顔や手足の手当が終わると、男はささらの前に紙とペンを差し出してきた。これならば話せなくても伝えられる。が、おもむろにペンを手に取ったところでささらはその手を止めた。
鬼怒田ささら、とそう書けばいいはずなのに出来ない。鬼怒田という名字は非常に珍しい。きっと今、テレビではかがりが殺された事件も報道されているだろうことを思うと、ささらの身元などあっという間に知られてしまう。
あの男が書いたという記事を見てしまえば、目の前の男もきっとささらを殺人犯だと考えるだろう。そう思えば、彼女が震える手で書けたのはささら、というひらがな三文字だけだった。
「ささらだな?」
「……」
「帰る家がねえっつったが、行く当てもないのか」
「……」
ささらは小さく頷いた。もう自分の居場所など何処にも残されていない。
「なら、しばらく此処に居ればいい」
……え。
さらりと告げられた柊の言葉に、ささらは声に出さずにぽかんと口を開けて彼を見上げた。酷く平然とした、何でもなさそうな顔をしている。
「今隣の部屋が空いてる。次の入居者が来るまで好きにしていい」
「……」
「なんでって顔してんな。まあ何だ、俺もお前を拾った責任がある。手当だけしてそのまま放り出すことはしねえよ」
「……」
「無理強いはしない、嫌になったら出て行けばいい。此処に居たければ好きにすればいい。お前の自由だ」
あまりにも自分に都合の良すぎる言葉に、ささらはこれは現実なんだろうかと疑った。
なんで、どうしてそんなことを言ってくれるのだろう。どうして、こんな生きている価値の無い自分に、ここまでしてくれるのだろう。
きゅるきゅる。
「っふ、」
ささらが戸惑っていても、心も体もぼろぼろになろうと、こんな状況でだってお腹は空く。咄嗟に両手で腹を押さえたささらを見て、一瞬目を瞬かせた柊は次の瞬間表情を崩して軽く噴き出した。
それが、ささらが初めて見た柊の笑みだった。
「腹減ってんならそう伝えろ。カップ麺しかねえが文句言うなよ」
そう言って少し笑いながら湯を注いで作られた何の変哲も無いカップ麺は、火傷しそうなほど熱くてしょっぱくて……すごく、美味しかった。
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柊はとても面倒見の良い男だった。
一見して厳つい顔立ちや少々荒い言動で怖い人間に見えるが、それだけではない。ささらの言わんとする所も早々に察してくれたり、しかしそれでいて適度に距離を取ってくれる。きっと隣の部屋という所もよかったのだろう。いくら甲斐甲斐しく面倒をみてもらっても、初対面の人間と長時間同じ空間に居るのは今のささらでなくても辛かった。
最初は何か見返りを求めてくるのではと疑ったが、それも次の日までだった。ただ単に柊という男は元々そういう男で、きっとささらでなくても彼は同じことをしていただろうと、人間不信に陥っていたささらでも分かった。
「……」
夕日が差し込んで赤くなった部屋で、ささらはぽつんと一人蹲るように膝を抱えた。
ささらがこの部屋に来てから一週間が経過している。その間も柊は毎日ささらの様子を見に来て、話し掛けてくれたり差し入れを持ってきてくれたりした。
ぼろぼろになった心では突然の優しさが受け入れられず、当初は戸惑ってばかりだった。しかし次第に柊の言動を受け入れられるようになり、世話を焼かれているうちにぐちゃぐちゃになっていた心が少しずつ修復されていくような感覚がした。
そして一週間経った今――ささらの心は、再び大きく揺らぎ、不安定になっていた。
柊に世話を焼かれる度に、何も無い部屋で時間を過ごすうちに、自分は一体何をやっているのだろうと心の奥底が問いかけてくる。かがりが死んだ、かなめが意識不明で目覚めない。そんな時に、自分は一人何を暢気に息をしているのだろうと。
思えば、姉が死んだというのにささらは悲しみに暮れてすらいなかった。そんな余裕などなかったと言えば言い訳でしかなくて、自分は本当に姉のことが好きだったのかと自分に疑いを持ち始めた。
あの日、大嫌いと言ったのが本心なのではないか。本当はかがりのことなんてどうでもいい、鬱陶しいとしか思っていなかったのではないか。
そこまで考えたささらは必死で首を横に振る。そんなことはない、自分は姉のことが大好きだった。確かに嫌に思うことだってあったけど、それでも好きの方が大きかった。
――本当に? だったらなんであの時、大嫌いって言って姉を傷付けたんだ。本当は妬ましくてたまらなかったんじゃないの? だって他の人だってそう言ってたでしょう?
「……」
――本当に死ぬべき人は、自分の方だったんじゃないの。
……そうかもしれない。いや、きっとそうだ。誰一人として、ささらが生きていて喜ぶ人などいない。めぐるだって双子の姉の方が大事で、ささらは彼女が連れてきたおまけに過ぎない。茶々だってそうだ。ささらはあくまで“友人の妹”でしかない。かがりがいなければ成り立たない関係なのだ。
こんな自分が、柊に世話を焼かれてのうのうと生きている価値などあるのか。彼は義理堅いから、あの日ささらを捨て置けなかっただけだ。それに甘えてこんな風に何もせずに一日を過ごして……本当に、生きているだけで余計な存在だ。
「……っ」
ささらは零れてきた涙を拭って立ち上がった。これ以上此処にいる訳にはいかない。どこか柊に迷惑が掛からない場所まで行って、そして――命を絶とう。
そこまで決意を固めれば、少しだけ息がしやすくなった。
ささらはそのままふらふらと玄関へと歩き出す。そうだ、書き置きはしておいた方がいいだろうか。いや、余計なものは残さない方がいいかもしれない。初めから嫌だったら出て行けばいいと言われているのだ、居なくなればそれだけで理解するだろう。
思考を纏めて靴を履く。そして玄関の扉を開けたところで不意に横から声が掛かった。
「ん? 何かあったか」
「!」
びくっと飛び跳ねそうになったささらが振り返ると、彼女はそのまま絶句した。
ちょうど隣の部屋に入ろうとしていたのは柊だ。仕事帰りか、どこか疲れた様子の彼は外に出てきたささらを見て不思議そうに首を傾げる。
――その、顔の奥にもう一つ、にたあと笑う女の顔が浮かんでいた。
「――っ!!」
「何だ? 悪いが少し疲れてるんだ、急ぎじゃなければ明日にしてくれるか」
ささらが必死で何かを訴えるように口を動かすが、当然声は出ない。そして柊もそう言って、ささらが止める間もなくさっさと部屋の中へと入っていってしまった。
「……」
咄嗟に部屋に戻って扉を閉めたささらは、背中に冷や汗が流れるのを感じながらずるずるとしゃがみ込んだ。
幽霊。それも、かなり性質が悪いもの。
一目見てそこまで見抜いたささらだったが、彼女は除霊に行くこともなく、ただただ頭を抱えて震えた。
鬼怒田の家は、言うまでも無く祓い屋の家系だ。ささらもその霊力の高さを見込まれて養子に入り、昔からその技術や知識を習得するようにと指導されてきた。
だた……高校生になった現在、ささらは未だに一体も除霊を行ったことがなかった。幽霊や怪異を前にすると手足が震え、頭が真っ白になる。札を投げようとする手はまったく動かず、結局いつも半泣きでかがりに助けられていた。
しかし、此処に……もう何処にも助けてくれるかがりは居ない。ささらの代わりに札を作ってくれる人も居ない。どうすることもできない。
何とか柊に霊のことを伝え、お祓いに行ってもらおうかとも考えた。しかし伝わった所で、彼が霊の存在を信じるかは別の話だ。ただささらが頭のおかしい人間だと思われて終わる可能性が高い。……そうなったら、もうきっとささらは本当の本当に完全に壊れてしまうだろう。
怖い。悪霊も、柊に拒絶されることも恐ろしい。でも、もし柊があの悪霊に祟り殺されてしまったら。だがどちらにしろ、ささらに除霊をすることはできない。
ささらは悩んだ。悩んで悩んで――突如として壁の向こう側がらがつん、と強く壁を叩く音が聞こえてその思考を止めた。
気が付いた時には夕日はどっぶり沈み、電気を付けていない部屋の中は真っ暗だった。その薄暗い空間の中に、何度も何度もがつんがつん、と壁に何かを叩き付ける男が連続する。
「――」
それだけではない。音に紛れて微かに焦るような男の声が聞こえた瞬間、ささらは今までの苦悩を全て頭の中から吹き飛ばして外に飛び出していた。
「……っ!」
柊の部屋の扉を開けようとしたが鍵が掛かっている。すぐさま強くノックをして柊に気付かせようとするが、変わらず部屋の中から物音が聞こえ、玄関の方へやって来る気配はない。
がちゃがちゃと無理矢理扉を開けようとするが無駄で、ささらは咄嗟にアパートの周囲をぐるりと回って反対側の窓の方へと走った。
梅雨前の五月。その日は夜になっても気温が下がらず、運良く窓が数センチ開いて網戸になっていた。ささらが飛び込むようにその窓を大きく開いてカーテンの向こう側へ侵入すると、そこに居たのは金槌を振り回してけたけたと不気味に笑う女と、そんな彼女から必死に逃げる柊だった。
「さ、ささら? こっちに来るな! 逃げろ!」
女が笑いながら金槌を柊に振り下ろす。間一髪で避けたかと思いきや、すぐさま切り返すように下から金槌が振り上げられ、柊の腕に直撃した。そして彼が痛みによろめくと、大きく口の端を吊り上げた女は、片手で柊の首を掴み上げるとその頭目掛けて金槌を振り下ろした。
殺されると確信した柊の顔が歪む。
「――柊さん!!」
その時、ささらが叫んだ。
無我夢中で走り、そして――ささらの声に気付いて振り返った女の顔面に、強く握った右手を叩き込んでいた。
「ア、ギャ、アアアアアアアアアアッ!!」
今まで笑っていた女の声が断末魔に変わる。叫び声と共にじゅわじゅわと蒸発するように女の体が崩れ始め、そして数秒も経たないうちに、女は完全に消え失せてしまった。
「はあっ、はあ……」
そして女が消えると同時にささらも力が抜けたように床へ座り込んだ。
初めて、除霊することが出来た。札も無かったのに、無理矢理霊力を放出して悪霊を掻き消した。
「ささら……お前」
息を整えていたささらの前に柊が膝をつき、彼女は反射的に後ずさった。何を言われるかと怯えるささらに柊は……彼女に向かって頭を下げた。
「ひ、柊さん……?」
「正直何が起こったのかさっぱり分からん。だがお前は声を出せるようになってるし、俺が殺されそうになっていた所をお前が助けてくれたってことは分かる」
「あ……」
そこで今更になって、ささらは自分の声が出るようになったことに気が付いた。全て無我夢中で、反射的に出来たことだった。それが、女が金槌を振り下ろす前に一瞬の隙を生んだ。
「ありがとう、助かった。お前が居なかったら、俺は今頃あの金槌に頭をかち割られて死んでたはずだ」
「……」
「? おい、ささら聞いてるのか」
「柊さん、私――柊さんを助けられましたか」
「あ? だからそうだって言って」
「私、役に立てたんですよね……?」
「だから、そうだと」
「私がこの場所に居て、生きている価値、ありましたか……っ」
堪えきれずに、ささらは泣いていた。
自分が生きている価値は、ほんの少しでも生まれただろうか。死ななくても、生きていても、いいのだろうか。
「当たり前だろう」
「……」
「お前が居たから、俺は今生きてんだ。俺の命は重いんだよ。そんでもってそんな俺の命を助けたお前の命の価値が重たくない訳があるか」
少し茶化すように軽い口調で、しかしそれでいてささらの心にずっしりと重たく突き刺さったその言葉に、ささらは泣きじゃくりながら頭に温かいものが乗せられるのを感じた。
「柊さん……ありがとうございます」
生きていても、いいんだ。
「わたしもお姉ちゃんみたいにお守り作ったり、悪霊から他の人を助けたりできるかな……?」
「うん、きっとできるよ。ささらには私以上の力が備わってるからね」
「じゃあ……わたしも祓い屋になる!」
「え?」
「お姉ちゃんが助けてくれた時みたいに、悪霊退散! ってやっつけるの!」
お守りはまだ全然上手く作れないけど、私も誰かを助けられたよ。
かつて、あなたが私を助けてくれた時のように。




